茫茫漫遊記 世界一まわり編(1)
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5月21日 キール運河



ユトランド半島の付け根の所にあるこの運河は、スエズ、パナマと共に世界三大運河の 一つです。
1895年、カイザー・ウィルヘム運河と言う名で開通したのです。
写真は北海から運河に入るところです。
第二次世界大戦中、ドイツ海軍の有名な潜水艦Uボートの基地が置かれていたことをご存じの方もいらっしゃるでしょう。
キール市は海軍と造船業を中心に発展したところ。
運河を渡る橋は大型の船が通れる高さのあるもので、7つありました。

 

     

上の写真は運河を渡る鉄道です。ちょうど上を列車が通っていて良いシャッターチャンスでした。 橋桁が40メートルの高さに固定され、列車がその高さまでループ式のレールで登ると言う形式。 なかなか時間がかかるのだそうです。眺めはよさそう!

下の写真をご覧になると判るように運河の幅は狭くて、大型船はすれ違う場所が決められています。

    


両岸ともに広々とした農地、牧場の続く地帯です。菜の花が一面に咲き盛っていたり、田舎香水の 漂うところもありました。この運河の岸のホルスタイン州はあの有名なホルスタイン牛を産出した ところです。のどかに草を食べる牛の群れは運河の旅の心を和ませてくれます。

   

上の写真は運河の岸の小さな渡し場です。農家らしい建物がぽつんとあって、小さな 船着き場があります。勿論、町になっているところには、立派なフェリーの渡しがありました。

この家の脇に続く道は運河の入り口から、終わりまで延々と運河に沿って続き、サイクリングを 楽しむ人々が沢山いました。

ドイツは定年制があって、リタイアしたのではないかと見える年頃の 人々が仲良く連れ立って歩く姿があちこちに見かけられました。少し町に近づくときれいに芝を 刈り込んだ庭を巡らせた瀟酒な家々が並び、ここに住みたいなと思ったりしました。


5月30日 港町ワルネミュンデ

すぐ目の前に鉄道の駅があり、この様な列車がでたり入ったりしています。

駅は少し右側にありますが、本当に小さなターミナルでした。ここから私も列車で2時間半かけて ベルリンへ行きます。





ワルネミュンデなんて、地図でも一寸目につかない港町ですが、 バルト海にそそぎ入るヴァルノ川の河口にあります。

ここから川を少し遡ると旧東ドイツ時代の最も 大きな港湾都市であるロストックがあります。

何故か、私はドイツ滞在中、この東西分離時代の ことが頭から離れず、いつも比較してしまう癖が離れず、これはまずいと思う事が多くありました。

この町は小さいけれども、意外に古い歴史がありました。ここからデンマークやスウェーデンへの フェリーの発着所があります。運河には、沢山の小型船が止まっていました。 近くのビーチは落ち着いたリゾートとして開発されています。


5月31日 壁と緩衝地帯のあった辺り




ベルリンは,街路がまだこんな具合でした。
破壊された宮殿を元のようにするか、 それともモダンなものにするか論争の結果、元の形に建てることになったと思いますが、 このような建物は壁の代用にして使われ、荒れ放題だったようです。

私の友達は、 ヒットラーユーゲントの歌を歌って聞かせてくれましたが、颯爽として元気な歌でした。 ご存じの方いらっしゃいますかしら?理想に燃えた若者達には、予想もできない戦争の結果 ですよね。
壁はもう少し西ベルリン側にありました。この壁は旧東ベルリン側から写しました。

一部残されているベルリンの壁です。この高さは、傍の自転車と比較して見れば判るように余り 高くないでしょう?
簡単に飛びこえられそうですけれど、壁の上部に丸いカバーがしてあって、 手ではつかまることが出来ない形になっているのでした。

プレハブの壁を用いて一日で西ベルリンを 囲んでしまった事になっていますが、中心部はこの形であったけれでも、周辺は鉄条網を用いた所も あったそうです。

いずれにしろ、あの時の西ベルリンへの食料や日用品の大空輸作戦は凄かったと 思い起こされます。何が正しいのか、悪なのか、善なのか。戦争の愚かしさを本当に思わされます。


工事中のブランデルブルグ門







ブランデンブルグ門は、プロイセン・フランス戦争(普仏戦争)の時の プロイセンの凱旋門です。旧東ベルリン側に ありました。修理の最中でした。すっぽりと シートをかけられています。

修理をするときは、どこでもにシートをかけて作業をすると 思いますが、のっぺらぼーに、ただべろっとシートをかけるのでは味気ないと言うことでしょう。

ドイツの人達は、コンピューターグラフィック作成の、風でグニャッと柱が曲がったで絵や、 サッカーソックスをはいた門を描いたりして見せているのだと思います。そのジョークの 感覚は面白いですね
東西統一の時は、この統一のシンボルを共有できたことを喜んだわけです。

私たちの泊まったホテルアドロンは、ブランデンブルグ門のすぐ前です。

あの爆撃でがれき同然になったのを再建したと言う素晴らしい建物です。昔の姿を残してあるのです。

平成天皇がドイツ訪問の時はここにとまったとか聞きました。

この辺りの爆撃の様子を撮した写真が沢山ありましたが、いまではその面影もなく、落ち着いた雰囲気です。

  ベルリンフィルの音楽ホール

ベルリンフィルハーモニーの音楽ホールです。残念なことに聴きにいったのではなくて、 単にバスの窓からの写真です。


とてもユニークな、モダーンな外観のホールです。 これに対して国立オペラ座は堂々たる伝統的な建造物です。ベルリンは、今建築の分野では、 本当に新しい都市です。戦争とそれに続く冷戦により破壊されたベルリンが、壁の崩壊によって 一つになり、首都として新しく立ち上がるために、建築家たちは都市美を如何に表現するかを 競い合います。この音楽堂もその一つの表現なのでしょう。あの高貴な風貌のカラヤンのファンでしたが、 それは今となっては望めないとしても、いつかここで・・・・。と思いながら通 り過ぎました。 ポツダム広場の高層建築、ソニー・プラザ、連邦内務省、首相官邸etc. 超近代的な景観も、 クラシックな景観もいずれも驚くことばかりでした。


  フンボルト大学(旧ベルリン大学)





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歴史的なフンボルト大学の 建物をご覧いただきます。

この建物は、フリードリッヒ大王が弟ハインリッヒ王子の宮殿として 建てた宮殿(左)で、1810年、フンボルト等によって開学されたベルリン大学の授業がここで はじめられたのです。

ウンダー・デン・リンデンの大通りをはさんだ向かい側の宮殿(右)も 大学となっています。

中に入ってみましたら、学生達が使っているわけで、装飾はありませんが階段や、 ホールなど構造はさすが宮殿と言う感じでした。

このベルリン大学は東ベルリンとなったとき フンボルト大学と改称したのです。同し頃、西ベルリンではベルリン自由大学が開かれたのでした。

ウンダー・デン・リンデンにあるこの大学(左側の)の隣りに国立オペラ座があり、私たちはオペラと 言うそこのレストランでディナーをとりました。オペラ座は古い堂々たる建物で、偉容を誇っています。


  旧東ベルリン ウンダー・デン・リンデン




殊更に、旧東ベルリンと記しましたが、この美しい通りは東ベルリンの管理下に あったところでした。

朝早い時間にブランデンブルグ門の方から写してあります。実際はもっと 美しい並木通りです。

後ろを向いて、ブランデンブルグ門をくぐり、西ベルリンの方に入りますと、 ティアガルデンになり、この並木がガルデンの中にずーっと続いています。

朝の散策には実に最適。 どんどん歩きたくなりますが、???????と、なりそうでまっすぐブランデンブルグ門に引き返しました。


  シャルロッテンブルグ宮殿



シャルロッテンブルグ宮殿は、17世紀にプロイセン王・フリードリッヒ1世が、 その后シャルロッテのために建築させた夏の離宮で、バロック式の宮殿がそのまま残されています。
大戦によって破壊されたのですが、その大部分は疎開されていたので、完全に修復されました。


ここは世界遺産に指定されている地域です。
スプレー川に沿う広い庭園を持っていて、一日巡っても 厭きることはないでしょう。

后シャルロッテは教養を豊かに身につけて、素晴らしい女性でありました。

政治的にも社交的にも大変影響力のあった方だった様です。

なおこの宮殿のすぐ前に、 エジプト博物館があり、ここには、古代エジプトの宝物が展示されています。なかでも ネフェルティティ王妃の胸像はほとんど完全な姿で見ることが出来ます。

ベルリンには、 160もの博物館、美術館があると言うことです。森鴎外の下宿していたところも、小さいながら 見学出来るそうです。

一日や二日の滞在ではとてもとてもの所ですけれど、観光客である私はスーイッと めぐっただけです。間違ったことを書いていたらお許し下さい。


  ポツダム会議の行われたツェツィーリエン・ホーフ宮殿

ポツダムは皇帝ヴィル ヘルム2世が帝位を放棄してオランダに亡命してから、 影の存在になりましたが、フリードリッヒ大王の時代は、華やかな都市でした。

古く、 さまざまな歴史的建造物があります。

今日歴史的に最も重要な所は、第2次世界大戦の終結の 会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿であることは、言うまでもないと思います。


  

今はホテルにもなって使われている宮殿でした。

この宮殿は、名目上はドイツ最後の皇帝ヴィルヘルムの嫡男である太子ヴィルヘルムとその妃の 居城でした。城の名は妃の名前・ツェツィーリエに因んだものです。

英国風で、美しい中庭と 小さな湖に面した庭園は妃の趣味によると言う話でしたが、宮殿と言う感じよりも趣味のよい 山荘と言う感じでした。

太子ヴィルヘルムの残されたままの図書室に、ローリーの世界史と並んで、 古びた[JAPAN IN DER WELT](世界の中の日本)と言う本を見つけました。

歴史的な重大事を 経たと言うことは、資料館となっているところにある会議の記録や写真で知ることが出来ます。


   


こんなに心安らぐような雰囲気の庭に囲まれたところで、あのポツダム会議が 開かれたのですね。
記録を見ると、最初の会議はスターリン、チャーチル、ルーズベルトで行われ、 スターリン、チャーチル、トルーマン にかわり、次いでスターリン、アトリー、トルーマンと メンバーがかわりました。当時の世界政治のトップたちの変遷を知ることが出来ます。 ここで悠然と向き合った彼らは、戦勝国の権利を話し合ったわけでしょうね。

英国風の手入れの 行き届いた美しい中庭。内部も華美でなく、落ち着いた神経の行き届いた装飾。船が好きだったと 言う太子が特別に作らせた船室風の部屋は、地下室からエンジンの音が聞こえるように設計されて いたとか・・・。
しみじみとここから亡命したヴィルヘルム太子とその妃の運命に思いを馳せました。 ゆっくりと泊まってみたい所です。


  ポツダム・サンスーシー宮殿

ロココ様式の壮大なサン・スーシー宮殿は、 フリードリッヒ2世の夏用レジデンス。1748年に完成しました。正面入り口です。サンスーシーと記されてありました。

  

   

サン・スーシーとはフランス語で
「憂いなし・無憂」を意味し、大王はここで、自分の愛好する趣味に 没頭出来たのです。父王フリードリッヒ1世のなきがらをこの見晴らしの良い、宮殿の傍の高台に 埋葬してあります。緑に包まれた四阿(と言っても豪華な建物)があったりして、王の気晴らしは 完璧になったことだろうと思いました。




左下の写真はメインの宮殿ではなく、同じサン・スーシー・パルクの中にある 小宮殿・ビルダー・ギャレリー(絵画館)です。この噴水のずーっと左側の高台にあるのが 上の正面入り口になっています。

それは観光客がとても多くて写真は無理でした。

それに余りにも美しく、ここにお見せできる ようなものは撮れなかったのです。

古代ローマの凱旋門にならって 1770年に建設されたブランデンブルガー・トーアからつづくサン・スーシー・パルクには、 フリードリッヒ大王の、高い知識教養の結晶になる、実に美しい宮殿群が、緑の中に調和して 鎮まっているのです。

写真をお見せできない残念なその宮殿は山腹を拓いて造られていて、 その眺望はすばらしく、山腹に設計された庭園は葡萄といちじくが交互に植えられ、今は緑の葉を ひろげておりました。

宮殿の方からの眺望のみならず、庭園の大噴水の所から見上げると、 言葉がでないほどです。

本当に観光客が多すぎるのだけが、不満でした。私もその中の一人なのですが・・・。


  サン・スーシー新宮殿
 
フリードリッヒ大王がサン・スーシーの大宮殿のある広大なパルクに「18世紀最大の城」を 造営ずることにしました。それがこの新宮殿です。

サンスーシー宮殿から公園をぐるーっと車で一回りして、 その宮殿からは全く見えない反対側に建てられました。

   


  

上がその新宮殿で、下が重臣達や召使い達の 住む所でした。

ホント!ウッソ!間口200メートルもあるこの新宮殿は、うたうような優雅な雰囲気を 持っているサン・スーシー宮殿とは全く異なり、豪奢なお城でした。

フリードリッヒ大王はプロイセン王国の 権威を外国に知らしめると言う目的があり、迎賓館として使われました。

ドイツと言う國を、 私は第2次世界大戦を共に戦い、共に傷ついた國だと考えていましたが、今回旅をしてみて、その歴史にふれ、 日本とは異なる複雑な文化形成の基盤を見せつけられ、自分の無知と独断を思い知らされたような気がしています。

どこの國へ行っても同じ事を思うのですが、ドイツは殊更でした。

この日の昼食は大きな魚とアスパラガスの クリーム煮の前菜(私はこれで満腹)、白身魚のソテー・スライスドポテトのグラタン、ルバーブとチェリーの ムースでした。西洋の人々の胃袋は大きいんですね。これからアウトバーンを240q走り、 ワルネミュンデ港へ帰り、夕方には出港することになっています。この次はバルト海から北海へ出て、 ノルウェーのベルゲンです。


 

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