茫茫漫遊記 アイルランド編2
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アイルL 12
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6月12日 キラーニー 朝の虹

ホテルの庭を散策していると虹が出ました。
アイルランドは毎日シャワーと言う程度に雨が降ります。 だから、虹を見るのは珍しくはありません.。
この庭の左側が湖です。野ウサギがたくさん遊んでいました。





アイルランドの国土はは北海道程度の広さですが、ここからノーベル賞作家が4人も 出ています。

(ウィリアム・バトラー・イェーツ。サミュエル・ベケット。バーナード・ショー。セイマス・ヒーリー) 他にオスカー・ワイルド。ガリバー旅行記のスウィフト。ユリシーズのジェームス・ジョイスなどなど・・。

冬の長い國、毎日のこの天候の変化、岩や石で痩せた土地に住む人々は、自分の内面をじっと見つめるように なるのでしょうか。

この虹の立った空をご覧下さい。虹の彼方に、憧れを呼ぶような明るいところがありそうには 見ええないと、私は感じてしまいましたけれど、それは思いこみでしょうか。

でも、それだから人間の奥が見えて 来るんですよね。アイルランドの文学はこんな風土に基づくのでしょう。
妖精に注意

アイルランド人は皮肉やで、 アイリッシュ・ジョークと言われるほどに、ブラック・ジョークが得意です。

それを妖精のせいにするのも、 その一つでしょうが、これは妖精が横断中・注意!キラーニー国立公園の中の標識です。



レプラホーンと言う妖精はいたずら 好きな靴屋さんだそうです。私の地方では「熊に注意」「羚羊に注意」などという標識が彼方此方に 見られますけれど、ここアイルランドでは「妖精に注意」なのですね。

夜の長いアイルランドの冬には、 いろいろな不可思議なことが起きるそうです。そんなときには、みな妖精のせいにしてしまうのだそうです。

こんなに愛されているいたずらな妖精を思って私は「妖精の要請を受けて妖精の養成学校をつくった妖精の校長さんが、 幼生の妖精があまりにいたずらをするのでヨセと言いました」なんてふざけたことを考えました。
この標識は実際のところ、公式のものではなくて、近所のお店やさんがたてたものだそうです。

私たちはここで通りかかった妖精と一緒に記念写真を撮りましたが、写っていませんでした。。
それにしてもこんな愛らしい道路標識はまたとないのではないでしょうネ。

  キラーニー国立公園・マックロスハウス

虹を見た朝、キラーニー国立公園の観光に出ました。
リング・オブ・キラーニーと言う 観光道路は狭くて、反時計回りにまわることになっています。山腹を縫うように行く道の両側は斜面を 覆い尽くす程の自生の石楠花。
その見事さは言葉になりません。日本だったら花見の客がどっと押し寄せる ところでしょう。
菩提樹、樫の林もあり、エメラルドグリーンの國アイルランドと言う言葉を納得しました。










このマックロスハウスは豚の鼻先と言う意味だとか聞きましたが、理由は知りません。

1848年、 イングランドの銅鉱山で財をなし、このあたりを所有したヘンリー・ヒューバートが建てたビクトリア朝風の 美しい建物。周囲の美しい自然にとけ込んだ大邸宅です。

ビクトリア女王の行幸を頂き、爵位を得ようとの下心から、 大金をかけて改装をし、女王に2日間の滞在を頂いたとのこと。そして爵位をいただけたかと言うと、不幸にも 女王の夫君アルバート公の急逝のために、沙汰止みになってしまったのだとか。

経営困難になったヒューバート家は この邸宅をギネス(ビール財閥)に売却。ギネスはアメリカの資産家モール氏に売却。モール氏は結婚する娘の為に 購入したのですが、まもなくその娘もモール氏も亡くなり、残された娘婿のモール氏が1937年、アイルランドに 寄贈して、キラーニー国立公園の設備の一つ・民俗博物館になったという話・・・。ロングロングストーリー・・・。 現在82歳のモール氏はモンテカルロから、誕生日には毎年ここでお祝いを受けるそうです。

案内をしてくれた 青年が美しい英語で分かりやすく解説して、好感を持ちましたが、最後にアイルランドの国語である ゲール語で解説板を読んでくれたのには感動しました。ちっとも理解は出来ませんでしたが,詩を朗読しているような感じでした。

因みに、 英国の支配が長かったアイルランドでは、国語であるゲール語を正しく話せる若い人が少なくなったそうです。

小学校で必ず学習しますが、生活の言葉としては失われつつある言葉です。今ではアラン諸島の人々だけが 使っているとか・・・それを学ぶために、アラン諸島に本土の小学生が合宿すると言う話でした。


6月13日 雄弁の石のあるブラーニー城

英語のブラーニーの意味をご存じでしょうか?辞書をひけばBlarneyとはお世辞・甘言・口実と 言うような意味があります。このお城はマッカーシー家によって1446年に要塞として建設されました。 そのマッカーシー家はエリザベス1世の要望に、言を左右にして、上手く言い逃れをして、なかなか応じませんでした。 それで出来た言葉がブラーニーなんだそうです。




今は廃城で、フロアも屋根もなく外壁に沿ってある石の螺旋階段を 使って26メートルある屋上の外壁にあるブラーニー・ストーン(雄弁の石)に仰向けに寝転がってキスをするのです。 石にキスをすると雄弁になると言われていますが、脚を押さえてくれる専門の人にチップを払って何のことはないような 石にキスをするのです。石ではつまらないでしょ?如何?

この石には様々な言い伝えがありますが、いずれにしろ「イワシの頭も信心から」の類でしょう。ただ、この石の おかげで観光客が押し寄せることになり、ブラーニー村はアイルランドで一番大きな(有名な)村です。

マッカーシー家は、広い庭園の中に城のような大きな邸宅を構え、現在でも住んでいます。

ブラーニーも英語ですが、日本語となってしまっているようなリンチもボイコットもアイルランドの人の名前から 出来た英語の単語でした。あまりいい感じの言葉でないところが、英国とアイルランドの関係を暗示しているみたい・・・。

  ブラーニー城の魔女の庭園

ブラーニー城の庭園は、余り整えられ手をかけれているところではありませんでした。






草もぼうぼう、小さな川も、自然のままに流れていました。どんどん行くと、魔女の庭園だとか魔女の台所などと言う 処へたどり着きます。

お前がオカシゲナマジョみたいだから、殊更この魔女の庭園に惹きつけられたんだろう などとは仰有らないでください。

上の写真は魔女の階段で穴が開いていて、その中に石の階段が13段ほどあります。 そこを後ろ向きになって、目をつぶって、願い事をしながら登れば、その願い事が叶うと言うのです。

そんなことは簡単だと早速やってみましたが、願い事は何をすればいいのか咄嗟には決めかねるほどに多くて、 仕方がありませんから「よろしくお願いします」と言うことにしました。

魔女はわかってくれたでしょうか? 後ろ向きに目をつぶって登るのも、そんなに簡単ではありませんでした。

下の写真は魔女石です。
魔女の顔ってこんなに変なんでしょうか?私の方が美人だとふと思いました。

こんなことを言うと、魔女の怒りを買い、明日は見るに耐えない有様になってしまうかも 知れませんね。

  コーク郊外40キロのレストラン

送られて来ていた献立表には「今日とれた魚」とありました。
コークの街を離れること小一時間。 上手い具合にお腹が空いた時間に到着したのが、このレストラン。


延々と続く麦畑の中にありました。
緑あふれる野中のレストランです。
このレストランは農家のバリー・マール家の妻・ミルチーが嫁のダリーナに 料理法を伝授して客をもてなしたところ、その美味が評判になり、今では料理学校を経営するほどに 迄発展したものです。




    

もしかしてお腹が空いていたから美味しいと感じたのかも知れないと 皆様に思われるかも知れないと心配していますが、 本当に美味しかったんですよ。


広大な自分の家の畑の中にポツンとたった一軒だけあると言う感じのレストランですけれど、 本当に季節の食材を使い、お魚も先述のように「今日とれた魚」と言う具合の調理です。

何冊もの料理の本を 出版するほどのスゴイ料理人が、アポイントを取った数だけ調理するのですから、それにあずかった私たちも 大変に恵まれたお客と言うことになります。

待たされた部屋は観葉植物や花の咲く鉢が飾られている硝子張りの部屋でした。

白く清潔な食堂でテーブルウエアも すっきりとして、格式張っていないし、本当に心から食事を楽しめそうなところでした。

今日とれた魚は鮭でした。蒸し煮にした鮭は本当に美味しかった。それに付け合わせのにんじんのグラッセは、これが同じにんじんかと思うほど。ジャガイモも、単に塩ゆでしただけ なのに吃驚するほどの美味。ズッキーニのトマト味の炒め物も美味。

デザートもご覧の様によりどりみどり。メレンゲ、ゼリー、オレンジムース、 ブルーベリームース、ミックスアイスクリームにヨーグルト・・・・。太ることなんかもうすっかり忘れてしまいました。
今晩食べなきゃいいや。なんて考えました。


そしてその夜はどうなったかと言うと、コークのホテルに3時半に到着し、 自由時間にコーク大学を散策、探訪してまわり十分にカロリーを消費したと信じて、7時から、きちんとビールをのみ たっぷりのディナーをとりました。

これがアイルランドて食べる最後のディナーだと思い、まずは乾杯「スローンチャ」 たったひとつ覚えた単語。そして「ゴ ハン マッシュ」もはや体重を考える余裕はもうありませんでした。

6月14日 朝のコーク大学










コークはもともと湿地帯に出来た街で、ケルト・カソリック・ヴァイキング・プロテスタントと言う 支配の変遷を経ながら大きくなって来たところです。
1927年のアイルランド独立戦争ではかなり破壊されましたが、 今ではその痕跡もありません。
コーク大学は、ダブリンのトリニティカレッジに対応する大学です。学生数は 7000人を数え、キャンパスの中に公道がありました。

旧い石造りの宮殿のような重厚な建物群と、モダーンな 建物が共存していました。医学部・病院はこのキャンパスにはなくて、見逃しました。

ホテルのすぐ目の前が コーク大学のキャンパスでしたので、昨日は入って散策しましたが、少し離れている正門の方には今朝やって来ました。

朝早かったので人影はなく、正門はとざされていましたが、左の写真のように、まるで日本の風景のようなしずかな 構内を見ることが出来ました。周辺もさわがしい雰囲気ではありません。

学問をする環境に、本当に恵まれていると 思うことしきりでした。

ホテルの近辺は高級住宅地で、プライベート・ドクターの表札をかけている家が何軒か ありましたが、この國の医療制度については聞かないでしまいました。


  コーク・シャンドンの鐘楼

アイルランドの主要産物であるバターの取引所あとのバター博物館を見ます。取引所は1770年に 開かれましたが、1924年に閉鎖され博物館になりました。

冷蔵のなかった時代にその塩蔵保存が発明されて輸出に成功したのだそうです。泥炭の・ピートの中に保存された、古い古いバターなどが展示されていました。

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すぐそばにある聖アン教会。
ここは1690年に、ウィリアム三世の侵攻で、隣の砦(シャンドン)と共に 破壊されましたが、この鐘楼は1804年に再建されたものです。

    



  
黒い時計がついているこの塔の中の螺旋階段を 登り詰めて、鐘楼の鐘を鳴らして見ます。

この鐘は音階を奏でることが出来るので、楽曲のメロディをひびかせる ことが出来るのです。

誰でもどうぞと言うことで、私も試してみましたが、自分のついている音は幸いなことに 自分の耳に聞こえて来ませんでしたから、それがどんな風に響いていたのかわかりませんでした。

後で考えたのですが、 この鐘楼の近辺に住む人々は、おそらく毎度毎度調子の狂ったメロディを聴かされることになっているのでは ないでしょうか。

これはちょっと気の毒な話ではありませんか。私たちの騒音は朝の10時からはじまったわけですから、 ここの人々の一日が無事でありますようにと、心からの祈りを籠めねばならなかったと思います。


  聖フィンバー大聖堂





ケルトの時代から、ここには宗教的な礼拝所があったとされる場所に、聖フィンバーが7世紀に なってからカソリックの教会と神学校をつくったのでした。

8〜9世紀には国内外から優れた聖職者が集まったと 言う歴史のあるところです。

あの英国によるプロテスタントへの宗教改革で、多くのカソリックの教会がなくなった 時代に、プロテスタントに改宗し、イギリス正教会の聖堂となったと言う経緯があります。

ジャガイモ飢饉の時の 死者17000人以上が、この聖堂の下に埋葬されていると言います。

19世紀になって、信者の敬慕をうけていた ジョン・グレッゲと言う司教が、フランス・ゴシックの聖堂に改装を行いました。

説教台だとか、司教の座る椅子だとか、 設備の数々を詳しく見ると、カソリックからプロテスタントに移行してゆく時の流れを知ることが出来ます。

ステンドグラスにはキリストの生涯を描いてあり、素晴らしいものでした。

この大聖堂に大変誇りを持っているらしい 女性のガイドが非常に熱心でひきこまれる感じになりました。

今日でアイルランドとはお別れです。長かったようで、短かった7泊8日の旅でした。写真も、もうあと一枚だけです。いろんな意味でよい旅をしたと思います。 皆様にもお薦めです。


  コークの街・やらずの雨です。


今日の午後、アイルランドを離れます。コークの空港から、ロンドン・ヒースロー。 ロンドンに一泊してから、ニューヨークへ向かいます。

長い旅も終わりに近づきました。コークは今朝から雨模様です。

アイルランドの雨ですから、大したことはありませんが、バスの窓から写したので、窓の雨粒が写っています。 やらずの雨!ここが一番の繁華なところだと思います。

アイルランド最後の買い物をすると言う人の要望を受けて、 ショッピングモールの前にバスが止まりました。買い物の余り得意ではない私は、いつも10割引の ウィンドウショッピングです。


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