茫茫漫遊記 世界一まわり編(1)
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6月7日 アイリッシュダンサーたち

今回の旅の主な目的は アイルランドでした。

日本にアシスタントランゲージティーチャー(ALT)として来ていた女性とダブリンであうことになっていて、ダブリンに着く前の晩メールで連絡しました。





ダブリンで下船しの前の晩、アイリッシュダンスを見ることが 出来ました。

昔、王が民衆の歌舞、遊技を禁じた時があったそうです。その時、窓から見えても踊っていると 言うことがわからないようにステップだけのダンスをして楽しんだのが始まりだなどと、解説をされましたが、 上半身を動かさずに、バランスをとって、複雑なステップを踏むのには驚きました。

脚の長い西洋の男性の ダンスはうっとりします。特に今回はステップを見せて貰ったわけで、ますます良かった。

申し訳ないけれど 日本の男性は座高が長い。私どもの世代はことにそれを感じさせられます。そうでない方もいらっしゃるで しょうけれど・・。

それにアイリッシュ・ミュージックがよかったです。

哀愁を帯びたフィドル(ヴァイオリン) が何とも言えない雰囲気でした。はまってしまいそうです。

ダブリン港遠望(朝)
 
 

これは港に入る朝のダブリン風景。アイルランドウェザーの典型的な朝の情景です。


ダブリンの旧市街は建造物に 高さの規制があり、昔の街の情景を壊さないようにされて居ました。

港の方に新しいオフィス都市計画がされていましたが、 まだまだ建築途中で、閑散とした様子でした。

私たちのついた港は工業地帯にある港で、歩いての交通は 規制されていました。





アイルランドに来て、初めてアイルランドのジャガイモ飢饉なるものの詳細を知り、飢饉から逃れて 國を出た人々が、世界をリードするに至ったそのハングリー精神についても知りました。

司馬遼太郎のアイルランド紀行を読んでゆけばよかったのですが、帰って来てから読むと言う愚鈍さです。でもそれもまた感銘深いものがありました。

ダブリンの港まで来ていたウナ(ALTだった彼女の名前です)は日本で買った赤い中古車(ホンダ)で来ました。15年前のもの。 未だにノートラブル、日本の車は良いとのことでした。

彼女とダブリンの街をダブルデッキバスで、一巡り。トリニティ(三位 一体を意味する)カレッジでその膨大な量の古書の蔵書に圧倒され、9世紀初めにされたと言う精緻に 装飾された福音書(ケルズの書)に感動し、ギネスビール工場で一杯飲んでご機嫌になって過ごしました。

夜は彼女のボーイフレンドと4人で若者の集まるテンプルバー・スクエアの レストランで夕食をしました。

9時過ぎてもまだ明るいこの若者達の広場には、私たちには少し肌寒い気候なのに、 おヘソだしのスタイルの女性が沢山いました。

6月8日 不思議な遺跡構造物

今日はダブリンから約60キロ離れた世界遺産の ニューグレンジに来ました。







この國はエメラルドの國と言われるだけあって、木々の緑、草の緑は 冴え冴えとしています。一日に何度も降っては晴れるシャワーに洗われるせいでしょう。

右の写真の穴の 下の方の入り口から、一度に30人位、すれ違うことさえ出来ない細い通路をレンジャーの案内で進み 中心の石室に到達します。

冬至の前後7日ほど、入り口の上の四角い採光口から、石室の中に光が入り、 石室を照らす構造になっているのです。日本の天の岩戸伝説をふと思いました。

北国の人々はおそらく 心から春を待ち望み、冬至の日には最も日が短いことを知っていたでしょうから、この日の光を石室の 奥で待ったのではないだろうか.,などと想像をたくましくしました。

5500年も前の建造物で、 石室の天井は構造力学的に巧緻なバランスをもって組み上げられ6メートルほどの高さがあります。
発見されたときに5体分の焼かれた人骨が、大きな石の盆のようなものの上に発見されたとのことですが、 何の為に、この建造物が使われたのか判らないのだそうです。

入り口の前には、先史時代からの古い文様の 渦巻きが美しく彫られた石が横たえられてあり、内部の石室の天井や壁面にも同じような文様が刻まれていて 驚異でした。日本の天皇・皇后もここでこの石室に入られたそうでした。

6月9日アイルランド人の心のふるさと タラの丘とセントパトリック像

ケルト族の遺跡で、ここで三年に一度ケルト族の首長・タラが祭祀が行ったところと されています。はるばると四方を見渡すことの出来る丘で、ケルトの魂のよりどころなのだそうです。

       

    




他にも遺構があるようですが、今は教会があり、聖パトリックの像が静かに立っています。

何故かと言うと、 聖パトリックがカソリックの信仰を初めてケルトの民に説いたのがここだったからだそうです。

ケルト独自の祭祀のあるところにカソリックの布教は難しかった筈ですが、その原始宗教を捨てない形で、 キリスト教を布教すると言う聖パトリックのやりかたが受け入れられて、アイルランドのカソリック教が ひろまりました。

墓標の十字架もケルト十字と言う独特の形をとっています。やがて英国正教会の プロテスタントによる迫害を受けることになりますが、それは後のこと。

「風と共に去りぬ」の中で 流れるあの「タラのテーマ」。アイルランドのジャガイモ飢饉の時、アメリカにわたったスカーレット・ オハラの一族の祖?が、苦難の果てに成功して築き上げた農場の名は「タラ」でした。アイルランド移民の 心はふる里アイルランドそしてケルトの誇りを忘れることがなかったのでしょう。

今アメリカには4千万人 ものアイルランド系の人々が暮らしています。因みに、名前に「オ」のつくのはアイルランド系だそうです。 「マック」も同様。オ・コンネル。オ・ハラオ・カッスル。マッケンジー。マックドナルドなど・・・。

遙かにひろがるみどりの草原には長閑に牛が飼われ、羊が群れていました。


  アラン諸島の一つイニシュモア島のダンス

ゴールウエーからも船がでていますが、ロザビール港の方が、良い船が出るとのことでバス移動します。 例のジャガイモ飢饉の時に、最も多くの飢餓難民がでたのがこの辺りだと聞きながらはりえにしだの花を見ながらの移動でした。
ジョン・フォードの一族もこの付近だそうで、今はその関係者がB&Bを経営しているそうです。








連絡船は凄い揺れ!気色を見るゆとりなど全くなし。45分の難行の末、イニシュモア島に辿りつきました。

船から下りるともうこっちのもので、みなご機嫌です。小さなレストランといくつかのお土産やがある波止場。 海からの激しい風に髪を乱して歩きます。


アラン諸島は百年前、劇作家シンクがこの島の紀行文を書き、 この島を題材とした悲劇「海に騎りゆく人びと」を書いたことで有名になり、ドキュメント映画「アラン」を フラハティが作成されたことで知られるようになりましたが、それまでは先史時代の遺跡がのこる秘島でした。

風を石でつくった垣で防ぎ、打ち上げられた海草を敷き詰め、石を砕いてつくった僅かばかりの土に、 草を育て、牛や羊を飼い、男達は荒海にこぎ出して漁をして暮らしていたのです。

今は観光客が押し寄せる (その中に私もいる)島になり、B&Bを経営したり、男達は観光用のミニバスの運転をして島の中を 案内すると言う生活に変わりました。

男達が荒海に出るときに着た、女達が心を込めて編んだセーターが 今ではアランセーターとして産業になってしまいました。

レストランのオーナーも我々の為に アイリッシュミュージックを演奏し、ダンサーを踊らせてサービスしてくれました。狭いレストランの中を ドシドシと踏みならして踊りました。これは先日のアイリッシュダンスとは異なった雰囲気を持つ フォークダンスでしたが、こちらの方が古いと思います。フィドル(バイオリン)はありませんでしたが彼らの心からのサービス精神にうたれて、拍手ハクシュでした。

これがランチです。島のプリミティブな料理ですから、美味とは言いかねますが、 この凄いロブスターは如何ですか。あのダンスを見ながらの食事です。すっかり観光客馴れしてしまったここの 生活を感じさせられます。
  アイルランド・アラン島 これがランチの一皿よ!










この島には、青銅器時代のものとされる遺跡・ダンエンガスの砦があります。 ミニバスで20分ほどの所でした。初めは全円形だったのが、半分海に落ち込んで断崖になっています。 写真をうまく撮れませんでしたので、お見せできません。軍事的なものか、宗教儀礼のものかも判然としないものです。
断崖の向こうは大西洋。荒れて白波の立つ彼方はアメリカ大陸。アイルランドでは、コロンブスのアメリカ発見よりも 早い時期(6世紀)に、聖人ブレンダがアメリカを発見したと信じられています。
ミニバスでアザラシが 見られると言う海岸線の細い道を行きましたら、アザラシでなくなんと素っ裸の青年が、バスに向かって立ち上がって 手を振ってみせました。みんな「ワーッ」と喚声をあげ、「あれがアイルランドののアザラシ?」などと言いながら大喜び?しました。



  アラン諸島・イニシュモア島 七つの教会跡



連絡船乗り場の 近くの店で、絵はがきを買いました。息子に、季節はずれながらアランセーターを一枚、 お土産として買いました。私も欲しかったのですが、何しろ大変に嵩張るので、持ち帰るのが大変だから我慢しました。 二度と来ることはないでしょうが、今度来たとき買うことにしました。これは諦めのための口実です。 帰りの海は来たときと同じコースとは思えぬ程に凪いでいて快適。船は来るときよりも速く進むような感じでした。

ロザビールからホテルのあるゴールウェーまで、アイルランドのグリーンを楽しみました。



苛酷な自然環境を修行の場として選んだカソリックの修道僧達でした。

この石だらけの 荒涼とした風景の中に、七、八世紀には、ローマからも修道士が来るなどして修行したとされるのですが、 英国の支配とクロムウェルによるカソリックの迫害により、殆どのカソリック教会や修道院は破壊されて しまい、この様な残骸のようになった教会があちこちに残っていました。
ここには七つもの教会(修道院)が あったのです。修道士達の墓地、住民の墓地として使われている状態で、ここは史跡として残されていました。

この写真では一つしか見えませんが、丸で囲んだケルト十字架が沢山あります。自然信仰のケルト族に、 聖パトリックがリスト教を融合させる形で布教したことが、この墓標の形でも推し量ることが出来ます。

説明が長くなりましたが、このカソリックと英国國教会との対立は、アイルランドの歴史の中では最も大きく 重い問題なのでした。随分まじめな話が長くなりました。

6月10日 ゴールウエーのホテルの庭にある プルマンレストラン



ゴールウエーのホテルです。

その庭にあるレストランはオリエント急行のプルマン食堂車を そのまま置いてあって、使われています。
内部も素敵でした。



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私たちは残念ながら見るだけで、こんな写真を 撮りましたのでご覧下さい。

二度と来ることはないでしょうが、今度来たらここで食事しましょうねなーんて、 たわいない話しをしながらのぞき込み、朝の庭を散歩したと言うのが現実です。

食堂車の窓の向こう側は、 はるばると広がるホテルのゴルフ場でした。

このプルマン食堂車は昔日、ウィンストン・チャーチルや、 ローレンス・オリヴィエなどを運んだそうです。

あのアガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」の 撮影に使われたとありました。

このホテルはもとは貴族の館だったとかで、その奥方様のための小さな教会も たてられていました。

ゴージャスで食事もよくてお薦めですが、郊外でしたので、周辺には何もなくて、まことに静かなホテルでした。若い人々には物足りないかも 知れません。

クリントン夫人のヒラリーさんも滞在したことがあるそうで、写真がありました。

朝のゴルフ場には野ウサギが遊んでいました。


  コマネラ国立公園 カイルモア修道院

アイルランドには高い山はありませんが、このコマネラ国立公園の森と渓谷、岩山に囲まれた 風景には感動します。

アイルランド移民の子であったジョン・フォードが監督して作成した「静かなる男」の ロケ地はこの地方で、撮影に使われた橋は今では、静かなる男橋[QUIET MAN BRUDGE]と呼ばれているそうです。











ちらりと遠くにみて過ぎました。ピートランドと呼ばれるこの地方は、大部分が湿地平原。切り出されたピートが、 彼方此方に積まれてあり、今でも燃料として使われているのでした。穏やかな暖かさだそうです。
丘と、石灰岩と、 森林と草地の湿地帯が交錯していて、何とも美しい風景です。静かなる男のスタッフも、その美しさに打たれて、 なかなか計画通りに撮影が進まなかったとか。因みに主役の「モーリン・オハラ」は、アイルランド系の女優です。

下のカイルモア修道院は19世紀に綿織物で財をなした英国に下院議員が、妻の為に建てた邸宅だったのですが、 妻を亡くして、傍にゴシック様式の聖堂も建てたものです。

今は女子修道院になっています。付属の寄宿制の学校も あります。夥しい数の樹木も移植されて、この一帯を美しい緑で覆うようにしつらえ、人工湖をつくり、 そこに周囲の風景を映すと言う構成で、自ずから心が和みます。
それも愛する妻のための大邸宅。 と聞けば溜息がでます。

ここを訪ねた日は、典型的なアイリッシュウェザーで、晴れたと思えば、雨。雨かと思えば晴。 湖の上をわたる雨が白く泡だって見えるのも珍しい風景でした。このシャワーのおかげなのでしょうか。
木々のみどりはまことにさわやかでした。

ピートランドを流れる川の水は、透明ですが薄い茶色(ウイスキー色)でした。 ウイスキーはこの水からつくる訳ではなさそうですが、私の想像はアイリッシュウイスキーにとびました。 アイリッシュウイスキーはスコッチよりも歴史が古く、この方が美味くて上等なのだそうですね。
残念ながら私には区別がつきません。修道院を訪れてウイスキーを話題にする・・・。なんとフキンシンな私でしょうか。 ごめんなさい。


6月11日      みどりと羊と廃城 バレン高原カルスト台地  ドルメン

アイルランドには、沢山の古城がありますが、今日でも城として使われておるものは、 ありません。王がいて統治しているわけではありませんから、当然です。残っていて、

観光用に使われているものが、 いくつかありますが、古城の様な邸宅に住む人は多い様です。

英国の支配を受けた時代にカソリックの王、 豪族、教会は迫害をうけて、破壊の憂き目にあって回復不能のこの状態になりました。しかし、 これがかえってアイルランド的風景と見えます。

石、廃城、みどりの草、羊という取り合わせはいかがですか。 この辺りでは人影は見ることがありませんでした。石造りですから、外壁は残っていますが、屋根はなく、 床もなく、荒れ果てると言う表現がぴったり・・・。ここではゴーストや妖精のお話が現実味を帯びて来ます。








バレン高原はえんえんと続くカルスト台地でした。岩の透き間には短い草が生えていて、 ここでは牧畜が主たる産業だとガイドが言いました。

ガイドはケイコさん。ビートルズに憧れて、高校卒業後英国に来て、 アイルランド人と結婚したと言う経歴の持ち主。ビートルズのうちの3人は、アイルランド系ですから、 それも因縁かも知れないですね。

牧畜だとは言っても、岩また岩の馬連高原の風景の中には牛も羊も見あたりませんでした。

この石の構造物は、ドルメンと呼ばれていて、先史時代の墓であろうと考えられています。「巨人のテーブル」などと 言う話もあります。巨人伝説などが沢山あり、その「英雄のベッド」だと言ったりもします。

日本のあの「石舞台」に 類似していますが、土が全くないような風景の中で見たこの建造物は、実に不思議で「巨人のテーブル」 「巨人のベッド」と言われたら、納得してしまいそうな感じでした。

高原から少し下がるとスレートの様に薄く はがれた石をレースの様に積み上げた塀で区画した草地になり、牛や羊が見られるようになりました。

この辺りはオブライエン一族が支配していたところで、その城や砦、塔が各所に残っています。クロムウエルによる 宗教改革戦争のとき、夫の屍の引き取りを拒んだ上、政略結婚までして、領土を守ったとされるオブライエンの妻の話を 聞かされました。

領土を守ると言うことのすさまじい執着は驚異とも感じられました。そんな話を聞いて、 私だったらどうするかしらと考えるのは笑い話ですか?今日は話が随分長くなってしまいました。お目汚し、お許し下さい。


  飛沫のあがるモハーの断崖
        











バレン高原から、モハーの断崖に近づくと、はるばると続くみどりの草原が、ある高さまでで 切れているのが見えます。

そして、その幾ところかから、白い飛沫が上がっているのが見られます。 「あの果ては断崖です」と、言うガイドの説明を聞くと、何キロも断崖が続いていることになります。

その断崖の際まで、緑の草原なのでした。近くにバスを止め、断崖の展望塔まで坂の路を歩きます。

崖から吹き上がる風がものすごい勢いで、体をまっすぐに出来ない程でした。途中、飛沫の上がっているところでは、 急いで歩かないとびしょぬれになります。

海は晴れていましたが、白波が200メートルもの高さの断崖の肌を 噛んでいます。

モハーとは「廃墟になった崖」と言う意味だと聞きました。
領主オブライエンが建てた展望塔に登り、 吹き付ける風に息を詰めて展望。何とも凄まじい風景でした。

このあと、バスはボンラッテー城に行きます。 途中、古い修道院の廃墟をいくところか見ました。宗教戦争の激しさを思います。

ボンラッテー城は、 1425年建築の砦を兼ねた城で、華やかな装飾はなく暗く陰鬱なアイルランド的な内部でした。
ここでは、 観光客も参加出来る中世晩餐会が開かれているとか。献立は美味しそうな感じはしませんが、何しろ雰囲気があると 思います。

機会があったら、皆様、ご計画に組み入れてご参加になられたら如何でしょうか。私は今度行ったら 是非とも参加しようと思っています。ただし、「今度行ったら」と言う条件が満たされる時があるでしょうか。フフフ・・。

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