茫茫漫遊記 初めての世界一周編


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5月22日 サンフランシスコからヨセミテへ




パナマ運河を過ぎ、17日にアカプルコを体験したら今度はサンフランシスコです。昨夜は星座観測に出かけました。海の上で仰ぎ見る空は素晴らしいです。体験されることをお薦めします。
今日は6日ぶりの上陸。朝明けの金門橋をくぐって気分です。湾の真ん中に監獄島があります。昔アル・カポネが収容されていたことがあるのです。すぐ近くにあるように見えても、脱獄不可能。潮流の早さ、冷たさ、そして鮫が棲息していると言うのですから・・・・。

ここの話はあとにして、今日はまっすぐ港からヨセミテ国立公園に向かいます。少し郊外に出ると道紅は種々の花が咲くのどかな田園風景になります。渺茫たる牧草地、牛が飼育されているところ、地平線までつづく果樹園。素朴な鉄道線路がつづき踏切があります。2500メートルまで一気に山を登ると、眼下には川をせき止めて造った人造湖。フローティング・ハウスと言うフィッシングのリゾートの家が浮いて見えます。規模の大きさは言葉に出来ません。道端の果樹園からゴッソリと果物を買い込みました。
国立公園入口で関門通過。「何も持ち込まない。持ち出さない、残していいものは足跡、とっていいものは写真だけ」と言う徹底的な保護をして山火事なども自然のなしたことは自然に・・・。何年かに一度は下草を焼き払うための人工的な山火事を起こしたりしているとのことです。ヨセミテと言うのは熊・グリズリーの事だそうですが、今は見かけなくなったそうです。
轟音を立てて流れる川に沿い渓谷に入っていくと、春の一斉の芽吹きです。それをすかして花崗岩の岩山が見えます。雪解け水で嵩を増した瀧が流れ落ちるのは壮観と言うより他ありません。
ヨセミテ大滝は落差740メートル。大量の水は白い礫のようです。「日本だったら忽ち鳥居が立つな」と夫が言います。「ホント。ホント」と頷いて、仰ぎ見ると眼鏡が濡れて何も見えなくなりました。

5月22日 エル・キャプテン








エル・キャプテンと言う巨大な一枚岩です。目前に切り立った岸壁は見あげると首が痛いくらいです。ここには何とこの垂直な壁で岩登りをする命知らず(私だけの思いでしょうか)3組もとりついていました。望遠鏡で見ても、針の先程度にしか判定できません。見つけて歓声を挙げましたが、今は岩登りに一番いい季節で、何日もかけて登るのだそうです。冬は極端に寒く、夏は目玉焼きが出来るくらいの暑さになるそうですから・・・・。それが趣味だと言うのでしょけれど、何とも命知らずな人々がいるものですね。


次の日はマリポサグローブにゆきます。凄まじいまでのセコイアの巨木の林。昔の百科事典で車が通る写真を見たことがありましたが、それは何年か前に倒れてしまい、「倒れたトンネルの木」という標識をつけられた根っこがありました。他にも樹齢2000年を超える巨木には一本ごとに名前が付されています。樹皮は厚さが25センチもあり、柔らかく繊維質でスポンジ状なので雨を吸い込み歓送しにくくなったいるのだそうです。ここを国立公園にする運動をして、やがて公園管理人として過ごしたガレン・クラークの小屋が小さな小さな展示室になったいて森の中にありました。電気はもとよりありませんから、暗いその小屋の中に、案内書や大きな松ぼっくりが展示してありました。ここで絵はがきを買いました。

5月24日 金門橋・ゴールデンゲートブリッジ




百年も前に、この橋を構想し、設計し現実に建設した人の大きな見通しと実行力。そしてその造形美に感動します。
話は別ですが、サンフランシスコは同性愛者同士の結婚を認めているところだそうです。ツインピークと言う高見から街を展望するのですが、途中同性愛者が多く住む街を通りますと、そのシンボルとして7色の旗が出ていました。不思議な感じがしました。


アザラシの昼寝



フィッシャーマンワーフ、ピア39へ行く。ここにはもうピアはなくなっていますが、その後でサンフランシスコで一番新しくお洒落な街に生まれ変わったとのふれこみでした。お土産、食べ物や種々雑多な店や、チョットした広場には回転木馬が置かれて、若い世代にはきっと楽しいところでしょう。寿司やがあり、ゴム手袋をはめて寿司を握っているのには驚いてしまいました。
アザラシが船着き場だったところの台の上に所狭しとならんで昼寝をしているのが何と言っても面白かったです。伸びをしたり欠伸をしてはまた寝転んだり、人間なんか全く眼中にない様子です。海流がつめたいからここに住んでいられるのでしょうね。


この後、ラスベガスへオークランド空港から出発してカジノの喧噪の中に身をおきましたが、省略します。ラスベガスからグランドキャニオンへは日帰りで、出かけます。
5月25日 グランドキャニオン




グランドキャニオンに向かう飛行機は20人乗り小型プロペラ機、女性機長でした。
上空からフーバーダムとミード湖を俯瞰します。フーバーダムは今では世界一とは言えないのですが、建設当時の技術と、アメリカの自然資源の大きさを思わせて余りあります。
グランドキャニオン・標高2200メートル。1919年に国立公園となり、樹木の殆どは3種類の松で占められています。ヨセミテもそうですが、ここももともとは原住民の土地であったわけですのに、彼らは少数民族として狭い居住区に追いやられているのだと思うと複雑です。エンジェルビューと、ヤヤバイポイントだけの観光でしたが、はるか谷の下を細く赤い筋のように流れるコロラド川です。そこをゆくラバのツアーの列が望まれました。体重90キロという制限付きのツアーで、三日がかりのものだそうです。それはともかく、この景観は人間の小ささと自然の偉大さを思わせるものです。
ラスベガスに帰って次の日、ロサンゼルスに飛びました。

5月27日 舗道のサイン




ロサンゼルスは空気が臭います。370万都市です。空港は休みなく飛行機が飛び交います。
マリーナ・デル・レイと言う人工のヨットハーバーとサンタモニカを廻り、メキシカンレストランで賑やかな音楽のサービスの中で食事をしました。
ハリウッドは想像していたよりもごちゃごちゃしていて、ユニバーサルスタジオなどは、田舎者の私たちには取り付きようもない処でした。ハリウッドの歩道に、スター達のマークのついた敷石がはめ込まれていましたが、老人の私は、ジュリー・アンドリュースと言う名前しか知りませんでした。チャイニーズシアターのスターの足跡や、サインや手形も、新しい人のが多くて、グレゴリー・ペック、ゲーリー・クーパー、エリザベス・テーラーなどと言う一時代前の俳優達のものを発見してうれしがりました。

ホテルは官庁街に近く、傍にリトルトウキョウがありました。事故で亡くなった宇宙飛行士・鬼塚さんの記念碑がありました。日本人街の中には櫓があったり、日本にはない二宮金次郎の銅像があったりして愉快でした。

5月28日 ハワイ




ロサンゼルスからハワイに移動して、乗船しました。
3時間の時差です。
床屋に行かなければならない夫は、アラモアナショッピングセンターの中で床屋を見つけました。殆どの処で日本語が通じると言うことでしたが、床屋は流石に通じませんでした。粗末だけれどさっぱりしました。
小さな水族館に入りました。60才以上の人は半額だということでした。タクシーを呼んでもらい、ハワイ大学を見にゆきましたら、ハンガーストライキをしている学生達がいました。汚い字のプラカードを立てて静かでさびしいハンガーストライキでしたが、目的はよく見ないでしまいました。
出港は午後7時。市会議員だという日系の婦人が挨拶をし、埠頭でのハワイアンダンスと、水煙を上げる船に送られて、アローハを連発しました。

5月31日                               ミッドウェー沖を航行



     朝、7時25分、ミッドウェー島の近くを航行しました。              
   珊瑚礁のある島の廻りの海は静かに凪いでいて、
     緑色がかった色をしていました。         
      水際まで緑に覆われて、標高のほとんどない
                 小さな島でした。                  
   こんな処まで沢山の船がやって来て、沢山の人々が
    戦って亡くなったのですね。          
               今は自然環境保護局に管理されていて、近づけないのだそうです。          
                     小信天翁が沢山とびかっていました。
                                                          
6月6日                     下船です。
無事日本に帰り着きました。これから留守の間のことを整理するのは大変ですが、よい思い出を作ったと言う
満足感があります。
日本は梅雨真っ盛りでした。



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