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ベニスです。 | |
ロマンチックなところですね。少し滞在してみたいところです。 何か物語が始まりそう・・・・・・・。 こんな風に想うのは昔見た映画の影響かも知れませんね |
入港したのはサンマルコ寺院まで10分ぐらいの岸壁です。岸壁でのんびりと釣りをしている老人がいたりして・・・・。下船して段々のついた太鼓橋を三つ渡るだけでサンマルコ広場でした。寺院を飾るのはベネチァングラスのモザイク。色褪せることなく輝いています。マルコはヴェネチアの守護聖人なのです。マルコポーロはここの生まれなのでした。 内陣の装飾も壁面の装飾も天井の絵も輝いています。ただ建築当時からのモザイクの床は地盤沈下によりうねるように波打っていました。 デュカーレ宮殿は天正の少年使節がヴェネチアの王と謁見したと言う部屋があるかと思うと裁判で死刑を宣告された人が引き立てられてゆく隠し戸があったり、チチアーノ、ベロネーゼティントレットなどヴェネチア派の画家の絵が見事である。細い石造りの建物の間を目当てもなくあるくような感じで歩くと、十六世紀の商人が造ったというリアルト橋につきます。ここから、黒塗りの観光ゴンドラがでます。ピシッと黒い服をまとったゴンドリエが待っていました。 ここまでの細い道路の両側には観光土産品、ブランド品、そして仮面(マスク)などを売る店がつづき、上の方は住居になっています。だから魚屋も肉屋も八百屋もあるのでした。 車の入れない交通至極不便なところで、今はすっかり老朽化が進んでいるようでした。 |
ヴェローナの円形劇場と街の真ん中の遺跡 | |
アルプスから流れ出る川の蛇行する処にローマ時代に興った街、ヴェローナである。ここはは13世紀に繁栄を誇ったスカラ家の街でもあります。街を囲むローマ時代からの城壁が延々とつづき、ローマのコロッセオと同時代の円形競技場があったり、野外劇場があったりします。野外劇場は山肌に沿って建てられていて、時間の関係で訪れませんででしたが、階段状となっている観客席が見えました。これらは今でも夏になると音楽祭が開かれて、オペラなどが演じられると言い、国際的な催しに使われていてるのです。入って見た円形競技場は保存状態がよくて、大理石の観客席に座って古代に思いを馳せることが出来ました。 そぞろ歩くと街の道路の真ん中にローマ時代の神殿の跡だろうと言う円柱が発掘されたまま展示されているところがありました。この街の地下が殆ど遺跡であることを再確認させられました。古い街並みは歩きにくいですが、散歩をするのは楽しいです。石造りの古い建物が少し改装されて、洒落たショーウインドーとなり、細々と美しく飾られて雰囲気があります。 クサ市場と言う広場では、庶民の生活が覗けます。野菜や雑多な生活用品、衣類までが並んでいて、日本語で値段を書いた品物もありました。そんな広場にもチャンとローマ時代の噴水が残っていました。 私たちの泊まったクラシックな構えのホテルの目の前にサンテレージア聖堂があります。ここの内陣はステンドグラスが美しく光りを透かせています。入ってすぐの処にある柱にある清めの水盤を背負っているせむし男の造形がよかったです。 サンフェルモ教会は天井の木組み構造が凄い。壁面のフレスコ画は剥落してしまっているのが痛ましく目につきます。。ここには地下にも教会があり、暗い一隅からのドアを押すとローマ時代からの白い静かな地下教会になったのには驚かされました。今でもこの教会が使われているのだそうですから驚きます。 |
ロメオとジュリエットのお話 | |
古い街並みを楽しみながら歩いて行くと、少し通りから入り込んだところにシエクスピアの有名な「ロメオとジュリエットの物語」のモデルになったと言う飾り出窓のある家がありました。ここには若い女の子達が屯していて、撫でられてピカピカに光っているジュリエットの像がありました。入口になっている処の壁面には沢山のファンの書き込みがされていて、多分作り話であるにも関わらず、この悲恋の美しさに惹かれる人が多いのを実感しました。そんな風に思いながら私たちも傍によって撫でたのですから、何と申しましょうか。 ルルドののマリアの教会の丘から見下ろせば、ベージュ色の壁に茶色の屋根、幾つもある教会のドーム、塔、川に架かっているいくつもの橋、すべて調和のとれた美しい街でした。観光バスは入れませんから、城門の前で下車します。小さな乗用車は入ることができます。狭い道をそれらの乗用車が走りますので、少々歩行は危険な感じがします。 付け足しですが、この街でもイタリアの食事の量には辟易しました。 |
4月15日 | フィレンチェ |
イタリアで一番気に入った食事「春」のメニューでした。 シェリー。ゆで卵、サラダ菜。 前菜「若いそら豆(バッチェリ)と羊のチーズ」 白ワイン「グリーンピースのリゾット」 「仔牛肉のワイン煮・サラダ」・赤ワイン デザート「チョコレートケーキ」「こーひー」 |
花の都フローレンスです。昨夜ついてホテルのレストランでの夕食に満足した私たちです。 早朝からウフッチィ美術館に出かけましたが、もう既に外廊をぐるりと取り囲むように行列が出来ていました。メディチ家の行政上の事務所だったところと聞くけれど、もの凄いとしか言いようがありません。待っている間に外廊に飾られた学者、政治家、芸術家などの彫刻像を見、隣にあるヴェッキオ宮殿の前のミケランジェロのダビデに複製などを見て回り、1時間半もの待ち時間も厭きることはありませんでした。文化週間とかで入場料はフリーでした。ボッチチェリの春の前は少し人だかりしていましたが、動きに困るようなことはない広さですから、ゆっくりと名画を堪能できます。シェナの受胎告知の絵には少し思い出がありましたので懐かしく思いました。どの美術品も画集やその他で見慣れたものばかり・・・・・。本物とむきあっている感動は例えようもない悦びでした。 アカデミァ美術館もフリーでした。ミケランジェロのダビデ像をはjめとして以前はこの街の彼方此方に実際に飾られていた彫像、彫刻、絵画、祭壇画などがここに集められているのでした。今街の中で見られるものは殆どが複製なのだそうですが、信じかねるほどの美術品が洪水の様にあるフィレンチェの街では目を養うどころが、溺れてしまいそうでした。 |
フィレンチェの大聖堂 | |
フィレンチェの大聖堂ド・オーモはミケランジェロの丘からの眺めの中心をなすものでした。近づくとこの聖堂の壁面はすべて色のモザイクでしたのでまず驚きました。大変な数の観光客を収容してもまだ余裕のある大きさです。大きな祭壇が幾つも並んでいて声も出ない程のスケールに私たちは圧倒されるだけでした。 この聖堂については、皆さんご存じのことでしょうから、あまり書かないことにします。 運転手のルイーズはここの生まれで、昼食は彼のお薦めのレストランで食べます。12時半からの開店に詰めかけたお客さんでイッパイ。それにしてもイタリア人の胃袋はどうなっているのでしょうか?私たちはペンネのミートソース煮と太いソーセージウズラ豆のトマトソース、珈琲で満腹しましたが、隣のイタリア人はパスタ山盛り一皿、大きな肉ステーキとウズラ豆のトマト煮たっぷりをぺろりと平らげてワインを一本あけました。(お昼ですよこれが・・・)店を出るとズラリと並んで順を待つ人がいました。安くて大量が売り物のお店なのですね。 川を挟んだところにある、サンタマリアデルカルミネ教会?で展示されているカルバッチョの絵を見にゆきました。 マルタのものになっている「聖ヨハネの断頭」と言うもので、凄い絵でした。カルバッチョがフィレンチェで殺人を犯してマルタに逃亡して、そこでこの絵が描かれたのですが、盗もうとする人がいて額から切り取り、絵が傷つけられてしまったのだそうです。フィレンチェでその修復が行われて、返還する前に展覧していたところに私たちが行き会わせたと言う訳です。サロメにやるためにヨハネの首を切る様子なのですが、押さえつけて首を切りときの床に流れ出した血までを描いたのです。これは牢屋の中なのですがその小さな窓から入る光の効果。そして傍に若い女が首を載せるものを持って立っているのです。どうにも解釈できない感覚でした。 この教会には「マサッチオのアダムとイブの楽園追放」が祭壇横の壁画となっていました。反対側にはマサッチオの師であるマッソリーノの「楽園のアダムとイブ」がありました。これらにはゆくりない邂逅でしたので嬉しかったです。 |
4月16日 | アッシジ |
アッシジは聖フランチェスコ教会と修道院が中心となっている処でした。聖フランチェスコはここの出身でした。修道士になる前のフランチェスコの婚約者であってキアラも、やがて聖女となったとのことで、サンタ・キアラ女子修道院もありました。 岩山に張り付いたような感じの街で、写真の家々も中は岩山をくりぬいて造られているようです。観光客の為のお店も天井が岩で出来ていたりしてびっくりしました。 この日は雨で、堂宇の写真は撮らないでしまいました。何年か前に大きな地震があって、岩山の教会も、修道院もかなりの被害を受けて、大規模な修復中でした。この地震で修道士が何人かなくなるほどの大地震だったとのことです。 聖堂ではいつもミサが行われていて、「静かに」と記されてあります。聖堂の精緻で美しいモザイク、壁面の絵はマサッチオ、マッソリーノのものが多く、その中で「対話するマリアと幼子キリスト」のはまことに愛らしく、脚をとめさせるものだした。 |
4月17日 | バチカン市国 |
アッシジを出て、かなりはげしい雨の中をローマに向かいました。ローマに入ると渋滞で、なかなか大変です。細い昔ながらの道に、車がとめてありますから、ますます車の動きは鈍くなるのでした。ホテルにチェックインして、少し散策をしてから、夕食を軽く(と言ってもかなりの量でした)とって休みました。今日はまずバチカン市国に入ります。 大変な行列をつくって門を入ります。中にはいってからもかなりの混雑でしたが、礼拝堂の方にゆきますともう落ち着きました。行列をつくって並んでいるときに、ガイドが「ジプシーがいるから気をつけて・・・」などと注意してくれましたが、あまり気にしませんでした。広場では功績のあった3人を明日聖人に序する式があるとかで沢山の椅子が並べられていました。 警備をするスイス人の兵士が機嫌良くて、写真にポーズをとってたってくれました。システィーナ礼拝堂、ミケランジェロの部屋など、定番の処を例の通り通りすぎて、サンピエトロ大聖堂でペテロの像の足に触れて拝み、ミケランジェロのピエタに逢い、サンピエトロの墓を初めとした、歴代法王の柩が並んでいる地下を拝観しました。ここもアッシジと同じく、キリスト生誕二千年の式典の用意で修理のため覆いのかけられているところが多くありました。 バチカン市国に郵便局から葉書を一枚投函しました。 夜は小さなカンツォーネを聞かせるお店でとりました。体験的に二人で一人分程度の食事をとって丁度よかったです。 |
4月18日 | ローマ・真実の口など |
ここで私の夫は床屋へゆき、散髪をしました。日本以来のことです。丁寧でとてもよかった様ですが、日本語は勿論わかりません。「サンキュー」だけですませました。私はその間チョット買い物をしました。 コンスタンチヌスの凱旋門からガイドは案内をはじめました。マルタの騎士団長の邸宅の鍵穴から、サンピエトロ大聖堂の最高の景色をのぞき見たりした丘の上から見下ろすと、テベレ川の蛇行する様が見え、ヴェローナ、フィレンツェともども川が街を構成する大きな要素であることがよく分かります。 真実の口に嘘つきが手を入れるとかみつかれるそうです。私はおそるおそる差し込みましたが、大事はありませんでした。嘘つきだと自負している私でも大丈夫でしたと聞いて、皆様はどんな風にご解釈なさいますか? コロッセウム(円形競技場)はネロの時代のもの。崩壊が著しいのは惜しまれます。時の宗教の変遷により、このコロッセウムの石がはぎ取られて、教会などの建設に用いられたことによると言うのですから宗教というものは不思議ですね。 コロッセウムでの猛牛と人間の戦いを見て歓喜する人間を私は考えることが出来ません。農耕民族と狩猟民族の違いなのでしょうかしら。 壮大な規模の残るフォロロマーノ。石畳の道はローマ時代のものですら、私があるいているここをアレキサンダー大王も歩いたのだと思うのです。 アグリッパのパンテオン。天井の円い穴が明かり取り、抜群の採光効果。降り込む雨がうまく流れるように気づかない程の傾斜をもって床が造られています。凄い技術で、ローマ時代の文化の成熟を思わせます。 イタリアの王の墓がここにあり、王政復古を求める署名運動をしている人たちが奇妙にクラシックな服装をして立っていました。ラファエロの墓もここにありました。 トレビの泉には当然の様にコインを叶わぬ願いをこめて放り込みました。ナヴォーナ広場でヴェルニーニの4大河の噴水を見てしばらく休み、あとは船の待っているチビタベッキアの港へ向かいます。見逃したり、観足りないところが沢山あります。トレビの泉の効果をまた願うことにしました。 |
チビタベッキア港 | |
ここからまた、船に乗ります。陸路を辿った私たちが船にかえったのと入れ替えに、船で移動してきた乗客のほとんどはローマへ出かけていましたので静かな船で、ゆっくり休みました。 チビタベッキアと言う港町は小さな町ですが、それよりもここでは日中はお店がお休みなのでした。3時過ぎでないと開きません。 昼食後、バスで町へ出かけましたが、がらんとした町に白い夏の日ざしが眩しいだけです。 海岸近くの小公園に「支倉常長の銅像」が立っていました。皆様ご存じの人物です。世界一周の大先駆者とでも言いましょうか。 ローマにはこのチビタベッキア港から入ったのですね。 今まで、あちこちで観光みやげのお店に入るたびに、へたくそな字で「ヤスイ!」「日本円オーケー」などと書いたのを見てきましたが、ここでこの支倉常長像と立派な字が書かれているのを見て感動しました。当時、このような服装でローマに入ってのだと思って感慨無量でした。この像と同じものが仙台の青葉城の門の処にもあったと思いますが、さだかではありません。 |