茫茫漫遊記 初めての世界一周編


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4月7日 イスタンブールです




エーゲ海を北上して、トルコとギリシャの境界を航行しました。
多島海と言うだけあって左右に島影が現れては消えます。アラビアやインドの島とは違って、この辺りの島は早春の緑で美しく、心の安まる感じです。エーゲ海からマルマラ海に入るダーダネルス海峡にはいり、ヨーロッパトルコとアジアントルコを隔てるボスポラス海峡となります。ここはたったの六百五十米だけしかありません。
港には沢山の船が停泊をしていて、出入港も多い。沢山のモスクがミナレットと呼ばれる尖塔を供えており、それが霧の中に霞んで見える。
トプカプ宮殿観光。オリエント急行の終着駅の古い建物を見る。その目の前に新しいガスステーションがある。これまでにどれだけの有名人が乗ったか数知れない古い建物との対比がまた東西文化の交差点を象徴しているのでしょう。
トプカプ宮殿の中門を入るとボディチェックを受けます。それに値するだけの宝物があるわけです。サルタンの絶大な権力を誇る様に、献上品、略奪品などがずらりと並んでいます。映画でも有名になったトプカプの宝剣のエメラルド。ごろごろと転がしてある宝石、目が痛くなる程の金銀製品。椅子までが金細工なのです。日本の明治天皇からの銀の宝飾品は銀なので黒ずんでいましたが、大変精巧な細工物でした。

ついでブルーモスク。絨毯を敷きつめた内部は数百にものぼると見えるステンドグラスの窓で明かりをとり、青みがちのタイルで飾られています。今でも大モスクとして信者が祈るところでした。一人分の面積をあらわす区切りをつけて織られた絨毯を敷きつめたところは驚く程の大きさです。イスラム教では偶像崇拝を禁止しているので、メッカに向けた祭壇が一つあるだけで、丸いドームを支える象の脚と称される程の太い柱が4本。壁面は大きな大理石。千三百年近くも前の建造物だと言う事には驚かないでは居られません。





アヤソフィアといわれる建造物。これは最初は基督教の教会だったところです。イスラムの征服で、イスラム教会として改造されて使われたもので、今はいずれの教会でもなく、博物館として展示されています。イスラム教は偶像禁止なので、イスラム教会となったときに、キリスト教会の装飾を塗り込めてしまったのだそうですが、今は博物館として塗り込めたキリストの像の部分を修復したりしているそうです。複雑な宗教の感覚を思わせられます。
祭壇も、エルサレムに合わせたマリア像とメッカ(イスラムの聖地)に合わせた祭壇と二つが微妙な方角の食い違いを見せて具えられているのが見られます。
ここは、征服した各地の大理石が厚くふんだんに使われていて、床もすべて大理石でした。

地下宮殿という貯水池




多神教からイスラム教の一神教に変わったこの国では、地下の貯水池を造るのに、征服した彼方此方の国の壮麗な多神教の神殿に用いられていた大理石の柱などを運び込み、地下の貯水池を造ったのでした、。
ですから、ここの柱頭には多種類の多時代の神殿の有様をしめす美しい彫刻が施されています。地下にあるのが勿体ないように思われますが、今ではそれが観光に役立っているのですから、何と表現すべきでしょうか。
イスラムの神ではないメヂューサの頭部が横倒しになって柱の台として使われています。にらまれるとi石になってしまうと言う目をむいたメヂューサもイスラムの教えでは邪教の神の一つにすぎず、柱の台になっているという訳です。観光に使われて照明があてられているその像は、不思議な感じを与えます。単に坐りがよいと言う理由で転がされたり逆さまになったりしていると言うのは愉快な話ですが、また複雑な感じでもあります。
余談ですが、大変なインフレの国で、屋台のパンやから細かいお金で一個パンを買ってみようと思ったのですが、細かいお金と言うのがありません。細かいと言っても一個が二万リラでしたから、本当に驚きです。
港にケマル・アタチュルクの胸像がありました。これはトルコ近代化の父・ムスタファ・ケマル・パシャの事です。

4月9日 ギリシャ




ギリシャの島は無人島を含めて約三千。その内人が住んでいるのは約二百と言います。そんな島々を見ながら朝日ののぼる頃、ピレウスの港へ入りました。バスでアテネへ向かいます。アテネは紀元前五〜六世紀が最盛期でその後東ローマ帝国に代わりキリスト教国になったのですが、それまでは多神教でした。十五世紀にトルコの支配を受けて多神教の神殿は破壊されました。
ごろごろした石の坂道から大理石の石段を登り、アクロポリスにのぼります。
ここはソクラテスやプラトン達があの長いギリシャの衣服を靡かせてのぼった石段なのだとおもうと感慨深いものがあります。
登り終わったところに現れる石の建造物群は日を浴びて白く眩しかったです。しかし、トルコとの戦争、イギリスの侵略など歴史の破壊は無惨なものがあります。今ではギリシャ人の殆どがクリスチャンだそうですから、宗教的には問題がないのでしょうけれど、この破壊はまことに残念です。




紀元前七百七十七年にギリシャでオリンピックが開催されれたことにちなんで、オリンピック発祥の地とされました。その競技場跡にあたるところにある近代オリンピック競技場に行きました。馬蹄形の大理石の観覧席で囲まれた施設で、近代オリンピック始まって以来の開催国の名前を彫った碑があり、勿論 TOKYO 読み取れますので、嬉しくなります。
4月10日 サントリーニ島





朝まだ暗い中にデコレーションのような明かりを灯した島が見えました。
エーゲ海のサントリーニ島です。白い建物が島の上部を飾るように並んで見えます。海から直接切り立ったような崖ですので直接接岸できないため、投錨したところから通船で上陸です。ニューポートからしかバスで登る道がないのでした。
ここはアトランティスの伝説のある島で、紀元前三千年頃はキクラベスと呼ばれていましたが、紀元前千五百年頃に起こった大地震と火山の爆発と沈下で、世界一のカルデラが形成されその廻りに残存した三日月型の島です。
守護神サント・エレーネの名前が変化して、サントリーニ島と呼ばれているのでした。
島にあるアクロティリ遺跡は二十米を超える火山灰の堆積から発掘されている遺跡で、プレヒストリックタウン・アクロティリとなって公開されていますが、未だ全容ははっきりしないところです。
人骨や家畜の骨などは発掘されておらず、道具類だけが空洞をなして現れ、発掘された家の壁面には造形的にも美しいフレスコ画で、人や魚や生活状態などがこまやかに記されてあったそうです。地震を予知して、住民は避難をしたのだろうか。島が吹き飛ぶ程の爆発で生き残った人が居るとは考えがたく、これが、アトランティス伝説を生む理由でもあるのでしょう。
フィラと言うこの島の町は、全体が白くて、街路樹の果てまで白いペンキが塗られていました。ここからはオールドポートに、ご覧の青いビーズ玉をつなげたように見えるケーブルカーに乗って断崖を降りて通船に乗り船に帰るのです。

葡萄畑とレストランから見る海




この島の火山は休火山でいつ爆発するか解らないのですが、島人は平然として、葡萄畑を作り、美味しい白ワインをつくって暮らしています。
白い町フィラで昼食をとりました。白ワインはこの島の産です。レストランから湾の中に停泊している船を眺めながらの食事でした。折角だから今日のお薦めのお魚を見せてと頼みましたら、大きな鯛と小さな鯛を持って来て見せてくれましたので、小さな方をグリルにとオーダーしました。ワインとパンを囓りながら待っていますと、何と出されたのは日本の塩焼きと同じ感じの鯛でした、久しぶりで日本の感じを味わいました。
ガイドがこの島の特産は白い茄子だと言ったので、それをみたいと思って、フィラの町を歩きましたが、八百屋さんには普通の紫の茄子だけが並んでいて、がっかりしました。

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