|
||||||||||
大阪 | 高知 | 境港へ | 金沢 | ウラジオ ストック |
小樽 | 函館 | 青森 |
函館と言ったらまずは五稜郭ですよね。 桜は赤くなっていてもうすぐ 咲いてくれるでしょうが、私は少し残念でした。 五稜郭が築城されたのは1864年なのだそうです。 徳川幕府の明をうけて蘭学者・武田甲斐三郎と言う人が設計したのだそうです。 此処があの箱館戦争と言われる戊辰戦争最後の戦いの場所になり、 終結したのが明治2年。国内最初の西洋式城郭です。重機があるわけでもない当時の スゴイ城郭です。当初は幕府直轄の役所だったのです。幕府からオランダに留学したあと 幕府海軍の長となり、江戸開城をに納得しない榎本武揚は所謂「蝦夷共和国」 の総裁となって、この五稜郭での「箱館戦争」を戦ったのでしたが、新政府軍の攻撃に屈して 明治2年5月にこの五稜郭を明け渡したのです。 潔く恰好がいい土方歳三がこの戦いで戦死しました。 |
|
明治以降北海道と言う所への上陸地だった東桟橋あとに 建てられた記念碑です。 ヒグマと船の錨を象徴した碑です。私が以前に 来た時にはありませんでした。昭和43年に出来たものだそうです・。 北海道開拓時代にはヒグマと遭遇したことも多かったのでしょう。 |
|
白髪紅みどりの屋根が美しい・ 函館の歴史的建造物の一つで1916年築。 ここの鐘の音が函館の地域に響きわたるの週末だと言う事でした。 h |
|
石川啄木一族の墓 立待岬へのぼって行く坂の途中に,石川啄木一族の墓がありました。 昔来た時とは違って道路もすっかり整備されてしまって印象がすっかりかわっていました。 墓石にはられているのは 「東海の小島の磯の白砂に 我泣き濡れてかにとたはむる」 |
|
与謝野鉄幹・与謝野晶子 の歌碑があります。 啄木と交流のあった この時代の歌人達が この立待岬の景観にうたれたことでしょう。 鉄幹 「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる 立待岬の岩かげの土」 晶子 「啄木の草稿岡田先生の顔も 忘れじはこだてのこと」 註・岡田先生とは函館博物館の創始者の岡田健蔵のこと |
|
砂山影二の歌碑 「わがいのち この海峡の波の間に 消ゆる日を想ふ 岬に立ちて」 砂山影二は 函館市生まれ。 石川啄木を深く崇拝して。 彼の短歌にはその影響が強く表れていたそうです。 人生に懐疑的だった彼は大正12年に 青函連絡船から投身自殺しました。 二十歳だったそうです。 |
|
「函館の 青柳町こそかなしけれ 友の恋歌矢ぐるまの花」 と詠われた青柳町は,啄木の生活した当時とは 全くかわってしまっています。 当然のことです。静かな民家のある空き地。 、 石川啄木の住んだところだという 説明のある立て札があるだけでした。 当然のことです。 |
|
亀井勝一郎は 日本仏教に深い共感をいだき、聖徳太子だとか親鸞などに傾倒した人物として 知っていました。 若い頃にはマルクスレーニン主義に傾倒したこともあると言うことを, 夫が在世のころに聞かされて知った私です。 彼の宗教論。美術論、文明論歴史論などに共感した夫か.読んで見るようにと言われても 読まなかった亀井勝一郎全集が懐かしいです。 函館の人だと知ったのは、旅行をして。函館にあったこの碑をみてからでした。 碑にはすっきりと自筆で 「人生邂逅し開眼し瞑目す」 とありました。 |
|