茫茫漫遊記 トルコ紀行 
            国旗をクリックするとイスタンブールの朝とクルーズの写真が出ます

イスタンブール  トロイ
  ベルガモン
エフェソス
パムッカレ
コンヤ
 シルクロード
カッパドキア
アンカラ経由
イスタンブールへ

イスタンブール
  

      ガラタ塔


イスタンブールのガラタ地区という金角湾に面したところにある6世紀初めに灯台として建てられたもの。
14世紀になってジェノバ人が監視塔として改造したものだとされています。
要塞になったり牢獄になったしたこともあるそうです。
早朝の時間を使って一人での散歩で入場時間になっていませんでしたのでのぼっては見られませんでした。 
ホテルの前の広場から電車が出ていて、乗りたいと思ったのですが、時間が決まっていないような早朝でしたので歩きました。20分ぐらいでちょうどいいウォーキングエクササイズになりました・
のんびり歩いていたら、帰り道がわからなくなり、うろうろしました。道を訊いても英語がわからない人ばかりでしたので困っちゃいました。



      
ガラタ橋は1845年に木製の橋が架けられ、その後1912年に2階建ての橋になり、1992年に老朽化したのと火災のため現在の橋になりました。 2階が通行用で、トルコ国旗があるところから1階に降りて行きます。下はレストランになっています。これは昼過ぎにうつしたものですが、 2階の欄干から人は身を乗り出して釣りをしています。とにかく釣りをする人の多いいところでした。ひしめき合っています。ただし、女性はみあたりませんでした。男性の方が暇なんでしょうか?
***************************************************
ガラタ橋の向かい側のあたりにエジプシアンバザールがあります。
その日はお休みでしたが隣の小路の様なところのお店が賑わっていました。白いビロードの様な艶をもつものが積まれて売られていました。牛の胃袋だと言います。そばには羊の蹄などがあります。トルコ料理のスープ材料だそうです下から出てくるのはとりどりのチーズです。血の腸詰めもありました。
ポインター載せて下さい

   





朝の街にはこんな風にしてパンを売る車が沢山出ています。お勤めに出る前の男女でしょうか。
おいしそうなトルコパンです。こんな車が沢山、広場のあちこちに店を出していました。便利ですね。


昨夜のあの人混みが嘘のように静かな街でした。ガラタ塔へ行く道を辿ると 道路清掃車があの大通りに水を流して、清掃中です。たっぷりと水を流して、昨夜のあのお祭りの様な人々が散らかしていった焼き栗のから、吸い殻、ちり紙などをなどをすっかり洗い流しているのでした。すっかりきれいな通りになりました。
のろのろと人混みの中を走って(?)いた昨夜のあの電車が、人混みでもありませんがゆっくりと朝の街を過ぎてゆきます。この電車にのりたかったのですが、運転時間がはっきりしませんでしたので諦めて歩きました。

    
午前中の2時間ばかり、ボスポラス海峡クルーズにでます。お客はわれわれだけ七人の貸し切りでのーんびりしたものです。
冬と言うことを忘れるくらいの晴天でした。波もなく日本で言えば小春日和でしょうか。




日本料理店[TOKYO」で昼食を接る。お弁当に味噌汁。マルマラ海の鯖に一夜干し?に肉じゃが、豆腐、漬け物などがサービスされました。それに緑茶でまるで日本の一般食堂みたいでした。夜には刺身や寿司なども出るとのことでした。店構えも日本風、そして店員は日本語だから錯覚してしまいます。石榴ジュースを試してみました。少し渋味がありますが、濃い味で美味でした。


ボスフォラスとは(雌牛の通り道)と言う意味だそうです。調べたところによりますと、ゼウスと妻ヘラが、ゼウスの気に入りの女イオとの間の嫉妬したので、ゼウスはイオを守るためにイオを雌牛に変えたんだそうです。するとヘラがその雌牛に蜂の大群をけしかけたのだそうです。雌牛のイオが逃げまどって走り抜けたのが海峡になったと言うのです。
船はまず1973年に建てられたボスポラス大橋を潜って、ヨーロッパ側に沿って黒海方向へ進む。1452年に1万人の労働者、千人の石工職人などがたった4ヶ月で建てたと伝えられるルーメリ・ヒサール要塞が傲然と建っています。これも内部が公開されているそうです。

ボスフォラス海峡の長さは35キロメートル位で、一番狭いところでは千メートルもないのです。ここは海流の関係で様々な種類の魚が釣れるのだそうです。釣り人が沢山、両岸にいました。

表面の海流は黒海からマルマラ海にむかっていて、底の方はやや塩分の高い海水が逆向きに流れているのです。
深さは一番深いところで百米程度、平均で60米位だと言うことです。
ボスポラス大橋はドイツとイギリスの会社の合弁で、3年半かかって造られたもので全長1560米の吊り橋です。下にあるモスクは19世紀に出来た。オルタキョイモスクです。


ポインター載せて下さい

  
  



スレイマニエモスク。オスマン帝国時代の最もすばらしい建物です。確かに・・・。一番最初に訪ねたのはこのモスク。スレイマン1世がトルコで最も著名な建築家・スィナンに命じて建てさせたもので、7年の歳月をかけて1557年に完成しました
 スィナンって?軍隊に入って大工、木工の技術を習得し石材建築にも精通。49歳の時にスレイマン一世によって見いだされてから、98歳で亡くなるまで(オドロキ!)大規模なモスクをはじめ、さまざまな建造物を手がけ彼の手によるものは300を越すんだそうですからこれも驚きです。

モスク付属のミナレットがこのモスクでは内庭を囲む外廊に建てられています。ペルシアのシャーからモスク建築の足しにして下さいと差し出された宝石を、サルタンはモスクに使う価値はない。ミナレットを造る材料に混ぜて使うようにと言ったそうです。それを混ぜ込んで造られたと言われる宝石のミナレットなのです。靴を脱いで中にはいると高いドーム。赤い絨毯が一人一人の座る寸法に織られたものが、敷き詰めてあります。何人かの信者がお祈りをしていました。イスラムの祈りは時間で呼びかけでモスクで祈る場合、僧は説教段で大きな声でコーランを読みますが、集まって一緒に礼拝する人々は、自らの知っているコーランの一節などを心の中で唱えて、礼拝は静かに行われるのだそうだ。コーランの言葉は、お経と同じで理解出来ない言葉が多くて、呪文のような感じになっているとかいいました。そう言えば、祈っている人々は音を立てません。

           ポインター載せて下さい






アヤソフィアはトルコ共和国になってから博物館となっている最もも大きな教会でありモスクだった建物です。とても全景は撮せませんので、写真を一つ添付しました。
アヤソフィアとは「神の智恵」を意味します。325年に、コンスタンチヌス帝が最初の教会堂を建設しました。その後何度も破壊や略奪などを受けたりして大きなドームは修復を繰り返していましたが当時はキリスト教会でした。
トルコ民族による征服が完了して、15世紀から大規模にイスラムの教会に改修されたのです。と、言ってもミナレットが付け加えられ、大きなドームの下にメッカの方向を示す龕(ミフラーブ)と
コーランを読み、説教をする僧の座る台が加えられ、ムハンマドやその系統の大切な人々の名前を書いた黒い丸い額が掲げられただけでキリストやマリアの像はそのままに残されました。
 マリアのモザイクは、このドームの横の半円屋根のところ、ミフラーブの上のあたりに描かれていて、イスラム教徒の人たちの礼拝をも見続けてきたわけですね。偶像崇拝を禁止するイスラムの人の中にはこれらの像があることを嫌い壊してしまった部分もあるそうですが、残っている像の数々を見ますとトルコのイスラム教徒の懐の深さがわかります。
 

スレイマニエモスクを建造した建築家スィナンはこのアヤソフィアを超えるモスクを造りたいと思ったのです
階段ではなくすり減った大理石の螺旋状の坂を何階分も登ると、その大きなドームの下のひろがりを見下ろすことが出来ます。
ポインターで下から出てくるのは、メッカの方向を示すミフラーブと、素晴らしいモザイク壁画です。
右側のキリスト像は最も精巧な作品ですが、剥落部分が多くて残念でした。
その下の写真はは、幼子イエスを抱いたマリアにコンスタンチノーブルの模型を捧げるコンスタンチヌス帝とアヤソフィアを捧げるユスチアヌス帝のモザイクで10世紀のものです。

これらの素晴らしいものを、キリスト教徒のものでもイスラム教徒のものでもない博物館にした国父アタチュルクを尊敬します。

ここに入る頃、ブルーモスクから祈りの時間を知らせる声が響いてきた。昔はミナレットから肉声を響かせたのだが、今はスピーカーで知らせています。







イスタンブールにはビザンチン時代につくられた水道橋が、郊外から水を供給していました。市の中にその時代の水道橋が残ってます。そこから供給された水を貯めておく貯水槽もまた数多くあったということです。その一つ、六世紀に造られた主に宮殿に供給する水を貯めたのが、地下宮殿といわれる博物館です。以前に来たときにも見ましたけれど、メデューサの首を柱の台に据えてあるのが、面白く印象に残ります。柱もビザンチン・コリント様式のさまざまな形式の柱が並んでいて壮観です。今は使われていませんから、水が入っていたときは水底だっただろうメデューサの顔がライトアップされています。この日はその一隅で小さなボーカルコンサートがあり、地下に響く音はくぐもって聞こえました。


このモスクはスィナンの弟子が造ったものです。アヤソフィアの傍にあります。アヤソフィアに入ろうとしたとき、丁度お祈りの時間をしらせる声がこのモスクのミナレットから流れました。と、言っても今はミナレットから生の声での呼びかけはなくて、スピーカーで流されます。新しいモスクではエレベーターがつけられているとか言うことで、イスラムの説教師たちは体重が増えたなどとガイドは笑いました。冗談でしょうけれど・・・。

アヤソフィアを見学し、地下宮殿を見学したら、ちょうどお祈りが終わりになっていました。沢山の敬虔なお顔をした信者達がモスクから出て来ました。
このモスクはいまでも礼拝に使われているモスクですから、スレイマニエモスク同様、私たちも靴を脱いで入ります。アヤソフィアは博物館ですから靴のまま入って見られたのです。

内部を飾る青タイルと青いステンドグラスからの光が美しく、それでブルーモスクと通称されているのでした。このモスクは初めから偶像崇拝を禁止するイスラム教の為のモスクですから色彩は豊かで、ユリ、チューリップ、カーネーションなどの花のデザインの模様や、アラビア文字の美しいデザイン装飾がありますけれども人体をかたどったりした像に類するものがないのはスレイマニエモスクと同様でした。
 

このモスクには写真の4本のミナレットの他に、右側の内庭の外廊にもう2本のミナレットが立っています。6本のミナレットを持つモスクは世界でもここだけだそうです。
ポインター載せて下さい
今日イスラム教徒で一日5回礼拝をする敬虔な信者は少なくなっているそうです。
ラマダーン(断食月)の習慣は多くの人に続けられているとのことでしたが。


ポインター載せて下さい


ポインター載せて下さい



オリエント急行の終着駅にあるレストランで夕食となりました。オリエント急行と聞くと、大凡の方はアガサクリスティを連想されるのではないでしょうか?ここは終着駅ですから、ここで殺人事件が発生したわけでもありませんのにね。とにかく、私は例外ではなかったです。一時期アガサクリスティに夢中になったことがありました。エルキュール・ポアロもミス・マーブルも大好きなキャラクターです。
話がトルコの旅から逸れてしまいました。今では昔のオリエント急行は運行されていませんけれど、ここにくる観光列車「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行」(NIOE)があると聞きましたが詳しいことは知りません。
 駅の外に昔の機関車が展示されていました。


とにかくここが昔からの列車の終着駅で、今も駅として使われていました。雰囲気があります。正面入り口や待合室なんかもこのステンドグラスの窓です。
 レストランの明かりはあまり眩しくないのが西欧のレストランですが、ここも昔の電灯の明かるさでした。ここから列車に乗るなんて言うことになればこれはロマンでしょうね。照明が薄暗く雰囲気がある。メニューは格別なものではありませんでした。

これから空港へ向かいます。

これで旅は終わりになりました。

[上へ戻る][目次ページへ]