茫茫漫遊記 トルコ紀行

イスタンブール
 
トロイ
  ベルガモン
コンヤ
 シルクロード
カッパドキア
アンカラ経由
イスタンブールへ

イスタンブール
  



少し登り始めたら今日も物凄い霧です。
通り過ぎる街や村も霧に包まれていたが、次第に薄れた。
中央トルコは禿げ山と岩山ばかりだ。雨は日本の3分の1程度しか降らないけれど、黒海近くは2千ミリも降るところがあり、トマトが赤くならず、青いのをピクルスにすると言うところもあると言います。こんな山の55%は国有地で、22%くらいが民有地。国有地でも羊の放牧は自由なのだそうです。
この辺りまで来るとオリーブはもう見られません。山は薄雪をかぶっていました。この辺りは小麦農業が主で実質的には1ヶ月ぐらいの労働であとは男性はうろうろして茶を飲んだり新聞や、テレビやニュースをみて集まって過ごすのだとのこと。ニュースが好きでテレビ番組はニュースが多く、「知識がなくとも意見がある」のがトルコ人ですよとはガイドの話。

        

葡萄畑の下は良質の大理石で、切り出されていました。
世界の大理石の四割はトルコ産だそうです。
ドライブインで蜂蜜ヨーグルトを食べ、蜂蜜もヨーグルトもかたくて、逆さにしても流れないのに驚きました。驚いたのはロシアのウォッカ工場があったことです。
露霜で白くなっている枯草を見ながら、人口百万、セルジュクトルコ時代の都市・コンヤにつく。インジェミナーレ神学校(いまは博物館になっている、偶像崇拝から脱したばかりの頃のイスラム教の神学校である)を見学した。質素であるが、その高度な工芸で飾られている。天を表すドームは抽象的な模様で飾られアラビア文字でコーランの文字を書いてあるという入り口はきわめて精巧ですが、全く模様にしか見えませんでした。




        







メブラーナ博物館を見学。緑色の塔のあるモスクで、イスラム教の一派(イスラム神秘派)の博物館です。ここには宗派の祖・メブラーナが祀られていて、祈りを捧げる沢山の信者がいて混雑していました。この宗派には旋舞と言う瞑想をさそい、白い衣服を着た男子がくるくるとまわりながら、無我の境地に入るという行があります。仏教で言う禅の悟に似た思想を追求したものだそうで、愉しんで見るものではなかったのでした。堂内に透明な響きをもつ音楽がながされていて清涼な気分になりました。12月に祭りがあり旋舞の集いが開かれるのだそうで、コンヤは信者で賑わっていました。博物館には修行のために書かれたものだと言う古いコーランの美しい書写が沢山展示されていました。今日、イスラム教徒で1日5回祈る人は30%位になっていて、田舎の方ではもう少し多く、祈りの時間は決まっていないで、モスクから祈りの時間を知らせる呼びかけがあるのです。それを聞いて身を清めてメッカに向かって拝むのですって。ラマダーンは80%から90%の人が行うそうです。コンヤでは多くの女性がスカーフを被り、長い服を着ています。歴史があり保守的な街なのでしょう。


ここからカッパドキアまで、シルクロードの道を辿ることになります。シルクロードの始まりは不明ですが、長距離交易はローマの時代からありました。ローマ・ベネチアなどは東方からのものを受け取る植民地をトルコの黒海岸や、地中海岸などに持っていて、交易を盛んにしていました。イスタンブールはその最たるものだったのでしょう。
ドイツの地理学者・リヒトホーフェンが一八七七年にSeidenstrassennと名づけたものを英語訳してシルクロードと言う名前なりました。ロマンですね。中国語では絲綢之路である。海のシルクロードが開発されてからは危険で長い時間のかかる陸路は廃れることになったのですが・・・。
駱駝一頭は300キロの荷物を運び隊商には300頭もの駱駝を率いるものもあったのですって。バスは、トルコの禿げ山と岩山の間をまっすぐに抜けてゆくのでした。




   
  

隊商宿はトルコ高原で、平坦なところには三〇キロに一つぐらい、峠などには五キロから一〇キロぐらいに一つと言う具合にあったのですが、今ではあったという記録だけが残っているところが多くなりました。
スルタンハヌの隊商宿はよく保存されていました。城壁と思えるほどに堅固な建物です。隊商は高価なものを移動するだけに、そんな形が必要だったのでしょう。ハマムやトルコ風呂の設備、宿泊設備などの他、駱駝を休ませる建物などが頑丈につくられていました。ここに獣の息が籠もり、排泄物の臭いもこもったのかと思いながら見ました。
シルクロードは右も左も何もナシです。駱駝ではなく私たちはグングン車のスピードをあげて通ります。
冬の日は暮れやすく、四時半を過ぎるともう暗くなりました。


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