茫茫漫遊記・トルコ紀行
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ホメロスの叙事詩の中のトロイの木馬伝説を下敷きに、大きな木馬が置かれてありました。これは勿論観光用ですが、只今修理中とのことで、周囲に足場が築かれていました。以前に来た人の話によると、この木馬に登って、記念写真を撮ることが出来たのだそうですが、修理中では不可能です。これも千載一遇の機会なのかも知れないと自らを慰めました。






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シュリーマンがホメロスの叙事詩を下敷きにして、4度トライして1870年に発見したというエピソードは有名です。でもシュリーマンは考古学者でも歴史家でもないんだそうですね。父親時代からの大商人で、莫大な財をなし、その財をここの発掘に費やしたと言うのですから、夢見る人です。
神話にも似たホメロスの叙事詩の大ロマンを下敷きにしての発掘と聞けば、本当に夢のような話だったと思います。
ホメロスは生年も没年も明らかでないくらい古代の人なのですが、イリヤード、オデッセウスの大叙事詩を書いたことで世界中の誰もが知っています。シュリーマンはこの叙事詩を事実を重ねた伝承として信じたのですから・・・。
ヨーロッパでは歴史教育の中で神話にも似た古代の伝承を教えているそうです。私たちのガイドもまた、神々の争いをあたかも実際のように話をしました。アイスランドで聞いたサガにも似た感じでした。
シュリーマンがここで最初に発掘した家跡の石積みは左の上の写真です。古代そのままに頑丈なもので、この辺りから次々に発見された宝物をヘレナと名づけていた妻をかざり、ドイツに運んだのだそうで、トルコには全く残っていないとのことです。下は井戸のあとです。
石積みの城壁の上に、日干し煉瓦を積みあげて整った街をつくっていたのです。長い年月の間に日干し煉瓦は崩れてしまうので、九層にも時代の異なる遺跡が積み重なって、十米もの地下に埋もれていたのだそうです。何しろ五千年と言う時間なのですから・・・。生贄を神殿に捧げた台だとかもあります。積み上げた石はこの近くのものだが、所々に遠くから運ばれたものだと思われる大理石の柱など(かなり時代は後のものでしょう)などがごろごろところがっています。

    

 
まずはアスクレピオンへ入ります。ここは古代の医療施設でありました。紀元前四世紀にもさかのぼる医神または治療の精としてのアスクレピウスの信仰によったもので、古代ギリシャの医者は殆どがこのアスクレピオンの神官だったと言えるのだそうです。ヒポクラテスもその一人だったのだそうです。ヒポクラテスは経験科学の基礎を築き、医者の倫理を言い「医学の父」と言われたのです。その系譜を踏んだのがガレン(ガレノス)で、ここペルガモンのアスクレピオンで医療を行いました。
当時から医療用に使われたと言う湧き水は今も湧いていた。放射能があるとか言う話ですが嘘でしょう。飲めると思いますが、飲まない方が良いですなどとガイドが言いました。飲む気もしませんでしたけれど・・・。

その医療は食事療法、運動療法、温水冷水浴などで人間の自然快復力を強める方法だったと言います。それらの一つに暗示療法がありました。神殿から治療施設までの間に天井に穴のあいたトンネルが作られていて、ここを通るときにその穴から「あなたは必ず治る」と声をかけて暗示をかける方法がとられたと言う話でした。通り抜けるときに天の声が聞こえると言うのでしょうね。私には聞こえませんでした。
神殿の前庭には美しい蛇の浮き彫りのされた祭壇がありました。年ごとに脱皮し、冬には姿を消し、春にはまたあらわれてくることから蛇は再生、新生を意味する神聖なものとして見られていたのでした。
キリスト教になると反対の邪悪なものになりましたが・・・。




ベルガマの街で普通のトルコ料理をたべるレストランに入りました。チキンと茄子の炒め煮・ナンで包んで食べる。ピラフにケバブ、スープにサラダ。庶民のレストランで、気楽に顔見知りの客が出入りして、マスターがジャンパーを着てレジに坐るというところでした。

ベルガモンの遺跡はかなりの高所にあり、中と下のアクロポリスは住居地域で、その上のアクロポリスは神殿や城塞が設備されていました。先述の医療施設・アスクレピウスは平地に造られていましたが、このアクロポリスは城塞としての機能も兼ねていたので、かなりの高さを登らねばなりませんでした。

ペルガモン王国は約百年ほどの栄華で、紀元前二世紀にはローマの支配下に入りました。十二使徒の一人ヨハネやパウロが伝道したことで、キリスト教が入ってきたのですが、それまでの神話時代からつづく多神教の世界観とはことなり、皇帝を神としてみることがなかったと言うことで、(イスラム教が入って来てからの迫害はずっとあとのこと)キリスト教徒が迫害を受けた時代もあったのでした。



  

ゼウスの大祭壇(紀元前170年代からあと)跡には大きな松が大木となっています。素晴らしい浮き彫り装飾のあった大祭壇ならびにここの多くの出土品は1878年から4年をかけて発掘調査したドイツ人考古学者達によって、ベルリンへ運ばれて復元され、ペルガモン博物館として保存され展示されています。ベルリンで見られます。

壮大な図書館遺跡などがあります。ここの図書館の蔵書はクレオパトラに贈られ、その後焼失してしまったと解説をうけました。ガイドによれば図書館と言っても講義、討論などの行われる場所だったとのことです。この横から斜面を見下ろすと一万人を収容出来たという大劇場があり、崩壊した神殿の石柱や石塁が広い地域に並び頽れたさまが見下ろせました。丁度のぞき込んで立ったとき、下の街のモスクから祈りの時間を知らせるが聞こえてきました。谷にこだまして独特の響きでした。


ビザンチン時代にヨハネが聖ヨハネ教会としたセラピス神殿(赤い館)ベルガマの街の中にあって眼をひきました。

エーゲ海沿岸はオリーブの産地。見渡す限りオリーブの木が植えられています。オリーブは植えてから15年しないと実がならず、収量が安定するまでには30年ぐらいかかるそうです。小麦、綿などの栽培も盛んです。小麦はトルコ、メソポタミアなどに50種もの野生種があり、小麦の栽培もこの地方ではじまったのだと言う話です。

トルコ石やに立ち寄ると、美しい日本語を使う店員がいて驚いてしまいました。外国語をいろいろ使えることはトルコの商人としては必須のことなのでしょう。
このあとイズミールまで長いドライブです。イズミールは古名はスミルナ。ホメロスはここの出身だということになっています。。トルコでは都市部の住宅は殆どが5ないし6階建てのビルです。30年ほど前は一面綿畑だったのが(イズミール近郊は特に良質なトルコ綿花の生産地です)今では高層の住宅で埋め尽くされています。高層化している都市生活には庭も緑もなく、乾いていて、夏は暑くて、殆どの都市生活者は、別荘を持ち、夏の間、家族は別荘地に行ってすごすとか聞きました。


ホテルに温泉プールがあり、寝る前に久しぶりに泳ぎました。温かったですが、大理石のサウナで暖まってからベッドに入りました。夜中に澄み切った空に半月がかかっているのをみました。

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