茫茫漫遊記 トルコ紀行

イスタンブール
 トロイ

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カッパドキア
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イスタンブールへ

イスタンブール
  



この高地はシャガイモの産地だそうです。。地下二百米から水を汲み挙げて使うと言う場所です。生産性はよくないけれど、味は良いとのことでした。アンズ、瓜、葡萄の産地でもあります。  
キリスト教がこの地にあったときには葡萄を栽培し、葡萄酒をつくっていたのですが、イスラムになり、キリスト教徒をギリシャに送ってからは廃れて、長く造られておらす、醸造技術も喪われていたのだそうですが、この頃復活しました。ここの葡萄は古来種がそのまま残っているから特別だと言っていました。他のヨーロッパの葡萄酒原料の葡萄は病気のため、古来種ではなくなったからだそうです。樽をつくる樹木のないカッパドキアの葡萄酒は素焼きのカメで熟成させます。素焼きのための土は良質のものがあります。寒さがきびしく、降雪もするので、この辺の建物は一階が貯蔵庫、二階が住居という形式が多かったです。

   
  


    

最初に下車した鳩の谷の写真スポットで、奇観にみな声を上げました。奇怪な形の岩山に沢山の穴が穿たれています。昔は住居として使ったのでしょうか。中には今でもホテルとしているところがあるという。観光客には人気があると言う話だが、老人の関わる所ではなさそうだ。岩山の沢山の穴には鳩が沢山住みついています。

絵はがきうりのおばさん(おばぁさん)に絵はがきを一組買って、モデルになったもらいました。長いスカートの裾を縫ってつくったようなダブダブのズボン?を履いていました。気をつけてみると、この辺りの老婦人はこんな形のズボンが労働着の様でした。トルコに来て、ここではじめて女の人から買い物をしました。
     

 駱駝の石は赤い谷にあり、キノコの石はキノコの谷。驚く ところはそこかしこです。
 この周辺に活火山が3つあってそれが、9千万年前に噴 火して、降らせ た火山灰が火山灰地となり、やがて火山 岩となったのです。それに雨・  風と年月がこの形にした のですね。神様が遊んだと思ったのはパムッカ レだけで はありませんでした。


 トルコアイスクリームやがいました。トルコアイスは
 ひとまとめにして持ち上げることが出来る程の粘りが
 あります。理由は何故か知りません。食べて見れば、
 さくさくとして粘っているわけでないのに、ひとまとめ
 にして持ち上げて見せられて、吃驚しました。








ギョレメの谷・野外博物館。砂岩の山を彫りすすめて造られた教会や修道院がいくつもあります。このカッパドキア石山に二十もの教会があったと言うことですからすごい数です。イスラム教になっても、ここの教会を破壊するなどということはなかったのです。イスラム教ではイエスキリストが神の子だと言うのはともかくとして、ムハンマドと同じく唯一の神の言葉の伝道者だと思っていたのですというガイドの解説に納得したような気分になりました。
教会は岩の中にほりこんで造られています。柱一本もない石の中にまでドームの形に掘り進み、沢山のフレスコ画などが描かれてあります。ドームは天のシンボルなのですね。だ。普通の地上にある教会にも見られるようなキリストに関わる物語が最後の晩餐まで描かれているのでした。十世紀に造られた教会を増築するように十二世紀になってから砂岩の奥の方に大きな規模の礼拝堂を彫りすすめているのも見られた。八世紀以降のイコノクラスムにより抽象的な画像が描かれているところもありました。ビザンティンではイコノクラスムの後、立体的な神の像は造られるこなく、抽象化が進んで行きました。
  



絨毯の製造工房です。若い綺麗な女性が何人もいました。説明してくれる男の人達は皆日本語が上手で驚かされました。

洞窟レストランと言うところで壺焼きケバブをメインとする昼食です。洞窟を深くくり抜いた岩の中のレストランは奥の方がひろびろと柱の ない広間がほりこんであって少し仕切を削り残し、椅子もテーブルも石を削りの越して造られています。ここにもウェイターだけでウェイトレスは一人もいません。この辺りの民族衣装なのでしょうか,ウェイターは刺繍のあるベストを着用しています。

カイマクルの地下都市。この地下都市が発見されたのは1964年だそうです。地下都市と言われているのは古代からの穴蔵をキリスト教徒が迫害から逃れて掘り下げたものと考えられています。教会、墓地、貯蔵庫、ワインの醸造所、ワイン倉、炊事場、寝室などの他に、家畜の小屋までが地下に造られていました。地下深くの水源からの取水がされ、そこから地上までの換気の穴が工夫されています。細くくねくねとして殆ど不規則な地下の通路は腰をかがめて歩かなければなりません。灯りや調理は油を燃やしたようです。調理場は何家族かが共同で使っていたらしいとのことです。何のためにこんな地下都市を造ったのかは記録がないからはっきりとはしませんし、まだまだ全体が発掘されてはいないということです。火山灰地、砂岩だからこのように掘り進めることが出来たのだろうが、掘り出した土を何処に運んだかも判然としないそうですから不思議です。



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