茫茫漫遊記 オセアニア編4
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2月16日 古い石橋と教会






タスマニア島に来ました。北海道の8割程度の広さなのだそうですが、ここに来るまでその大きさを知りませんでした。
この石橋はリッチモンドと言う町(今は人口千人程度ですが、この島の入植が始まったところで、英国風の落ち着いたところで、観光客や別荘などもあり、雰囲気のよいところ)にあります。
1823年に造られて今も完全な形でそのまま使わています。

この教会もオーストラリア最古のもの。いまでも使われてます。祭壇の奥に見られる細長いステンドグラスが魅力的です。何処へ行っても教会があります。
タスマニアは1万2千年ほど前にオーストラリアから地殻変動によって分離されて出来たので、動植物も独自のものが多く、特に動物はいろいろと特色があります。

有袋動物(タスマニアタイガー・タスマニアデビル・オポッサム・カンガルーなど)の棲息地です。タスマニアタイガーは絶滅したとのことです。原住民もタスマニア・アボリジニとして区別されていますが、純血タスマニア・アボリジニは皆無。今は保護されて5部族・2500人ほどがいるとのことでした。

この島は東インド会社のアベル・タスマンによって発見されたので、タスマニアという名を持っています。一寸、知ったかぶりをしました。道辺に見られる電信柱は殆どがユーカリの木です。地上2メートルくらいのところにトタン板が巻かれてあります。オポッサムが本物の木と間違えてのぼり、配電に支障が起こらないようにするためですって・・・。 

ブッシュミルの昼食





タスマニアのブッシュミルと言うところで昼食になりました。タスマニアの水は美味しいと言うことでした。このビュフェスタイルの昼食のテーブルに無造作にワインか何かの空き瓶に水が入れられてドーンと置いてありました。何だか少し色がついているみたいでしたが、味には変化がありません。普通の水でした。タスマニアは田舎です。空気と風景と接待はとてもいいところでした。鶏肉とラムチョップとポテトとトマトなどのサラダとホームメードのパン。フルーツです。最後にたっぷりのアイスクリーム(主人の分も私がいただきました)とコーヒー(これはあまり美味ではありませんでした)です。


ブッシュ・ミルの豆汽車

ポインターを載せてください




昼食をとったブッシュミルのレストランの横に、こんな列車がありました。ダン・レノンのとは違って、ここのプライベートの観光列車です。レストランのまわりの森や林の中をピーポーと汽笛をならして回ります。一回り30分だそうですけれど時間がないので乗りません。整備をしたり、運転をしたりする50歳くらいの男の人と話をしましたが、この列車はピカピカにみがいてあって彼の玩具のような感じでした。踏切があって信号機がういていたり、ちゃんとプラットフォームがあったりして私も楽しくなりました。子供たちと一緒に乗ったら楽しいだろうな! 日本では見られない夢のある豆列車でした。


タスマニア絶景









タスマンアーチと言うところは海にむかって大きな空洞になっています。岩盤で出来た海岸が六千年もの間海の波の浸食を受けて出来たもの。

こんなとき、日本とついつい比較してしまいますが、東尋坊の景色ととてもよく似た感じがします。打ち付ける波は静かなのですが。岩盤が幾重にも重なり、危うい均衡を保っていて、のぞき込むのを躊躇してしまう切り立った崖です。
中はデビルスキッチンと呼ばれている所の展望です。このあたりはみな、足元からまっすぐ下に切り立っていますが、写真ではどうにもその迫力をお見せできないので残念です。このあたりはポート・アーサー監獄跡に行く途中です。

海は穏やかで水は澄んでいます。でも恐ろしいほおじろ鮫が棲んでいますから警戒が必要です。

頬白鮫と言えばオーストラリアでは年に何人かはその餌食になるのだそうですよ。オーストラリアの友達は「いつものことだ」と言う顔をして話していました。シドニー近くの海水浴場にはシャークネットという鮫に対する防御策がこうじられていたのを思い出しました。
日本だったら大騒ぎしてしまいますよね。海を染める血の色を想像するだけでも凄まじい話です。

別の話ですが、タスマニアは蕎麦の産地で、日本にその90%も輸出しているんですってよ。季節が反対ですから、ここからの輸入のおかげで私たちはいつも新蕎麦を食べているかも知れません。因みにオーストラリアで日本風の蕎麦を食べさせる所はシドニーに一軒だけだそうです。勿論タスマニアそば粉を使って、日本人が経営しているおそば屋さんですって・・・・。



         


シドニーも既に囚人の送りこまれる所でしたが、ここはもっと きびしい監獄です。オーストラリア・タスマニア州ポートアーサーは監獄だったところです。一度に一万二千人を収容できたと言うこの大きな監獄には、平均年齢二十六歳と言う罪人たちが続々と本国イギリスから送り込まれました。



 1803年から閉鎖される1853年までの 間に7万人が収容されたとのこと。罪は些細なことばかりで、 パンを盗んだ鍋を盗んだ、布を盗んだなどと言うことで7年の 流刑!。 

 勿論もっと重大な罪で終身刑になって3畳程の小さな部屋 に禁固の上、きびしい労働をさせられ、かなりの残虐な痛め つけもあり、死亡したものも多かったらしいです。幽霊ツアー が行われていましたから・・・。
ポートアーサー監獄跡












そんな囚人の為の教会もありましたが、一人一人の顔が合わないように区切られていました。賛美歌を歌う以外は言葉を出されないシステム。そんな終身刑を受けて労働をしている囚人にも一週間に一度の運動がありました。それもマスクをつけてお互いが話もできない状況にして監守のきびしい監視下にありました。

死んだものは少し離れた島に埋められていて、そこは「死人の島」と呼ばれていました。
この牢獄があるのは半島で、ここに来るためには両側が海、幅百メートルあるかないかのくびれた道を通らねばなりません。そこに獰猛な犬を飼っている監視所があって、海はほおじろ鮫が棲息するとなると、囚人は逃げられません。でも暢気に見ているわれわれにとっては景色はよかったです。監獄を監督する立場の人々の住む所には素晴らしい英国風庭園があったりしました。敷地に入るとすぐにビジター・センターがあってそこで地図を貰ってそれに従って、小一時間ほどかけて歩きます。途中に監獄だった建物の一部を区切って、ここでの囚人生活の実態を展示して見せている場所がありました。悲惨なものでした。

上でお見せした石橋はここの囚人たちの労働の成果。そのほかにも海の浅瀬を埋め立てて道を造るなどの労働に従事させられたらしいです。平均年齢26歳と聞き、些細な罪と聞けば、タスマニアの開発の為の労働力として送られて来たのかもしれないと考えさせられました。

刑を終えた人々は、本国に帰るには4ヶ月もかかるので、ここにとどまり、治安が非常に乱されたそうで、住民の請願により監獄は閉鎖になりました。そのあと、山火事などで破壊され、イメージが悪いと敬遠されていましたが、歴史的な意味が深いと言うことでユネスコの世界遺産とされました。 タスマニアは自然も世界遺産になっています。 


2月17日 操舵室



ミルフォードサウンドに入ったとき、操舵室見学を許可されました。

サウンドは切り立た崖で、すとーんと深くなっているから、水先案内人などは不要なのではないかしらと考えていましたが、とても入り組んでいて,この水先案内人はむっつりと前方をにらんで、背後の人々にドスの効いた声でしきりに指示をし、操舵する人はそれを復唱しては舵をとっていました。緊張感と言うほどのことではありませんが、みんな真面目な顔です。

海の真ん中を航行しているときにも見せていただきましたが、のんびりしていたそのときとは全く違った感じです。天候が悪くて、サウンドの風景はよい写真も撮れずにしまいでしたので、そのときの操舵室をお見せしました。


ミルフォードサウンド






南半球のフィヨルドランド国立公園・ミルフォードサウンドにはいりました。ニュージーランドはトレッキングで有名です。ここミルフォードトのトレッキングコースはその中でも有名なところです。私たちはトレッキングはムリ・ムリですから、船でサウンド観光です。

今回は雨に恵まれて(一寸ひねくれた表現 です)今ひとつの風景でしたが、雨が降らないと、この岸壁にかかる細い瀧は無くなってしまうのだそうですから、その点恵まれたのかも知れません。

北欧のフィヨルドではべったりと凪いだ風景でしたが、感じがちがいました。それでも、晴れ間のたまゆらの虹、水量豊富な瀧のとどろき、ライオン岩と言 われる岩、そして蝦や蟹の漁が行っている船などで楽しみました。付け足しですが、ここではフィヨルドと言わずサウンド(深い入り江)と言われています。氷河だけで削られたのではなく、浸蝕もその形成に関わっていることによるのでしょうか? 

サウンドを三つ出たり入ったりしましたが、サウンドからタスマン海にでる度に、うねりと波の襲来で、スタビライザー(揺れを抑える装置)のついた船でも(この私でも)船酔いでした。

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