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奄美大島につく。。老人二人(八十五歳と七十三歳)は一般のツアーには迷惑を掛けるだろうから、自由行動です。まずは黒砂糖を造っている小さな工場?。
ぞっくりたばねた黍が家の前にあって、中は湯気もうもうとしている中に、小父さんが一人いて作業している。
束ねてあった黍を短くして、圧搾して出た汁を煮つめて煮つめてと言う作業中。煮詰まって来ている汁は泡がブツブツ・・・・。
どれくらいの時間煮つめるのでしょうか。聞かないでしまったけれど、大変な作業でしょう。たった一人で、他に人はみえませんでした。煮つめて煮つめてから、攪拌すると、次第に餅のような感じになるのだそうで、それを伸ばしてカットして冷やすんだそうです。
容器にこびりついていた黒砂糖を嘗めましたらやはり黒砂糖の味がしました。当然です。 |
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奄美大島で必ず行って見ると決めていたのは
田中一村記念美術館でした。
NHKの女性キャスターだった宮崎緑さんが
館長を務めています。
茨城県の彫刻家・田村稲村の長男として生まれ、幼時から、画才に長けていて、東京美術学校・日本画科に入ったが、自分と父の病気のために中退。
昭和22年に 「白い花」が第19回青龍社展に入選。
その後は中央画壇での入選はなかった。
奄美大島が日本に返還されたあと、スケッチ旅行がきっかけで、昭和33年に五十歳で。 奄美大島へ移住。
日本の中央画壇への出展はなかった。
奄美大島では大島紬染色工として働き、少しばかり蓄えが出来ると、絵を描くと言う孤高な生活をして
亜熱帯の植物や動物を独自の筆致で描いたのです。
昭和52年、六十九歳で誰にも看取られずに他界。
右の写真は美術館にあったもので昭和40年頃の
ものだそうです。 |
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田中一村美術館のある所は、奄美大島の
「奄美パーク・奄美の郷」の中にあります。
広い敷地を持ち、中には各種の施設があります。
奄美の自然や文化、歴史などを紹介することが目的だとありました。
広びろとした駐車場や、多目的広場、野外ステージなどが設けられていて羨ましくなるくらいでした。
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右の写真は奄美黄島地方の昔の倉庫なのだそうです。今では冷蔵することもできますが、湿気の多い奄美大島での昔の暮らしでは、高床式で風通しをよくしての保存ということだったのでしょう。
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「けいはん」と言うのを食べて見たらと、
隣席の人に教えて貰いました。
昭和天皇・皇后陛下が奄美大島を訪ねられたとき
この「けいはん」を召し上ってお喜びになられたんです。
天皇皇后両陛下のみならず、総理大臣も
食べたのですね、色紙が飾ってありました。 |
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「けいはん」は「鶏飯」です。 鶏肉を細くほぐしたもの。
「金糸卵」「茸」「野菜」に「焼き海苔」
温かいご飯に載せて、鶏肉のスープをかけて
いただくというものでした。
魚介類は奄美大島ではあまりに 普段の食べ物だったでしょう。 鶏肉はきっとご馳走だったのでしょう。
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天皇皇后両陛下も、ここから海を見はるかされたと言うことでした。
「あやまる岬?」「謝る岬?」どうして?という疑問が湧くのが自然ですね。この標識の下の石にその謂われが書いてありました。
この岬一面のなだらかな景色とあおい海との情景が、島の娘達がつくるアヤに美しい鞠に似ているということなのだぞうです。
真下には皆が楽しめる公園設備、一望すると目前はあおい海・太平洋。右手には、入り江になっている海岸の緑が確かに「アヤ」に美しい。
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あやまる岬の小高い丘を降りると、
路際の草叢に鉄砲百合が咲いています。
屋久島でも、沖縄本部でも草叢に沢山の
鉄砲百合が盛り咲いて居ました。
内地では、珍重されるのに、沖縄では
野の花なのですね。
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大島紬村に立ち寄る。泥大島の行程の煩雑・複雑さを見せられて感動する。夏も冬も泥水の中で作業をしなければならないと言う酷薄な工程を、継続することを希望するのは無理なのかも知れない。 |
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それにしても、盛業だったときには二万五千反も作られて居た大島紬が、いまはたった五千反程度しか織られていないと聞いて、これもまた驚く。和服で暮らしていた時代には紬はよく使われ、男物も多く織られていたが、今では着る人が少なくなったことで、採算がとれず、盛んだった頃は各家々に織機があって、家内工業の一つでもあったのだが、今ではそれも絶えてしまったのだそうだ。近代化と言う事で伝統が消えていくことは何処も同じ・・・。この様な伝統工芸にこそ補助金を出してでもなくならないように様して欲しい。
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西郷吉之助が菊池源吾と名前をかえて暮らした家。
地元の名家・龍家の愛加那と結婚して、一男一女を
得ました。西郷の写真はありませんが、妻だった
愛加那と長男でのちに京都市長になった菊次郎の
写真がかけてああった。
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(西郷吉之助 流謫の家です)
八畳間二間ほどの家です。この後ろの方に手洗いがあり、軒下の濡れ縁の傍に見える植物の鉢がおかれてある石は、彼らの手水鉢として使われたものだったとのことです。
妻だった愛加那の係累をひく龍家の人が、管理していました。
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流謫の家の庭に、勝海舟がよせた碑文のある石碑があった。年月を経て、すっかり風化してしまい。
文字は読むことが出来なかった。
その他にも西郷が植えたという櫻の木があり、
愛加那のことを記した碑もあった。(右)
ここに明治維新の影にある隠れた歴史を
見ることが出来た。 |
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船への帰途、蘇鉄や芭蕉の群生地を通る。
芭蕉の花
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ディエゴとサンダンカ
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デザートのアイスクリーム
神戸で下船する人がおおいので、今日が
最後の晩餐になる。
今回はフォーマルなどと言う
ドレスコードのない気楽なクルーズだったが
最後の夜は乾杯をして・・・フルコース
と、いうことになった。
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