茫茫漫遊記 中華民国・大連・北京 紀行

 大 連    旅 順    大 連    北  京    北 京   北  京

大連・中山路から大連特別区に入ると、マツシタなど、コンピューター関係、ハイテク関係の事業所の工場があったりして、立ち並ぶ集合住宅の住民は殆どがそこで働いていると聞きました。

大連から旅順までは、新しい住宅群もあるけれど、農村地帯になると、昔のオンドル式の生活をしているらしい家が多く見られます。このあたりでは、米は出来ず、輸入しているのです。玉蜀黍を粉にして、焼いたり蒸したりしたのが、以前は主食だったそうですが、今は変わってしまったそうです。玉蜀黍は飼料として使われる事が多くなったとの事でした。林檎(大連林檎と言う名前があるそうです)桃、梨、サクランボなど、果物の栽培が行われていました。

旅順と言えばわれわれは「日露戦争」をすぐに思い、日本とは歴史的な関わりの深い所です。人口23万人、その内3万人が軍人という構成だそうです。
遼東半島が中国のものになったのは 明時代でした。1984年・日清戦争のあと、日本領とされましたが、不凍港が欲しいロシアが、ドイツ、フランスを誘って,三国干渉をしてロシアの借款地になり、軍港を築いたと言う歴史があります。そしてはじまる日露戦争だったのです。



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2009年までは、中国の軍事施設があるために、旅順は外国人には開放されていませんでした。

これらの戦跡は中国人を対象にして設備されていたのでしょうか。ととのえられていました。日露戦争の時のロシア軍がたてこもった東鶏冠山の北保塁です。下から出るのは、この保塁の内部です。

ドイツ製のセメントで固めたこの保塁には、砲弾のあとが無数に残っていました。非常に大きなものでした。

この強固なロシア軍の保塁を攻め落とすときの日本軍は大変な困難に遇ったようでした。大凡の日本の記念碑の様なものは、中国になってから処理されてしまったようでしたが、下にある記念碑は今もそのまま残されてありました。



日露戦争と言うと、すぐに203高地という言葉が連想されます。乃木大将の苦戦したところです。当時は全く樹木の生えていない標高203メートルの山だったそうですが、今では植林され、木々が育っていて、緑の山でした。


日露戦争では乃木大将の二人の息子が戦死しました。


われわれのバスはこの山の下でとまり、
山には小型の乗り合いの車です。


上の様なスローガンが書かれてありました。


乃木大将の次男の 保典 の戦死した場所は二百三高地へ登る途中にありました。
この標柱の建っているところへ、少し徒歩でくだる林の中にたっています。

長男の勝典 が戦死したのは金州城下ですが、そこでは次の有名な漢詩を詠んだのでした。
 
山川草木さんせんそうもくうたた荒涼、
十里 風腥なまぐさし 新戰場。
征馬せいばすすまず 人語らず、
金州城外 斜陽立つ。


二百三高地は 「(2)(0)(3)」 と言う名になっていました。
 
この名前は乃木希典大将が漢詩の中に詠んだ名前です。
 
沢山の戦死者があった激戦地の山ですから
「爾(なんじ)霊の山」なのですね。
 
この塔の「爾霊山」と言う文字の横に乃木大将の名前があったのだそうですが取り外された鋲のあとが残っていました 

 
左の塔は「爾霊山」塔です。乃木大将が書いた文字だそうですが、その名前が書いてあったところは、取り外されて金具のあとがついていました。


水師営の会見所でした。ここも昨年9月から外国人の観光か解禁になったのだとかいいました。1997年に復元して建設されたのだそうです。一同はあの「水師営の会見」の歌を唱いだしました。小さな民屋の中は資料室になっていて、当時の写真が飾られていました。条約の署名をしたのは、野戦病院だったこの民屋で使われていた手術台で、その上に白い布を敷いたものだったとか言います。その机に当時の医師長が由緒を墨書したものが当時のままに残されてありました。
歌の中にある「棗の木」は枯れては植え直しをして5代目だとかで、まだ弱々しい若木でした。



旅順港を眼下に見下ろす白玉山です。ここに建っている白玉塔は
日本軍が建てた戦勝記念塔でした。日本では昔「勇士の骨を埋めたる忠霊塔を仰ぎ見よ」として、小学校で教えられた表忠塔であったそうです。
今は白玉塔という名前になったいました。台座などは日本から運ばれたものなのだそうです。

ここから見下ろすと旅順港の港口が狭くなっているのがよくわかります。日露戦争の時、この港口を閉鎖する作戦をたてたのでそうですが、失敗に終わったと聞いています。
その折に日本最初の軍神として讃えられた「広瀬中佐」のエピソードがあります。
「杉野は何処。杉野は居ずや〜」と、歌った記憶があります。
ここでも、はからずもその歌を歌う事になった私たちでした。



      
      



旅順の街が外国人に解放され、見る事が出来るようになったのは、2009年9月からだとガイドは言いました。
確かにこのようにはっきりと軍港という軍事施設を見下ろす事が出来るところですから、秘密は当然だったと思いました。

ところで、この塔の説明が、中国語と英語で記されていました。
内容はともかくとして、日本人ならば大抵の人が知っている「東郷平八郎」が英語では「東郷ひらたろう」になっていました。「乃木希典」は「まれのり乃木」になっていました。翻訳と言うのは難しいでしょうが、こんな間違いはちょっと考え物だと思いました。

      
 

旅順工科大学」は、当時の日本が設置した大学でした。工業専門学校はあっても、工科大学はまだなかったのだそうです。ここには日本でも最高の教授が赴任し、入学試験も40倍にのぼったとのことでした。駒場の第一高等学校で試験が行われたのだそうです。
今は軍の大病院になっていました。美しい建物でした。





ここの並びにある「旧旅順高校」は、今は海軍の軍司令部になっていました。

旧旅順高校の寮歌は、戦後「北帰行」として、小林旭が歌ってヒットしたものでした。

何となく親しい思いがして、通り過ぎてからバスを降りて、かなり離れたところからですが、写真を撮りました。すると門のところに立っていた兵士が駆けだしてきて、「カメラを出せ」と言います。そこで撮したファイルを全部消されました。格別な設備があったわけでも、見えるわけでもありませんけれども、吃驚しました。
ガイドの話では、この通りを通る事は、去年まで出来なかったのだそうでした。
少し、不注意でした。

      
      


星海公園・日本時代に造られた、日本人のための公園だったそうです。
海水浴の出来る静かな湾に添っていて、植物も沢山植えられていました。岩場は柔らかく浸食された石で、沢山の人々が散策したりして、遊んでいました。

ここで拾った石を持っていると幸運が来るとか言う話で、加工した石のお守りなどが売られていました。

少し沖の方にバンジージャンプ台が設備されていて、夏には賑わうと言うことでした。バンジージャンプは夏だけではない遊びですが、少し寒い感じのする海風でしたので、人影は見えませんでした。



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下からバンジージャンプ台が出ます

   
  
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「老虎灘」というところです。他は静かな湾内ですが、ここは激しい潮流が岩にぶつかるところだそうで、古くから名勝とされているのだそうです。

この岩の崖の形が虎に似ているからとも言われていました。この虎を退治した英雄が、そのしっぽを投げ捨てたのが、旅順港の中に出来ている岬のような形になったのだとか。

今日の中国の彫刻家が、その伝説に基づいて造ったと言う大きな虎の8匹がいます。中国では8がラッキーナンバーなのだそうです。
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海鮮料理のお店で夕食でした。いろいろでした。    
      
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