茫茫漫遊記 中華民国・大連・北京 紀行
 大 連    旅 順    大 連    北  京    北 京   北  京

北京に着きました。丁度 中秋節の3日間のお休みの時期だったのです。

国中が中秋のお休みを楽しむという事で、観光地は混雑しますよとの話を聞いて、この人口が多い国の人出はどんな風だろうと少々心配になりました。


北京飯店と隣り合っている(中でつながっています)ラッフルズホテルに泊まります。北京の最も賑やかな大通り「王府井・ワンフウチン」はすぐ傍です。
ホテルのサービスで、大きな月餅を貰いました。中秋の名月を見ながら、キンモクセイ茶を飲み、月餅を食べると幸福になるというのでした。本当にいい天気で、夜の食事に出たとき、ライトアップされた北京駅の上にある名月を仰ぎ見ました。
夜の食事は、中華料理でも辛い事で有名な四川料理でした。その辛さは甚だしくて、口に合いませんでした。ケロリとしている人もおりましたが・・・・。
燕京ビールを飲みました。青島ビールよりもアルコール分が多いので、ビールと言う感じがしました。





北京は人口二千万、重慶、上海に次ぐ。面積は四国に相当しています。季節ははっきりしていて、温帯大陸性気候で冬と夏が長く、国慶節のある秋は最も快適な季節となっています。春は黄砂や、ポプラの柳絮が飛んで鬱陶しく、冬は−20度。夏は39度にもなるそうです。でも湿気が少ないので東京などの暑さよりは楽なのだそうです。緯度は秋田程度。


北京飯店の大きな建物の一部を、ラッフルズホテルとして経営しているのだそうで、ロビーは北京飯店につながっています。高級なブティックや、宝飾店、美術品の店舗が入っています。

そこを通り抜けると、王府井なのです。

王府井の人の流れは、とても説明できるようなものではありませんでした。出かけるときは、懐中物にしっかりと気をつけて下さいと、ガイドのくどいくらいの注意を聞きました。

私たちは、出かける事はせずに休みました。


朝、船を模してつくられているバーのまわりに展示されている現代書家の書を見てまわってから朝食をとりました。





北京の歴史は20万年前の北京原人に始まります。歴史は変遷を経て、戦国時代(韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦 の「戦国の七雄時代)燕・秦・前漢・後漢・南北朝・元・明(この3代目・1410年から北京に都を移した)・清朝(1644年・300年つづいた)のあと、分割の時代(30年ほど)があり、孫文・そして1944年に中華人民共和国となりました。今日の中華人民共和国は人口・14億と推定されています。
北京の北は山地で、北京の70%は丘陵と山地、東南が平地という形になっています。万里の長城への道を辿ると、その形が理解できるような気がします。険阻な山の彼方の、異民族の侵略を防御するため、また国境を示すために造ったと言われていますが、まことに驚異の建造物で
した。




マウスポインターをどうぞ

万里の長城を建設し始めたのは、秦の始皇帝と言われています。紀元前246年 に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称したのでした。当時の長城はまだ土塁でしたが、明の時代になって煉瓦の長城が造られたのだそうです。中国では八が最も幸運な数字とされていて、ここは.
八達嶺長城です。観光客のためにロープウエイが設置されていて、私たちもそれを使いましたが、このすさまじい人、人、人に度肝を抜かれました。休日だった事もあるでしょうが、一日に十万人以上も訪れると言うのですから・・・・。 .
..




それにしてもこの延々と続く長城には感嘆する他はありません。

そしてここに群れて登る中国人の甲高い騒音のような会話と、行動に圧倒され、辟易してしまいました。

ロープウエイで降り、長城脚下的公社というところで昼食をとりました。

ほっとしました。北京の上層階級の人々の別荘地で、ドイツのケンビンスキー社が買い取ったと言うところでした。創作中国料理を楽しんで、心がやっと落ち着きました。


北京へ帰って頤和園を訪れます。
ここもまた、中国人の観光客で、ごった返していました。中秋節の休日ということで,郊外の人々が押し寄せているのです。

ここは1884年から西太后の居所として、光緒帝によって、乾隆帝の時代につくられた庭園を再建したものでした。この再建のために、軍事的な予算を流用したために、日清戦争に敗北したと言われています。

贅を尽くして造られているここは、西太后の避暑地として、政治を牛耳ることになったのでした。




頤和園は300ヘクタールほどもあり、その3分の2が湖水。3分の1が山のある庭園です。清は満州族が支配した国家なので、門などの名前には「満州文字」が併記されていました。

写真は正殿の前にあった彫刻です。西太后を象徴する孔雀と皇帝を象徴する龍です。不思議な事に上座に 「孔雀」、下座に 「龍」がありました。

清王朝の 愛親覚羅家 よりも 西太后の方が上だという事だったのでしょうか。


     マウスポインターをどうぞ

マウスポインターをどうぞ


頤和園の正殿「排雲殿」と仏香閣
西太后が再建したものです。

昆明湖を望むところに建てられています。


下から出るのは 
雲輝玉宇 
これを通して見えるのは昆明湖です。



楽寿堂は西太后が居住したところとされています、寝所でしょうか、内部を撮したら、こんな風でした。昔の宮廷の暮らしは、想像もできませんが、こうして残っているのをみると、心が動きます。

この頤和園で壮観なのは、下にある写真の長廊です。
各建造物をつなぐ廊下で、その長さが730メートルもあろます。これは“画廊”と言えそうです。梁にはそれぞれに、三国志だとか、孫悟空などの1000を越す画か描かれているのだそうで、すごいものでした。



楽寿堂の内部


マウスポインターをどうぞ


長廊の天井と梁



マウスポインターをどうぞ

頤和園の壮観を見てホテルに帰り、夜は北京ダックを食べにゆきました。

ここは北京ダックで有名なレストランだそうです。

バスで移動するとき、月が出ました。昨日が中秋の名月と聞きましたが、月齢の十五夜の満月は、今日なのだそうです。

レストランは盛況でした。予約客だけしか食べられないと言う有様でした。

お店の真ん中にダックを焼くところがる、ぶらんぶらんと裸になったダックを運び入れてきます。




ガンガン燃やしている竈につるして焼いていました。「なんと人間は残酷なことよ!

焼き上がれば私たちの座って待っているところに来て、目の前で皮を削いで・・・・。
これはこれは、まことに目前ですから面白いには面白いのですが、ここでも人間の残酷さをしみじみ感じさせられます。食べ方はみなさまご存じの通り・・・・。
お皿に盛られると、もう残酷だったことなどは、ケロッと忘れてしまうのですね。
 

  

運動もせず、強引に飼料を食べさせられて太らされ、大きくされて、毛をむしられ、火に焼かれるわけです。そして皮を削がれ、クルリと薄い小麦粉の皮でまかれて、先ほど、毛をむしった裸の鳥を運ぶ姿をみて残酷だと思った事など、すっかり忘れてしまった人間様のお腹へ直行と言う事になるのでした。
皮だけでなく、はぎ取ったあとの身も調理して、さまざま食べました。


今日は充実した一日でしたが、疲れました。

[上へ戻る][目次ページへ]