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倉敷は通りすがりと言う感じで通り過ぎます。朝、時間が早いですから、観光客がほとんど見えません。大原美術館も見たいのですが、今回は省略し、美観地区を三十分ばかり歩いてから、長島愛生園の方にむかいます。 ドライバーは倉敷の人で、こんなに美しいところではあっても坂の多いところでこの辺りは住みやすいところではないと話しました。 少し開けた感じで、車は吉備路を走ります。米作りの田圃は広く整備されていて、その中に整備されている高速道を走り抜けるのでした。走ること約一時間半。途中の道の駅で軽く昼食をとりました。 |
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昭和六十二年、邑久長島大橋で陸地は繋がり、バスでの運行もあり、すでに隔離されているところではなくなっているのですが、そこまでの途中はかなりの田舎の細道を通るので、辺境という感じがしました。 橋を渡ると小川正子の「小島の春」の舞台である昭和五年に開設された国立癩療養所愛生園の長島です。当時、ハンセン病は感染症だということはすでにわかっていましたが有効な治療法が無かったために政策としてこの島に隔離が行われたのです。 「小島の春」の記録がハンセン病(当時は癩だとかレプラだとかいいました)隔離政策の一助になったとか言う話があり、映画にもなったことは周知の事です。 またハンセン病患者の治療に生涯を捧げたことで知られる女性精神科医・神谷美恵子も有名です。 昭和四十五年頃になると完全治癒出来る特効薬が出来ましたが、重篤な症状としていろいろな身体的な障害が外見的にもでますので、やはり差別の対象になっていました。いまも差別を厭う人達がここに住んでいるらしいですが、人影はみませんでした。床屋さんや、コンビニエンスストアもありましたし、整備された集合住宅が並んでいました。 ドライバーが「どなたかに面会ですか?」などと聞きました。はるばると遠くから、老人が見に来たということが不思議だったのでしょうか。ドライバーの心にあるかすかな偏見を感じました。 |
ここを訪ねた理由は、主人が若い頃に「抗酸菌病研究所」 にいたからです。結核菌が主な研究対象でしたが、「癩菌」 も同じ抗酸菌なのです。 いまは長島愛生園歴史館として公開されている旧事務本館に入りました・職員地帯とされているところに建てられたここに、入所者は決して立ち入ることが出来なかったのだ双です。歴史館として長島愛生園のこれまでの経緯を展示してありました。ここでしか使えないお金などもあって隔離がひどかったことを沁みて感じさせられました。 島の道を少しドライブしてみると、もう悲惨な感じは全くないのでした。診療所、看護学校、コンビニエンスストア、理容店、浴場、それにお寺や神社、教会なども整備されていました。 気候は穏やか、景色は瀬戸内海の穏やかな海にかこまれてパラダイスの様でした。 |
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岡山に帰り、岡山後楽園は入る時間がないので、紅葉している染井吉野が並んでいるお堀の外から天守閣を望んで写真を一枚撮ってから岡山駅にむかいました。 岡山の駅は賑やかでした。コーヒーショップで一休みしてから、新幹線ひかりで東京に向かいます。 今回の旅で、やはり、国道一号、二号線沿線は日本経済の大動脈。東北地方は遅れてしまっているとつくづくと思わされました。 |
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東京着、七時四十分。まっすぐ新宿へゆき、ハイアット・リージェンシー・トウキョウに投宿。まだクリスマスには早いのに歳末商戦が始まっていて、賑やかだった。 朝。息子の家に行ってから、タクシーで新橋演舞場へゆく。新歌舞伎座は来春からなので、今回は新橋演舞場。 十一時からの昼の部。顔見世大歌舞伎(双蝶々曲輪日記と人情噺文七元結)を観る。片岡仁左衛門は体調不良により代役。 やはり新橋演舞場はそれなりで、歌舞伎座とは違うので、すこし落胆。午後三時終演。 新幹線で帰宅。さすがに寒い。 |
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