茫茫漫遊記 佐渡 紀行

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 小比叡山蓮華峯寺に行きました。
八〇六年、佐渡が皇城の鬼門にあたるとして、弘法大師が開基したといわれる古刹だとのこと。
嵯峨天皇の勅願寺であったともいわれ、金剛寺・室生寺とともに真言の霊地となっています。
境内には国の重要文化財に指定されている金堂・骨堂・小比叡神社の石鳥居があります。
境内のいたるところにアジサイがあり、別名アジサイ寺とよばれているところだそうです。
佐渡はどこへ行ってもアジサイがさいていて、特にこのアジサイ寺への道は溢れるようなアジサイでした。広い境内がすべてアジサイで埋め尽くされていました。今まで見たアジサイ寺と言われるところと比べても、最高の景観です。重要文化財としての伽藍と、アジサイと言う取り合わせがさわやかでした。まだ少し色が浅かったのですが、盛りの時はどんなだろうと想像してため息をつきました。
 









弘法大師の像とポインターででるのが山門



石鳥居
ポインターで出るのが骨堂



順徳天皇御火葬塚に行く。順徳天皇の遺骨や遺品は京都へ運ばれて佐渡にはないが、御火葬蹟として宮内庁の管理になっていて、奥深い自然林の中にある。昭和天皇が皇太子時代に行幸され、一宮慶子の墓所にも詣でているとのこと。

順徳天皇には、一宮慶子のほかに、男子二の宮、三の宮が居って、地名として残されて居るとのことでした。
ここへ入るところに、「佐渡赤石」の販売所があって、お茶をサービスされました。赤石は土地保護の為、今は発掘が許可されておらず、展示されて居た中で、最高級品は三千万円だとか。

無明異焼の玉堂窯元に立ち寄ってのち、ホテルに投宿。修学旅行の小学生が大勢泊まるので、入浴時間を調整されていて、早々に入浴したが、大きい風呂で快適。夕食はやはり海の幸たっぷりでした。


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順徳天皇火葬塚。菊の後紋章つきの
広大な土地。
宮内庁の標識、注意書きがありました。



三日目、今日は、まず尖閣湾の絶景を見ることになる。途中、曽我ひとみさんが北朝鮮に拉致されたと言うところを通り、今はすっかり町並みもかわっているのだろうけれど、こんなところから連れ去られたのかといぶかしく思われました。

尖閣湾というところ。ドライバーの薦める景色ですが、今日は少し曇っていて見通しがあまりよくないと残念がりました。

ここで、戦後一世を風靡した「君の名は」の撮影が行われたとのことで、それに関わる記念碑があった。
 
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 「達者」と言うところは、安寿と厨子王の母が住んでいて、再会を喜んだとされていて、失明していた母の眼を洗って見えるようになったと伝わる「目洗い地蔵」があるとのこと。物語の様で、真実とは思われないが、何となく心ぬくもる思いで通り過ぎました。



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海中透視船に乗ることにして海辺に、崖を降りて笹子洞窟を抜ける。
岸壁近くの海には,眼を楽しませるほど沢山の魚が泳いでいました。カモメも岩の上に群れていました。

乗客は我々二人だけでした。風が強くかなりの揺れでしたが、ガラスを張った船底から海の様子が見られるのでした。
岩礁には海草が付着していて、小魚が群れて泳ぐのが見られます。
季節には絶壁となっているところを黄色に埋めてカンゾウの花が咲くのだそうだが、すでに花は終わっていました。文部省によって名勝地とされ、昭和二十五年国定公園にされたところ。海から見上げる絶壁は雄大ですばらしい景観であった。この断崖の上はすぐに田圃になって稲作が行われていたので驚く。


「北狄・ホクテキ」と言うところを通る。「キタエビス」とはもともと朝鮮系の名前で、佐渡先住民は朝鮮系の民族ではなかっただろうかなどと話し乍ら通り過ぎた。


佐渡金山全盛のころの相川は、人口十万人もあったという。江戸時代に鉱脈は沖の灯台のあたりまで掘り進められたのだそうです。湧出する地下水の排除が一大事で、その作業にかり出されたのが無宿人たち。無宿人は親兄弟から勘当されて、人別帳から除かれた人間のことで、そんな人々ををかり集め、坑道の排水作業に当たらせたのだそうです。一年か二年で倒れるまで働かされて死んだ人数は数え切れないのでしょう。墓としてのこっているのは二十余名だそうです。その他はうち捨てられたのでしょう。



「道遊の割り戸」佐渡金山の発見の端緒であった「道遊脈」の露天掘りで山が掘り崩された国の指定遺跡「道遊の割り戸」の見えるところにゆく。当時の試し掘りの穴がそちこちに見られます。



 明治時代に佐渡金山一帯は皇室財産に組み込まれて、御料所佐渡支庁になったことがあり瓦に菊の紋章がついていたりしています。
その後三菱に払い下げられ、近代的な採掘が行われた。初期には釜石鉱山の採掘にも功績のあった大島高任も、ここで働いたと言う。
 
見学コースは二つあり。近代の採掘坑と宗太夫抗コースである。宗太夫抗コースにはいる。地下に降りて行くと湿った坑道は寒いくらいであった。狸穴などがところどこらに見られ、見学コースは整備されていた。それにしても、人間が原始的な道具で採掘を行ってこれほどまでに深く掘っていたのかと、ため息をつきながら歩く。所々に当時の悲惨で陰鬱な採掘作業状態を現出して見せるロボットが動いていた。三菱による明治以降の近代的採掘も、鉱石の枯渇により、平成元年に終業した。三八八年間の採掘量は、金・七十八頓。銀・二三二〇頓だったと言う。



佐渡奉行所跡を訪ねました。ここは行政と裁判を行う役所であっただけでなく、勝場(セリバ)もあったのでした。勝場とは「金や銀を精製する 工場」のことです。そして奉行の住む陣屋や所属役人の住居が一堂になっていて三千坪あまりの広大さです。

この奉行所は、金山発見の二年後に建てられたものだそうです。

初代奉行は横領の罪で斬首されたなどと言う記録もありました。

焼失と再建を五回も繰り返し、明治以降は、市役所になりついで相川中学校になりましたが、昭和十七年にこれも火災で焼失しました。
    
中学校消失後、平成六年に国の史跡に指定されたため、保存整備事業が始まり、平成十二年に奉行所の復元が完了してその全貌が明らかとなて、公開されていたのでした。

係の女性が親切に各部屋部屋を一緒にまわり、ガイドをしてくれたので大変に参考になりました。

勝場では小学生の見学者がかなり来ていて、金の精製過程を少しずつ体験して勉強していました。

 


七浦海岸をドライブして両津港に向かいます。
生憎、海は曇り、霞んでいて、ドライバーが自慢する景色を楽しむとは行きませんでした、
晴れていれば夫婦岩など、奇岩が見られ、美しい海岸線だと聞きます。

長手岬。長手岬灯台。稲鯨。二見(ここは漁業で栄え、遊郭作りの古い形式の建物が残っていました。)を過ぎます。金井地区は佐渡市の市庁所在地です。

黒木御所(順徳天皇の粗末な御座所)あとなどがあります。

アメリカ占領時にはここにレーダー基地があり、今は自衛隊のレーダー基地になっているそうです。

そんな経緯から何と駅馬車などというバーがあったりするところでした。
両津港。一時二十分発のジェットフォイルで新潟へ移動.

ホテル・イタリア軒までタクシー。チェックインしてあとは夕食まで休みました。

ディナーは宿泊客特別サービスのコース料理。十二階にのあるゴンドリーナ。一番日が長い時期なので七時になってもまだ暮れなずんでいました。ヒレ肉百五十グラム。ワインとビールでゆっくり食事をとりました。
ピアノが置かれてありましたが、今は演奏者がいないとのこと。何となくさびれた感じがしました。窓外の灯し始めた街を見て休んで部屋に帰りました。 










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佐渡では和食ばかりでしたので、ひさしぶりで、洋食を食べたような気がしました。



列車にのるまで何もすることがないので、新潟の一番の繁華街とされる古町通りへ散歩。朝の時間が早いので店は殆ど閉まっていました。七夕が近いので七夕飾りがされていました。朝から暑い日でした。


新潟駅へタクシー。駅で笹団子を土産に購入。


朝食は、二階のレストランローザ。その前にあるロビーには異国情緒のあるソファがあり、赤絨毯の階段があるところ、大正ロマン的でした。


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