茫茫漫遊記 佐渡 紀行
 佐渡へ佐渡へと   佐渡 1    佐渡 2     佐渡 3 帰途

承久の乱に破れ佐渡へ流された順徳天皇は25歳という若さでした。それから20年余り、佐渡か出ないまま20年・46歳で自害して没しました。「ももしきやふるきのきばのしのぶにもなほあまりあるむかしなりけり」が小倉百人一首にあります。「みやこわすれ」と言う花にも語られている天皇です。
順徳天皇は配流中に、土地の女と関わり、二人の女の子と一人の男の子がいました。その母となった女のなは不明であると言います。男子のその後は不明ですが、この一宮慶子内親王は皇統譜にあり、六十歳余まで生存したそうでその墓所は宮内庁の管理となっていました。





実相寺・前庭にある今では天然記念物になっている千年杉と、袈裟掛けの松との間から見える山並みが日蓮の故郷の房総の小湊の情景とにているとのことで、一ノ谷妙照寺に住んだ日蓮が日々訪れてここに立って古里を懐かしんだと言います。日蓮の古里に向かって立つ銅像がありました。
  
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千年杉と袈裟かけの松 

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一ノ谷妙照寺・根本寺から一ノ谷入道の阿弥陀堂に移り住んて、ここで大部分の佐渡での生活をしたのだそうです。

沢山の伽藍には日光東照宮にも見られる龍の頭や雲の彫刻が施されています。下の写真をご覧下さい。佐渡のお寺はどれも大きく立派です。そしてよく管理されている様に思われました。


     


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 佐渡歴史博物館に行きました。近代的な建物です。
入り口の門には、新潟県佐渡生まれの鋳金家で重要無形文化財保持者・人間国宝だった佐々木象堂の「瑞鳥」がかざってありました。

 一階には佐渡の歴史や物語にちなむさまざまな物語を動くロボットが順を追って解説して見せてくれます。

配流された順徳天皇から、、安寿と厨子王、日蓮のいろいろな物語。、佐渡おけさのいわれ、世阿弥の能など、等身大のロボットが解説付きで動いて見せてくれました。




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これが「瑞鳥」です。


佐々木象堂(一八八二〜一九六二)


老人夫婦が昔話をするところでは、まるで本物にようで、ふと声をかけたくなるような男の子が座っていたりして面白かった。


付属の土産物店の煎餅売り場では、北朝鮮拉致被害者である曽我ひとみさんの夫・ジェンキンスが勤めていたが、むっつりとして、煎餅の箱を整理していた。




寿々木米若の浪曲・佐渡情話で知られている「小木」の港へゆきました。盥船での乗船体験もできるとのことでした。波もなくて静かでしたがちょっと恐怖で遠慮しました。。今の盥船は中に水中をのぞけるようなガラス板がついていました。モーターをつけて海草を採ったりするのにも使われているそうです




矢島・経島と言うところを望見できます。矢島は良質の矢竹を産したところだそうです。経島は1274年、日蓮の赦免状を携えた日朗が途中嵐にあい、ここに漂着して一夜を読経して明かしたところでとのことです。二つの島は赤い橋でつながれていた。


海岸線を走りました。人面岩と言う面白い形をした岩がデ〜ンと座っていました。ドライバーはこれは田中角栄に似ている姿でふんぞり返っています。新潟・佐渡にもっとも貢献のあった首相なのですね。国道360号線にはフェリーの航路も含まれているという話を聞いた。佐渡には国道に認可するほどの距離がないのだが、フェリーの航路もそれに含めて加算して、距離に足りたのだと言う。その発想を知れば、彼の強引で奇抜な発想・政治力であったことが解ります。新潟県にとって「田中角栄」は大恩人なのですね。

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