茫茫漫遊記 佐渡紀行
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佐渡と言えばトキ。「朱鷺の森公園」(トキ資料展示館)を訪ねました。

トキの学名は(ニッポニア・ニッポン)だという事は周知のことなので、もともとは日本に多く生息していたのです。純粋に日本のトキは2003年10月に死亡した「キン」が最後で、同じ種ではありますが、中国原産の朱鷺を譲り受けて繁殖させたものを飼育して、再び日本をトキの里にしようとしているのです。中国からの朱鷺とは微妙な差があると聞きました。
昔は珍しくなく飛んでいた朱鷺なのだそうです。
朱鷺は神経質な鳥なので、遠くの金網のケージに入っているのを望むだけでした。


 
今は百九十羽ほどにふやしたとか。公園の前に「最後のトキ・キン」の記念碑が建っていました。

トキ色と言う言葉があるように、美しい羽を持つ日本のトキが、飛び巡る日が来る事を願いながらみてまわりました。

この他に、黒トキなどと言うのが飼われていましたが、こちらは神経質では無いらしく、悠然と餌をついばんでいました。

出口にある出張郵便局売店で記念切手を買いました。



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ポインターを載せて見て下されば解説が出てきますが、これが気比神社の能舞台です。降りたって見ませんでしたが、見る限りでは、演能をするお祭りの時以外は、こんな風に 荒れてしまっているのですね。

先述したように、佐渡の川は水が豊かで、川魚も多いのですが、佐渡の人々は殆ど川魚は食べす、釣りもしないので、昨今は内地の人々が、川釣りを目当てにして訪れることが多いという話を聞きました。
佐渡の廻りは全て海だし、海の魚の方がうまいから・・・と運転手は言うのでした。なるほどです。
ガイドブックには、能楽の里と言うところがあるとありましたが、今は客が来ないので閉じられているとのこと。世阿弥が佐渡流刑になってきたことで、佐渡は能が盛んに行われ、以前は島内に三百もの能舞台があったそうです。昔は各村落ごとに神社があり、そこに神楽殿となる能舞台があって、農民が演能していたそうですが、今は廃れてきているそうです。しかし、残った能舞台で、いまでも薪能などが行われていて、村落の人々が伝承しているのだそうです。中には中央から演者がくることもあるそうですから
やはり能の島なのですね。


佐渡はまた殆どの果実が収穫できるとのこと、特に柿がよいとのことでした。柿栽培農園の柿の木は矮化栽培で、大木ではないのでした。丈低く枝きりをすると共に、虫害予防に樹皮を削ぐなどの手入れを必要とするので、大変だとのことです。柿の果樹園が多く、全て矮化栽培てある。右に左に柿の果樹園をみて走ると、雉子の番が道路を散歩しているのが見えた。こんなことはしょっちゅうで狸の親子が道を歩いていたりするとか。狸の親は決して子供を見捨てないで一緒に走る。人間の親はこの頃ダメダネなどとドライバーが言う。


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寂然としたお寺でした。山門の入り口で拝観料を払うとき、庭に蜂や蛇がでますか、気をつけてまわって下さいと注意をうけました。

根本寺・山号はは塚原山。もともとは佐渡のこのあたりの死人の捨て場所で、「古墳累々たる塚原なり」と言う言い伝えがあったところだそうです。
700余年前・1271年に五十歳の日蓮聖人が流刑になって佐渡に来た折りに、約半年間三昧堂と言う庵に住まいしたと言う後に開かれた寺院です。


    

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。ここには新潟県にただ一つと言われる五重塔がありました。江戸時代に佐渡相川の棟梁親子によって建てられたもので、青葉の中に美しい姿を見せています

   

妙宣寺・佐渡に配流された日蓮聖人に帰依した阿佛房・日得上人の開基による寺です
。この寺の開基は佐渡に遷行された順徳天皇の北面の武士・遠藤為盛が日蓮に帰依した日得上人です。
妻の千日尼と共に、配流された根本寺の日蓮に食事を運んで助けたと言う話が残っています。
ここは竹田城・本間山城守の居城跡であったそうです。流されてここに預けられていた父・日野資朝に逢いにきた阿新丸(くまわかまる)の仇討ちの物語・謡曲・壇風の舞台となったところですと言う説明があり、日野資朝の墓がありました。

 
 



 
  妙宣伝寺山門

 

妙宣寺祖師堂

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