茫茫漫遊記 サハリン一日紀行


           
 函館から小樽  コルサコフ・
ユジノサハリンスク
小樽から三沢へ    三沢



接岸したコルサコフ港・昔の大泊・貨物の港でした。夜中に停船した船に水先案内人が乗って来て、接岸したのは7時過ぎです。
 こんな風に荷下ろし用のクレーンがある岸壁です。港に降りて、歩くことは禁止されているのでした。
ツアーに参加する人は、真っ直ぐに岸壁上のバスへ移動することになっています。
いくら開放されたと言っても、やはり雰囲気が違いました。監視官が何をするわけでもありませんのについて居ました。




ツアーの設定は3コースあり、11台のバスに乗りこみます。昨日、ツアーの説明がありましたが、コルサコフにはいわゆる観光ということがないので大型バスが少ないのだそうです。

市内からいろいろ
手配して集めたと言う大型バスはご覧のように色とりどりで、形も様々。
 
私たちの乗ったバスは、外観はまぁまぁでしたが、中は前の席の背もたれについている筈のネットが取り外された跡がそのままついていました。
 
カムチャッカへ行ったときには、観光バスもちゃんとしていましたが、サハリン州はまだまだなのでした。




「つわものの夢の名残も粗草に
     覆われて寒き雨に濡れいつ」
 
と私の腰折れ一首

雨になりました。すぐに晴れるようですが、またすぐに降り出しそうでもあります。
 
海を望む、全く整備されていない丘の上にポツンと建っていたのが、日露戦争時において戦勝をした日本軍のサハリン上陸記念の土台石でした。
 
「遠征軍上陸記念碑」と彫られた石碑が高々と立って居たのだそうです。四方見まわしても草むらで、横倒しになっているはずのそれには気がつきませんでした。
少し寒い海風の中です。荒涼とした丘の上でした。
この丘から望まれるのは海。そして天然ガス積出基地がありました。広大な設備でした。パイプで海上の船に積み出すもののようでした。勿論のように立ち入り禁止ですが、この記念碑のあった丘から望めるものでした。
  
9月11日。
時折ふりかかる雨の中です。長袖のシャツにウインドブレーカーを着ています。海から吹く風は冷たかったです。



第2次大戦の戦死者を祀った慰霊碑があり
勿論 ソビエトロシアのです。
豊原神社の参道を降りるとすぐのところでした。
堂々としたもので、衛兵が二人ついていまし
たが、ポケットに手を入れて、
オシャベリをしていました。

ポインターを載せてください
 

豊原の樺太神社跡地を訪れました。驚いたことに何一つ残っていないところに、ソビエトを示すのかスターを彫った土台石が一つあるだけでした。      豊原に昔生活した方がいて、ここは場所が違うんではないかと、しきりにガイドに言っていましたが
 ガンとして「此処です」と言いました。本当に何もなくて、参道だったとおぼしき松並木のある道があるだけでした。
   

その後で訪れたのはガガーリン公園でした。ガイドは何も説明しませんでした。今日のガイドは朝鮮系の顔と明らかにわかる若い女で大変にマズイ日本語でここの歴史も知らない様子で、役に立ちませんでした。聞くと言葉が理解できずに、ブス〜ッとして不愉快でした。

写真を撮りながら、少し集団から離れて歩いていましたら、乳母車を押した男性が声をかけて来ました。日本語がはっきりわかりました。
「ここは旧豊原公園で、日本人が造った公園でした。もっとよかったんだけれど、ロシアになってから管理が行き届かなくなりました。」と教えてくれました。

「1946年にここで生まれたんです。北海道から私の家族は来たのでした。」と、付け加えて・・・・・。


ポインターを載せてください


戦後、樺太に残ったこの人の家族の苦難が思われて感無量でした。今は孫(ロシア系の顔をしていました)を乳母車に乗せて散歩をしている穏やかな暮らしなのでしょう。ゆっくり話を聞きたかったのですが、忙しく別れました。




宇宙飛行士 ガガーリン

同じロシアでも、サンクトペテルブルグなど、ヨーロッパロシアと極東ロシアは雰囲気が違いました。カムチャッカもロシア、樺太もロシア、
イルクーツク・バイカル湖・シベリアロシアもまた違います。本当に大きな国土です。これが同じ国かと思うほどの違いですね。つくづくとその大きさの違いを考えさせられます。「大きいことはいいことだ」と言うコマーシャルソング(チョコレートでしたか?)があったと思いますが、やっぱり適当な大きさが一番、
 
日本なんかは地上に国境がないので、纏まっていられますね。教育勅語一つで心が纏まってしまっていたのですから・・・・。やや危険性もあります
 
けれど、意思の疎通が容易くて、暮らしやすい国というべきでしょうね。これは私の独断でしょうか。




たしかレーニン通りといったような気がします。車がたくさん通っていましたし、通行人も多くて、写真を撮ろうとしたのですが間に合いませんでした。
ガイドが何もものを言わない(言えない)ので、わからないままに通り過ぎました。

レーニン広場は工事中で、通れないと言うことは言いましたが、日本時代の建物も多分もっとあったと思うのですが、一言も解説なして街のなかを通り過ぎてしまいました。情けなかったです。

ユジノサハリンスクは人口18万。碁盤の目状に造られた街です。

ポインターを載せてください



西欧風なレストランで食事でした。これだけはとても良かったです。食べ物に貪欲だからではなく、以前にカムチャッカや、イルクーツクへ行ったときに比べると、豊かになった感じなのです。

コケモモのジュース、前菜、ピロシキ、ボルシチ、大きなサーモンにマッシュポテト、ボルシチも味が良かったです。ビールも、まぁまぁの味でした。

木苺のジャムを添えたデザートまで でました。

「ロシアが体制が変わって豊かになったのだろうよ」と、言う人がいましたが、そうなのかも知れません。


いたことに、食事をしたホテルのロビーにはヤマハのピアノが置いてあり、自動演奏をしていました。

このホテルはまったくウェスタンスタイルでした。そうですよね。ユジノサハリンスクは、サハリン州の州都なのでしたから・・・・。

ユジノ(南)サハリンのスク(街)と言う意味があるのだそうです。

日本の時は「豊原」でした。
サハリンは寒いところだと言う先入観がありましたが、このは、シベリアなどと違って暮らしやすいところのようでした。



     ここの売店で、ロシア民族衣装の小さな人形を買い
ました。民芸品がたくさん売られていました。




ポインターを載せてください



ロシアのお土産を買うようにと言って、スーパーマーケットに立ち寄らせられました。私はウォッカなんかは買う気もありませんし、ロシアチョコなども要りませんので、覗くだけにしましたが、中にはお酒やお菓子をどっさりお土産に買う人もいましたけれど・・・・。

下から出てくるのは、このスーパーにの真ん前で、野菜を売っている土地の人がいたことです。道路の端に屋台店を出していました。新鮮野菜なのでしょうが、スーパーの目の前と言う設定が面白く思われました。




1930年に建立されたと言う 旧樺太庁舎は 郷土博物館として、ユジノサハリンスク市にあります。堂々とした建物で、現在まで補修されながら使われているのでした。

展示されているユジノサハリンスクの歴史や文物は、日本の統治で盛んだった時代・昭和13年の地図だとか、ヤマハオルガンやセイコウシャの時計。家庭の神棚等、雑多な展示物がならんでして、足がとまりました。

国境石なども展示されていて、地上に国境のあった時代に思いが至りました。

前庭には、どうした訳か知りませんが、墓石が幾つかたっていました。ロシアの人々にはタダの石にしか見えないのでしょうが、とても異様に思われました。





コルサコフの展望台から
日本丸を望みました。
ご覧のように貨物のクレーンと
並んで停泊しています。




3年ぐらい前の建立だそうです。
朝鮮系とおぼしきガイドが
見せたがった慰霊碑は
強制連行された
朝鮮人の慰霊碑でした。
展望台にたっています。

[上へ戻る][目次ページへ]