飛鳥年末年始グアム・サイパンクルーズ








        



船内生活
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 12月31日
入港八時。ここでも歓迎ダンスがある。
今では見られないだろう伝統的な腰簑のようなものをつけた男性が(少年みたいだった)が櫂をもって船を漕ぐ仕種をしたり、戦ったりする仕種をして踊っていた。


現地チャモロ語で、コンニチワ(ハッファデイ)と書いた幕をテーブルにつけてあった。

アメリカ自治領となっていて、正式名称は北マリアナ諸島連邦というのだそうだ。

[
COMMONWEALTH OF THE 
  NORTHERN MARIANA ISLANDS ]


マゼランの発見後、三百年以上をスペインが領有し、その後ドイツが十五年間領有。第一次世界大戦後、国際連盟の承認により日本の委任統治領となり、約三十年間、日本が領有していたところです。日本国内では 「彩帆島」と呼んで、南洋庁・サイパン支庁と言う名前の政府機関もあったのです。
太平洋戦争が終る前には、二万九千人余りの民間日本人が南の日本として住んでいたのでした。その八割は沖縄県から来ていたと言います。

それが日本本土への爆撃基地とするために攻撃を受けて、一九四四年六月、攻撃を受けて七月九日玉砕となり、占領されたと言う経過なのです。

サイパンの守備に当たったのは、名古屋師団が満州からの応援を得て四万五千。米軍は七万五千。制海権も失われていたその頃は補給もなく、激戦の末、壊滅的な敗北・玉砕となったのでした。

今日、この連邦は十四の島からなり、サイパン、テニャン、ロタ、アナタハン、アプリガン、パガン等々、本当に小さな島には、一家族くらいしか住んでいないで、自給自足をしている。人が住んでいるのが七つ。小さい島は一家族ぐらいしかすんでいないとか。全くの自給自足の生活で、教育はサイパンで受けるようになるという。
   バンザイクリフ

あの当時、国民は鬼畜米英という洗脳が行われていました。サイパンの住民や兵士たちは捕虜となった場合の処刑の恐怖から、追いつめられたあげく、この海をのぞむ断崖から身を投じたのだそうです。

その時兵士たちは「天皇陛下バンザイ」と叫んで飛び込んだのだとかで、アメリカ軍に占領されたとき、ここには皮肉を込めて「バンザイクリフ」と名前をつけたのだそうです。本当はマップ岬と言う所なのだそうです。

サイパンでの戦闘以外での自決者の数は1万人にものぼったそうで、ここでは千人を超す投身者で海は血に染まり、死体の海と化したと記録されているとのことでした。






海面から直接にたちあがる崖は、えぐれています。岩に打ちつけられ、砕かれて海にのまれたのだという
想像は堪えがたいものでした。

  

崖の上に建つ白い二つのモニュメントは投身した母と子の姿を象徴した形で作成されたもので、戦後最初に建てられたものだそうです。

ここには沢山の慰霊碑、供養塔、観音像、天皇の歌碑なども建てられてありました。

今はどこまでも美しい海と空が望まれます。ここに米軍の軍艦がひしめくように押し寄せていたのだそうです。子供を突き落とし、その後を追って母が投身したと言う話。沖縄のあの摩文仁のことも思い出されました。
胸が迫って無言で手を合わせる他ありませんでした。





  
ラストコマンドポイント


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日本軍の最期の司令部跡(ラストコマンドポイント)は、海に向かった山の崖をほりこむようにしてつくられていました。

海から打ち込まれた砲弾の跡がのこり、惨憺たる敗残の跡でした。その前には展示物としてうち捨てられた大砲や軽戦車などが、雨ざらしになってありました。

ここから海に攻め込んできた米軍の軍艦に向かって砲撃をしたのだそうですが、日本の兵器では、一発も米軍の船まで届かなかったとか説明されました。虚しい思いがいよいよ深まるばかりでした。

  日本軍の軽戦車

        



毀れかけた日本軍の小型軽戦車が置かれてありました。

これを見て「これと同じ型式の戦車を、われわれが動員された工場で組み立てたヨ。」と夫は驚いて言いました。「しかし、あの頃は、もうここまで運ぶ手段は無かった。」と、付け加えました。

相模原の造兵工廠で、中学5年生での動員。モーターの組み立ても女学生が手作業で行っていたのだ。薄っぺらな鉄板張りの戦車。

モーター室と座席が一緒で、二人乗り。この暑いサイパンで、どのようにして使われたのか、想像するだに切ないものがあります。
資源がなく貧しかった日本を自覚しなかった当時の帝国将兵たち、なんと哀れな最期だったことでしょうか。


 スーサイドクリフ(自殺崖

スーサイドクリフ(自殺断崖)と名付けられている、将兵、住民の最期の地の崖下に立ちました。

仰ぎ見れば二四九メートルの断崖。高い岩山はマップ山と言う。この山の上まで逃れて追いつめられた人々は、米軍による投降勧告を受け入れることなく、バンザイクリフとおなじように、この崖から投身自殺をしたのでした。
今では山の上は公園として整備され、沢山の供養塔などがたっているそうです。この岩山の下に積み重なるように投身した人々の屍があったのだろうと想像すると言葉がでない。
岩山の断崖の前に慰霊碑がたててありました。

当時、小学生だった私は「玉砕」と言う言葉で飾られた大本営発表を聞いて感激したのでした。

今にして思えば「玉砕」「散華」などと言う美しい言葉で飾られた戦死を潔いと受け入れるように教育され、洗脳されていたと言うことになるのですね。

そして隣の島・テニアン島につくられた飛行場から、あの原爆をつんだエノラ・ゲイが飛び立ったのでした。

無知は恐ろしいとしみじみ思います。


  

このサイパン戦争では、日本人一万七千人が捕 虜となり,米軍の下で保護され、生き残ったそうで すが「サイパン島玉砕」と潔い行為のような言葉  が喧伝されて、生き残ったものは,非国民で卑怯 な兵士として黙殺され、恥として隠されてしまった とか聞きました。。私は知らない事実でした。

サイパンの戦争による犠牲者は 在留日本住民 の他に兵士たち、自決した人々などで 五万人以 上だったと言います。

  バードアイランド

  


悲しいつらい所をみたあと、マトリック岬の突端のある風景の美しいバードアイランドと言う小さな島にあんないされました。

昔日、日本委任統治の頃は「月見島」と名付けられて住民がお月見をしたところだとか言いますが、今では周辺に人家も何もなくて、ただポツンと小さな島があり、静かに波が打ち寄せているだけです。

バードアイランドとして保護地区になっているところで、以前は水鳥の営巣地だったそうですが、今はほとんど鳥は見られませんでした。

  砂糖王公園

日本委任統治の時代、砂糖キビを栽培させ、日本一の精糖工場持って盛んな活躍をし、砂糖王と言われた松江春次と言う人がいました。松江春次は會津の人で、明治十八年生。東京高等工業を卒業後、アメリカに渡り、ルイジアナ大学を卒業、アメリカで精糖会社に勤務して帰国して日本精糖に入り、台湾勤務のあと独立して、サイパンでサトウキビの栽培をはじめ、精糖事業を興したと言う人でした。一時期、日本の砂糖すべてサイパンで供給すると言われるほどになったのだそうです。彼の事業の跡は「砂糖王公園」として残されてありました。

サトウキビを運ぶ為につくった線路は戦時中は軍に利用されたとのことで、米軍の攻撃を最初に受けて、レールが破壊されてしまい、サトウキビ産業は終末をむかえたのだといいます。
サトウキビの産業はここで終わりをつげ、戦後も復活することなく、サイパンのサトウキビは栽培されなくなりました。

 

サトウキビを運ぶ為に、線路を敷き、ドイツ製の機関車や、日本製の機関車を走らせていたということした。その機関車が公園に展示されていました。
台座にも像の顔にも銃弾のあとがある松江春次の銅像が
たっていました。
 彩帆新宮

        


「砂糖王公園」のそばに香取神社がありました。

千葉県佐原市香取に総本社がある神社です。大正三年日本海軍の戦艦「香取」がこのサイパンを占領し、軍艦の中に祀られていた「香取神宮」を分けて祀った神社でした。後に天照大神・大国主命を合祀した「彩帆神宮」としたのだとか。


「彩帆」と書いて、サイパンと読ませるなんて、ちょっといい感じでした。

近くのホテルでビュフェスタイルの昼食です。
同席したのは神戸から来たという八十二歳の元海軍予備学生とその妻で、敗色の濃かった時代の話を聞きました。

当時の制服が凛々しかったけれど、帯刀する短剣の中身は竹製・本当にタケミツだったと言いました。

ヒロシマにあの原爆が落ちたとき、海軍ではウラン爆弾が落とされたと言う話をきいたものだとか、惨めな、貧しい日本軍の話をし、今の平和と幸せを思いました


出港 フラワーシャワー


5時出港ですから、4時45分からスカイデッキでセールアウェイパーテー。

素晴らしい天気で、空が真っ青です。

スカイデッキのプールサイドでバンドの演奏で賑やかにしているとき、ヘリコプターが飛来してきて フラワーシャワーです。

ハイビスカス、プルメリア、ブーゲンビリアなど沢山の花が撒かれました。

今日は大晦日なのです。気温32度。太陽がさんさんとふりそそぐ情景の中にいては、不思議な気分です。

夕食後、11時近く年越し蕎麦を食べてから、カウントダウンパーティに行きました。



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