九度山への町石 | ||
弘法大師はご母堂が住んでおられた慈尊院までの約24キロの山道を、一月に九度上り下りして訪ねられたと言うことです。それで九度山と言う名がついたとドライバーが言いました。ここは古くは高野山への表参道登り口だったそうです。 伽藍の金堂を起点として、この24キロの道に約1町ごとに卒塔婆を建てて標としたのだそうです。初期の木造の卒塔婆が1270年頃から石のものに建て替えられ、今も数基が残っています。 5輪卒塔婆の形をしていて、それぞれに仏をあらわす梵字と寄進した人の名が彫られています。 車時代となり、この道は通らなくなりましたが、遊歩道として残されている部分があり、車から降りて少し横道に入ると、林の中の細道の傍らにこれが見られました。 |
石 上 神 宮 | |||
橋本から奈良へ行く途中、天理市で下車し、崇神天皇の時代に創祀された石上神宮に立ち寄りました。楼門・拝殿は文化財指定建造物です。 昔からの名前である布留と言う地域にあり、静かで、敬虔な気持にさせられる佇まいです。 七支刀をはじめとして、国宝、重要文化財が社宝として多数収蔵されています。 柿本人麻呂の万葉集歌碑がありました。 「をとめらが袖布留山の瑞垣の 久しき時ゆ思ひきわれは」 |
興福寺・五重の塔 | |||
奈良へ来ました。 奈良の見所は沢山ありますが、老人二人。今回は静かに時間をつかうことにしました。 これまでで十分に疲れましたからゆっくりすることにしました。 一晩泊まって朝寝坊して、午前中だけの滞在です。 ホテルから奈良公園まで歩いてまいります。脚の痛い二人のノロノロ歩きですから、ご想像下さい。 興福寺の五重塔も猿沢の池の傍から撮して誤魔化しました。奈良公園の鹿はあまりに陳腐な構図なのでお見せ出来ません。 |
奈良公園・猿沢の池 | |||
お能の「采女」の舞台になったところですね。 帝の寵愛を失って悲しみ、入水自殺した采女(うねめ)の霊を哀れみ、旅の僧が弔っていると、采女の亡霊が現れてこれを謝し、舞を舞い、再び池に消えていくと言うのです。 澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分。と言うのがありますね。何となく知っているだけで最後の「魚が七分に水三分」なんかことにわかりません。 昔は周辺にももっと風情があったと思いますが、すっかり変わってしまいました。昔っていうのは結婚前、五〇年くらい前のことですから仕方がありませんね。 |
締めくくりは国立博物館 | |||
福井の永平寺にはじまって、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺と強行軍でお寺まわりをしました。 信仰心に篤いと言うのではありませんが、一度は見てみたいところでした。 最後は奈良国立博物館で開催されている御遠忌八百年記念の大勧進・重源の特別展です。 1180年、平重衡による南都焼き討ちで東大寺の大仏殿が焼け落ち大仏が大破し、堂塔伽藍が灰燼に帰したのですが、その再興に力を尽くしたのが、この俊乗坊重源でした。すでに60歳を超えていたそうです。 鎌倉時代の佛教復興と言うか、独特の美意識をもった形式の仏像や工芸品などがあらわれる基礎を造ったのがこの重源でした。 運慶、快慶などの仏師による鎌倉彫刻などがあらわれることになったのです。 それにしても、今回の旅はたった4日間でしたが、内容的にはかなり厳しかったと思います。疲れました。 |
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