茫茫漫遊記 永平寺・延暦寺・高野山編

 
 
 高 野 山     ポインターをのせると変わるの画像があります。試して下さい。


奥の院への入口で、一の橋です。ここから弘法大師の御廟のあるところまで、約2キロの参道は杉の古木の立ち並び、参道の両側には諸大名をはじめとした古い墓碑が途切れることなくたちならんでいます。日があまり差し入りませんから、苔むしたその有様は心を怯ませます。

ポインターをのせると一の橋の下から御廟橋から奥の院をのぞんでの写真がでます。ここから先は写真撮影禁止のところです。

外国人観光客も沢山来ています。私達は脚が弱いですから、ゆっくりと歩きましたが、昔日はこの参道も苔むした土の道だっただろうと思いますが、今では石畳が調っていて歩くのに苦労はありませんでした。。

   






一つ二つ、墓所を紹介します。
織田信長は比叡山を焼き討ちしたりして、佛教を迫害したことで知られていますが、その墓所もありました。明智光秀、豊臣家、石田三成、武田信玄、熊谷直実、曾我兄弟、浅野家、島津家等々・・・・・。大きな五輪の塔や、石の鳥居などが立ち並び、これを壮観と言うのでしょうか。
この世での確執も、敵味方の区別なくこの高野山では静かに眠っているのでしょうね。

市川団十郎の墓碑もありましたし、祇園の芸者さんたちの墓碑もありましたよ。

それにしても、これらの大きな石材をいかにして此処まで運びあげたのでしょうか。
徳川の平穏な時代に、ここに墓所を造らせることで、特に外様大名の財力を費やさせたと言う話もあります。譜代大名の墓所よりも、外様大名の墓所の方が大きく豪勢に造られていると言うことです。

        



仙台伊達家の墓所です。秋田佐竹の墓所もありました。このように大大名などの墓所の前には鳥居が立っていました。鳥居って神社のものだと思っていましたが。

ポインターで下から出てくるのは、法然上人の墓碑です。天台宗とは関係がないと思われますが、高野山は、魂の集まるところ、宗派や宗教とは無関係の墓所のようです。

説明が逆になりましたが、御廟橋を渡って、撮影禁止になっている場所は、一の橋、中の橋の参道の辺りのようには込みあっていませんが、春日局、近衛家、池田勇人の墓碑などがあります。沢山の天王の宝塔が建ち並び、皇后や皇族方の宝塔が並んでいます。

とにかくすごい墓碑や宝塔の数に圧倒されます。

   宿坊・赤松院





私達が泊まった宿坊です。奥の院に近い蓮華谷にあります。後醍醐天皇の御代に大塔の宮護良親王がこの寺に逃れたとのことでした。十一面観世音菩薩を本尊としている古いお寺ですが、宿坊として利用させていただきました。団体の利用客もありました。
お坊さんだけで、女性の姿は見あたりませんでした。

精進料理の夕食のお膳でしたが、何故か茶碗蒸しがついていたのに驚きました。お刺身はこんにゃく、鮪の代わりに鮪の色をしたゼリーが付いていました。野菜のお鍋も、野菜の天ぷらも、おそらくお坊さんたちのつくったものでしょう。

朝六時半に本堂でのお勤めに参加してから朝食となります。お坊さんたちのサービスでいただきます。

下の写真は朝食です。ご飯のお代わりもいただけますので、たっぷりでした。高野豆腐の煮物は美味しかったですよ。
                      
         参道の傍らにはこのような・・・。





弘法大師信仰は、大名や、富裕な階級の人ばかりでなかったことは、誰もがご存じのことでしょう。お遍路さんの起点と終点がこの高野山だと言うことも、周知のことです。

杉の古木の鬱蒼たる林の中につづく参道の傍らに、庶民の祈りがこのように並んでいます。何を祈ったものなのでしょうか。墓所を持つわけでもなく、このような小さな石の仏像を置いて、手をあわせたでありましょう人々の慎ましい祈りの様子が、ここに偲ばれます。

小さな前掛けを折々に掛け替えて、いまでもその祈りが続けられているのですね。

ポインターをのせて出てくるのはお遍路さんたちです。朝の早い時間でしたが、鈴を鳴らし杖をついてならんで参詣しています。御廟の前では読経をしていました。

        金 剛 峯 寺 





金剛峯寺って言うのは、高野山総称なんだそうですけれど、その総本山・金剛峯寺です。
元は清巌寺で豊臣秀吉が母の菩提寺として建立したのだそうです。
明治二年に寺号を金剛峯寺として、高野山真言宗の総本山となったのですって・・・。
火災で焼失したものを1862年に再現して建てられたものだそうで、屋根の上に消火用の水桶なんかが設備されています(今では使うことはないのでしょうが)
襖の絵は狩野探幽をはじめとして素晴らしいものがあります。
柳の間は秀吉の勘気に触れた関白秀次が自刃したところですとか。そう思って見ると、雪を被った柳の絵が印象的でした。

                    金剛三昧院の多宝塔

源頼朝の追善菩提のために、二位禅尼・政子が建立したものです。鎌倉時代のものです。
この寺は禅定院と言う名前だったそうです。鎌倉と高野山とのつながりに大きな役目を果たした寺だと言うことです。

塔は国宝で、内部には金剛界五仏像が安置されていて、その中の大日如来の胎内には源頼朝の遺髪が納めてあると伝えられています。

禅尼となった北条政子はこの塔が出来上がったあとで、没しました。

高野山の観光客はあまりここには来ないのではないかと思いました。静かな寺苑は、人影もなくて咲き初めたシャクナゲが沢山ありました。



    
      女 人 堂   




明治五年まで、女人禁制がしかれていた高野山でした。高野山への登り口は七カ所あり、そのそれぞれの入口にこのような女人のためのお籠もり堂が造られていました。今ではこの一カ所しかありませんが、ここから先は男性だけが入ることが出来ます。女の人はここから御廟を拝してお籠もりをしたと言うわけです。

弘法大師が女人を嫌われたから女人禁制にしていたのではなくて、厳しい戒律のもとで修行をすると言うことに基本があったのでしょう。

この女人禁制がとけたのが、明治五年ですが、なかなかそれまでの風習は抜けなかったようで、女人が住むようになったのは明治二十一年頃からだと言うことです。

今回、この真言密教の高野山を訪ねるまで、内心ここは静かな修行の場と思っていたのでした。高野山、山上でも寺院が多いだけで、普通の生活が営まれる町でした。

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