茫茫漫遊記 ロシア編5
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8月26日 シベリア鉄道にのってウラジオストックへ





20時の列車でシベリア横断鉄道・オケヤン号に乗ります。少し雨が降っていましたが、乗車する頃にはあがっていました。駅舎は工事中で、すっぽりとカバーがかかっていました。この次ぎに来るときにはきっときれいになっていることでしょう。駅前にはハバロフスクにはじめて来た探検家ハバールの像がありました。ハバールとは幸福と言う意味があるそうです。プラットホームは日本とは違ってこんな風に低いところになっています。荷物を運び入れたり出したりするのが大変ですが、日本で言えば赤帽さんがいました。 丁度日暮れ時で、発車して少しすると、大平原の落日!雨上がりの雲の夕焼け!写真を撮ろうと思いましたが、ガラス窓が少し汚れていて、ピントがあいませんでした。われわれはベッド4つがあるコンパートメントを二人で使います。各車両に寝ずの番をする女性係員が乗車しています。サモワールが各車両についていて、いつでも熱湯を貰うことができます。これは大変便利でした。お茶を淹れたり、インスタント食品に用いたりすることができます。私たちは昨日自由市場で買ったオレンジをかじり、ちょっとしたお菓子を食べたりして時間をつぶしました。晴れていたら、満天の星!が見られることになっていましたが、はじめのうちは、曇りで真っ暗でしたのでがっかり・・・・。夜中の3時に目が覚めたら、これは驚き!本当に満天の星が輝いていました。中に地球大接近の火星もはっきりと見えていました。


8月29日 シベリア横断鉄道終着駅ウラジオストック駅の朝





ありがたいことに夜中は晴れて満天の星を見、火星を見た私たちでした。朝8時に着く少し前に、コンパートメントのドアをあけて寝ずの番をしていたあの女性乗務員が、多分「間もなく着きます」とブスッと言って行きました。この駅舎は1912年建設当時のままで使われているものだとのことでした。港と鉄道の駅舎が一緒になっている白く美しい建物です。私たちが乗ってきた列車がとまっています。下に貼り付けたこの駅の正面はもっと美しいのですが、うまく写真を撮れませんでした。バスの窓が汚れていたのです。駅の真ん前に例のレーニン像がありました。最初の日に泊まったホテルにチェックインしました。まずはいつもの様に、白いオムレツの朝食を食べてからウラジオストックの市内観光に出発します。このオムレツを 最初に食べたときは、白身だけしか使っていないのだと思ったのですが、ガイドのアンナさんが「これはオムレツです」と言いましたから、ロシアのオムレツは白いのだと納得しました。ロシアの卵は目玉焼きが出たときに気がついたのですが、黄身が淡いクリーム色でしたから、それにミルクが入れば、白いオムレツになるのも無理のないことです。チョット黄身が悪い・・・。冗談が過ぎましたか?


要塞博物館のドン C−56潜水艦博物館





やはり軍事を誇示する国なのでしょうね。要塞博物館だとか、潜水艦博物館があったのには驚きでした。今でも軍の管理下にある博物館だとか。ハバロフスクの丘の上にある要塞は独自の堅固な要塞として築かれたもので、なんだか特色があるのだそうです。説明は上の空で聞きましたが、正午に一発、空砲を鳴らすのが有名で、この日も沢山の人がその空砲を聞きに集まっていました。ご覧の軍人が勿体ぶって一発うちました。中国人がとても多くて、例のような賑やかな話しぶりで大騒ぎをしていて、こちらは少しシラけてしまいました。写真の観光客は全部中国人です。丘から下ってくると、薄汚い服装の少女が手を出して寄ってきました。要塞の近くに乞食がいるなんて思ってもいませんでしたからビックリしました。C−56潜水艦博物館は、1930年代のディーゼル潜水艦で、1975年頃から置かれているもの(廃物利用ですね)。狭い艦内を後尾から入って、中を見て、前方から出ます。出口のところで艦長さんの扮装を貸してくれて写真を撮ることが出来ます。ただし10ルーブルを請求されるので、ご注意下さい。殿方の中には写真を写したかたもおられましたが、バカバカシイ話です。この潜水艦は第2次世界大戦で、独逸と戦ったものだと聞きました。原子力潜水艦の 1/5 の大きさだと言うことです。


再建されたニコライ門





1891年、ロシア皇太子・ニコライ二世がシベリア訪問をしたときに、港からここを通って街に入るように歓迎の門として建てられたものですが、ソビエト支配時代に、このロマノフ王朝は滅亡。殺害されたり、亡命したりしてしまいました。この歓迎の門も1927年に破壊されました。ソビエト連邦が崩壊した段階で、この門が復元されました。ウラジオストックのビジネス資本の投資による建立だそうで2003年の春に出来上がったばかりの美しい門でした。ロシア正教の聖人がかかげられています。ウラジオストックの街のメインストリートには、1900年代初頭の建物が、当時のままに残っています。1908年に独逸資本によって建てられたビルは、今、百貨店として使われていると言うことです。西本願寺系のお寺もあったそうですが、今は記念碑だけが立っていると言うことでした。ソ連になる前の話ですが、ここでの日本人の経済活動はめざましく、日本人の名前のついた通りが、今でもあると言う話をしていました。


ウラジオストック港は軍港でもあります





ウラジオストック港はここの郷土史資料館によると、1860年に、ロシアがマンシェル輸送隊を引き連れて入港したときから、複雑な歴史が始まりました。アムール湾とウスリー湾に挟まれた半島の尖端にある金閣湾にあるこの港は、沿海州第一の港です。商業港であると共に、軍港でもあり、ワシノス展望台からこうして軍艦が見下ろせます。アメリカ・カリフォルニアのサンジエゴも同じように商業港・軍港であることから、ウラジオストックと姉妹都市になっているということでした。商業港と言えば、ここの自動車は90%も日本車・それも殆どが中古車です。中には日本の会社名をつけたままで使われている車が沢山見かけられました。「鮮魚**商店」「寿司は000!」「@@製作所」などが、日本の電話番号つきで走っています。極め付けは私たちが乗った観光バス。外側は白く塗装をし直してありましたが、乗降口は日本のまま。右ハンドル。中の窓際には「お降りの方はこのボタンを押してお知らせ下さい」の表示があり、その上「特急・池袋ー新潟」と言うプレートもそのままでした。展望台を降りた私たちは「さて池袋にゆこうか」なんて言いながらバスに乗り込んだものでした。少しくたびれたバスで、私たちも今日が最後の日で少しくたびれ加減でした。


革命の戦士たちのシンボル





ロシアだけでなく、このようなシンボルを掲げている広場は彼方此方で見られます。ここはウラジオストックの沿海州政府広場です。ロシア革命の時のシンボルなのでしょうか。もう一つ右側にも同じ様な銅像がたっていました。この周辺には沢山の古い時代からの建物が並んでいました。ここの広場では9月から始まる新学期の為に文房具の市場が開かれる時期で、小屋がけの屋台店が沢山ならんで、ノート、鉛筆、参考書のようなものから 鞄、運動靴、地図、トレーナーのようなものまで売っていました。その殆どがまた中国製でした。私たちには文房具は不要ですが、冷やかして歩いて、地図専門の屋台店からウラジオストックと沿海州の地図を買いました。売っている男は英語がまったく駄目で、筆記具を使って値段の交渉をしました。お昼はビーフストラガノフ。たっぷりのアイスクリームは美味でした。ウラジオストックの自由市場にもゆきました。屋根のかかったところはハバロフスクと同じで、テナントの集まりみたいな感じです。時間が丁度よかったのか、賑やかでした。外ではあのたっぷりとした毛皮の冬帽子を売る露店もありました。すてきだけれど日本では不要。自家製の野菜や生鮮食品を売るのは外の小屋がけ・または屋根なしの屋台です。ハバロフスクと同じでした。でも、買いたい物がない市場の見学はここまで来るともう沢山という感じになります。夜はジプシーショーつきのさよならディナーでした。くたびれたような声のあれた女性歌手が媚びをうって、最期にチップを貰いにまわりました。差し出した帽子にお義理の小銭を投げ込みました。その情景はあまり好ましくありませんので、旅の最後は、この中央広場の晴れ晴れとした写真で、今回の紀行報告をおわります。 お感想、ご教示をいただいて、この次の旅行の時の参考にいたしたく存じますのでよろしくお願い致します。ながながとお目汚しをいたしました。今頃はイルクーツク、ハバロフスクはすっかり寒くなっているころでしょう。


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