ロシア4
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8月28日 | ハバロフスク・抑留日本人墓地 |
ハバロフスク、ラララ、ハバロフスク、ラララ、ハバロフスク。霧の流れもウスリー江・・・・。メロディは分かりますが歌詞はここまでしか分かりません。このような歌が出来るほど、ここの日本人は多かったのでしょう。あの悲しいメロディは当時を生きた人々にとっては忘れられないものだと思います。先日はイルクーツクの日本人墓地に参詣いたしましたが、今日はハバロフスクです。シベリアにはスターリンの命令で、働ける肉体を持った日本兵士が60万人、シベリア開発の為に送り込まれたと言われています。そのうち6万人が死亡したとされています。そのままここに居着いた人もいるわけですが、ハバロフスクには320人の墓地があります。ここも大きなロシア人墓地の中にあって、かなり整備されておりました。ここには多くの人が墓参に来るのでしょうか。イルクーツクの墓地とは違って整備されており、敷石のような墓石ではなく、右の写真のような形にととのえられていました。供養塔も新しくて、ほっとしました。われわれも花とお線香をささげて参拝致しました。私は日本から持参した紙風船を一つ膨らませて捧げました。懐かしい思いでを持つ人もいるのではないかしらと思って・・・。右の写真にあるロシア人は、この墓地を清掃してくれていました。カメラをむけると、にっこり笑って、このようなポーズをとりました。私は「オーチン・スパシーボ」(沢山アリガトウ)と礼をいいました。ポーズをとったことにではなく、清掃して下さることに感謝の気持ちをこめて、皆さんにご紹介します。このロシア人墓地はハバロフスクという大きな街にあり、墓地の前には花を売る店が立っていました。ロシア人のお墓はきれいに飾られ、肖像の写真を彫りこんだりした大きなものもありました。 ガイドは若くて、ここの悲惨な抑留生活を詳しくは話しませんでした。 |
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平和慰霊公苑 | |
ハバロフスク市郊外にあるこの平和慰霊公苑は日本政府が設置したものです。渺々とひろがる平原の中に、静かにたっていました。墓地ではありません。ひろい土地に、沢山の木が植えられて、砂利が敷き詰められた通路が長くつづき、奥の方に茶色のドーム状の屋根をもった建物がありました。その壁面に上の写真のようなプレートがつけられています。直截ここで亡くなったと言うのではないですけれど、このような慰霊碑を建ててシベリヤで望郷の念を募らせながら死んでいった人々を偲び、鎮魂の気持ちをあらわしているわけです。一同あまり言葉もなく、記念写真を撮るという気分にもなりませんでした。こんな私でも 辛い思いでした。友達のお父様もここに眠っていると聞きましたが、申し上げる言葉もございません。少しでもお慰めの足しになればと思っております。 |
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ロシア人家庭訪問体験(ハバロフスク) | |
家庭訪問の体験をしました。これはツアーでないと体験できないことなのでしょう。このような建物が 9棟建っていて、標準的な市民が居住していると言うことです。各家庭の構成はさまざまでしょうが、オリガさんの家はご夫婦だけでした。娘さんは結婚して別のところに住み、孫娘が一人いるとのことでした。リビングルーム・テラス・レストルーム・ベッドルーム・リビングキッチンと言う構造でした。玄関で靴を脱いで入りました。床はきれいにみがかれていて、清潔な感じがしましたが、この部屋に入るまでの廊下と通路は古くて、暗いコンクリートまるだしで、あまり気分のよいものではありませんでした。オリガさんは自分のホームはとてもきれいにととのえていました。ご主人のサーシャさんは鉄道技師、オリガさんは旅行会社勤務です。別荘をもっていて週末にはそこへ行って、畑仕事をするのだそうです。別荘と聞くと優雅なイメージを抱きますが、ロシアの別荘は畑を作ったり、果樹を植えて収穫したりするところでした。お茶をご馳走になりましたが、ジャムも自分の別荘でとれた果物で手作りだと言う話でした。自家用車はないですから、ジャガイモやトマト、なす、アスパラなど、収穫したものはバスで何回も往復して運ぶのだそうです。自然を楽しむ暮らしですね。暖房はこのような建物は全部集中暖房で、発電所から太いパイプで給湯されているから、冬は全く寒くないとのことです。ほとんどがこのような集合住宅ですが、小さな個人住宅はオンドルが今でも暖房として普通に使われているそうです。 |
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コムソモール広場の青い教会とアムール川の夕日 | |
ここに来るまで、コムソモールと言う言葉を聞いたことがありましたが意味を知りませんでした。「レーニン主義全ソビエト共産主義青年同盟」と言う意味を持った言葉でした。ガイドのガリーナもソビエト時代はこのコムソモールの一員だったそうです。ハバロフスクにはこのコムソモール広場とレーニン広場が大きな広場でした。ここからレーニン広場までムラービオ・アモールスキ通りが通っています。私たちのホテルはここの近くで、アムール川を望むところにありました。この青い教会は、ソ連時代に破壊された教会の跡地に再建された教会です。以前と違い、半分は教会として使い、半分は公会堂のような感じにして使われていると言うことでした。この広場の周りには極東軍事基地関係の建物や、将校会館、図書館(共産主義革命以前は大金持ちの邸宅であった)などが取り巻いています。この街の通りにもイルクーツクと同じように有名なロシア人の名前がついているのが多く、ツルゲーネフ通り、プーシキン通り、レーニン通りなど、この街に住んだことのない人の名前の通りもあります。ソ連がなくなってからも、広場の名前はコムソモール広場でした。ホテルの窓から、アムール川が望めます。街を回って帰ったら丁度落日の時間でしたので一枚撮りました。 |
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美しい若人たち | |
ロシアン・ティタイムを体験するということで、午後のひとときを過ごしました。今は昼が長い季節ですが、ロシアでは夜の長い時期にこうして集い、お茶を飲み、歌を唱い、ダンスやゲームをして過ごすのだそうです。冬の長い夜は外に出ることはまったく無謀でしょうから、こんな風に集って時間を過ごすのでしょうね。今日は特別サービスで、プロのグループのサービスです。すてきなドレスでした。 そして若い人たちはきれいですね。この人たちもやがては一般のロシア人のイメージに合うような老人になるのでしょう。これは20歳ぐらいの人たちでした。ウォッカをチョットいただき、紅茶にパンケーキ、ピロシキに蜂蜜、ジャム、クッキーなど、すべて体重増加によい影響を持つ食べ物ばかりがテーブルに並びました。菩提樹の蜂蜜は特別美味しいとか。並べられるとツイツイ食指が働きますよね。マァ・イイカ。一回ぐらいは大丈夫と思ってしまいます。そして、このティタイム終了後、2時間ばかりして夕食に出かけました。とてもじゃないけれど、これでは救われません。体重は増加の一途を辿ります。 悲劇的な結末! |
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自由市場って何なのでしょうか? | |
ここで買うとキャビアは安いけれど、偽物ですよ。と言うのが、ガイドの話でした。一同、誰もここでキャビアは買いませんでした。そして菩提樹の蜂蜜と言うものに、蟻のようにたかりました。昨日のロシアンティタイムに、宣伝されたからです。みなガラス瓶に入っていますから重い事でしょう。私は体重増加を恐れていますし、重いものはいやです。今夜のシベリア鉄道で、食べようと思い、かなり大きなオレンジを5ヶだけ買いました。スケールに表示された金額をルーブルで払うから、言葉はいりません。お互いにスパシーボだけです。果物やチーズを売っているのは、ご覧の様に屋根のかかった売り場です。こちらは大分信用できそうな物を売っていました。日本には持ってこられないけれど、イクラや、チーズ、薫製、生魚類、肉類がドドーンと店先に並べられていました。消費物質には不自由がないですね。日中立ち寄った百貨店は流行のブランド物も並んでいました。この建物から一歩外に出ると、雰囲気はまったく違う小屋がけの雑多な店が並びます。衣服、靴、鍋釜等々、雑多な商品はすべてが中国製品で、ご覧の様に乱雑で寒々として粗末に見えました。この小屋がけのところに混じって、この国の人々が自分の畑で作った泥のついたままの新鮮な野菜を乱雑に並べてとても安く売っていました。ここに住む人々にとっては便利な自由市場ですね。私もここに住んでいたら、こんな野菜が手に入るのは嬉しいでしょう。それとも作って売っていたかも知れません。それにしても、自由市場って言うのは日本ならば何に当たるのでしょうか?分かりませんでした。冬になると、外の小屋がけの店は少なくなるのだそうです。 |