茫茫漫遊記 修善寺・伊豆 紀行
    修禅寺へ   修禅寺ほか伊豆あちこち 伊豆韮山反射炉など〜
        横浜一泊   
   

ここの自慢の「天平風呂」へ行きます。早朝ですので、旅館の中は静かです。池の上を渡る廊下を通って行きました。杉の素材の廊下の柔らかい足さわりは心地よく感じられます。造りが昔のものですから、集中暖房はできませんので、廊下のあちこちにストーブが焚かれています。大変な手数だろうと思いました。

さすがのお風呂でした。岩の上に円い柱が立てられ、天井はまた美しい木組みです。この電灯も安田 靫彦
のデザインしたものだとか・・・。

誰も居ない大きなお風呂にゆったりとつかって、良い気分でした。


朝食は八時とオーダーしてありましたので、ゆっくりです。

窓の下の桂川をのぞくと、青鷺がいました。見ている内に何か餌を採りました。こんなに人家の真ん中の川に野生があることに驚きました。あとで聞くと、鵜なども来て居るとのことでした。
鮎や小魚が沢山いるのでしょう。

部屋に運ばれた朝食をとり、少しだけ修善寺の周辺を見ることにします。



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弘法大師が修善寺を訪れたとき、桂川で病気の父親の体を洗う少年を見つけ、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷で川中の岩を打ち砕いて霊泉を噴き出させたという伝承があるのでした。

ここから修善寺温泉が始まったとされています。

岩の隙間などからも湯がわき出ていたということでしたが、今では修善寺温泉のシンボルとして管理されているようです。

元々は露天風呂だったのでしょうが、今は入浴は出来ませんと表示がありました。


桂川(修善寺川)には赤い橋が幾つかかかっています。

独鈷の湯の傍の橋を渡ると、私達の泊まった新井旅館の部屋がみえます。古い建物だということがよくわかります。
この部屋からまっすぐ川向かいは
竹林の小道でした。

宿のお話しでは、修善寺温泉を散歩するには三〜四十分くらいしかかかりませんよ、と言われました。
天気が良ければ嬉しいですが、今日は寒くて曇り・小雨で残念でした。
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非業の死を遂げた?頼家の墓が、山の中腹にありました。指月堂のすぐ後でした。

北条政子がいろいろ理由があって我が子を死に追いやったのでしょうが、さすがに子供ですから、悲しみはあったのでしょうね。月を仰いで悲しんだとかの、これも伝承です。

岡本綺堂のエッセイ?によると、ここも随分様変わりしたとのことでしたが、歴史の変遷をしみじみ思わされる墓所でした。すぐ傍に十三士の墓がありました。頼家と運命を共にした家来達だと言う伝承でした。



頼家の墓から下りて来ると、小さな骨董店があり、小泉元首相やミッテラン仏元フランス大統領などと、撮した写真が飾ってありました。

結構面白いものがあって、さすが鎌倉幕府関連の場所と言う思いがしたものでした。


ゆるゆると桂川に沿う竹林の小道を歩き、途中のギャラリーで写真の展示を見たりして、修禅寺に向かって楓橋を渡りました。




修禅寺です。伊豆市修善寺町の修禅寺でした。

地名は修善寺でお寺が修禅寺なのだと、ここで確認しました。

源頼朝の弟の範頼と 頼朝の子で鎌倉幕府二代将軍頼家が、この寺に幽閉されて殺害されたとして知られているお寺です。

北条政子が、尼将軍となって権威を握ったのですが、その影に子供を殺しなければならなかった苦悩があったことを知ったのでした。

寺の並びに宝物館があり、面白い解説があり、興味深く見ました。



明治四十五年に落聖式をしたというこの聖堂の内部にあるさまざまな聖障や聖器物は日露戦争の頃、旅順にあったものなのだそうです。

それがニコライ大主教に託されたものを復元してあるのだそうです。

ニコライ大主教は万延元年に在日ロシア帝国領事館付き司祭として函館に来日して、日本のロシア正教の布教に大な意味をもった人でしたが、函館に長く居住し、東京駿河台のニコライ堂の基礎を為した人なのです。

そんな訳で 何故ここにこの聖堂が建てられたかは解らないのだそうです。

今でも日曜毎にミサが執り行われ、信者が集う場所になっていると聞きました。






弘法大師の寺は修禅寺の他に二つの別院があったと言います。その一つは名前は忘れましたが、この旭瀧の傍にあったそうです。渡り石の橋が残っているだけで、寺はありませんでした。

峪深く入っているようなところで、ふと見ると、功徳山瀧源寺跡・瀧落之曲発祥地虚無僧発祥の地と言う碑が建てられていました。

虚無僧とは禅宗の一派の僧で出家者として全国を行脚しているのだそうです。そんな僧が生まれそうな雰囲気でした。






谷の出口に蝋梅が咲き盛っていました。
このあたりは 豪族狩野氏の版図であって狩野川と言う名に残されているのだそうです。
頼朝の挙兵に当然味方して立ち上がりましたが、敗戦し、子孫は四散してしまったとのこと。
長い間の空白の後、明治になって現れた狩野芳崖がその遙かな子孫だということでした。



湯が島の「明徳寺」でした。頼んだわけでもありませんが、ドライバーが
霊験あらたかな「東司の神様」(トイレの神様)ですと言って連れて行って
くれました。高齢者には特に大事だと思ってくれたのでしょう。
一昨年、この歌がヒットしましたから
ますます有名になったのでしょうね。
ここで拝みますと、下の病気にならないということ
でした。
信じられないことですし、少々度肝を抜かれましたが、
ドライバーの親切に感謝して有り難く拝ませていただきました。

お祭りの時はすごい人出とのことです。奇祭なのだそうです


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