茫茫漫遊記 修善寺・伊豆 紀行
    修禅寺へ  修禅寺ほか伊豆あちこち 伊豆韮山反射炉など〜
        横浜一泊   
   



天城峠を指さす踊り子と私の像」が
ありました

何故か、伊豆と言えば 川端康成の
「伊豆の踊子」と思いが重なるのは、なぜでしょうか。まだまだ私はロマンティストなのかもしれません。

旧天城トンネルを見たいと思ってドライバーに聞きましたら、雪が降っていて、今日は無理だと思うと言われました。歩くところがあるからと言いました。

雪を恐れる私ではありませんが、こちらの方々は全く雪になれていませんからな。聞くところによると、スタッドレスタイヤを使ったこともないし、「使う人もいないのだそうですね。雪のない地方の方は、一寸の雪でもオロオロですものね。

それにしても、私達が寒さと雪を運んできたみたいな感じがして、少々おかしかったです。

ここから、浄蓮の瀧に急な階段を下りて行きます。後でガイドブックを見たら「足腰の弱い高齢者には厳しい面がある」とありましたが、頑張って体験しました。

瀧からの川の流れにそって山葵田が造られていて、見事なものでした。このあたりは山葵が名産なのです。

ここでお土産は山葵と決めました。



この滝壺には、ジョロウグモの化身が住むと言う伝説がありました。

どうしてジョロウグモなのかわかりませんでしたが、さもありなんの美しい瀧でした。夏の青葉の中、秋の紅葉の中ではどんなに映えるだろうかと思いました。

天城山から流れ出す川です。落差は25m、幅は7mで岩盤には整った柱状節理が見られます。

かつて滝の付近に「浄蓮寺」という寺ががあったことから「浄蓮の滝」という名前になっていると言うことでした。









幕末期の代官江川英龍(坦庵)が手がけ、後を継いだその子英敏が完成させた
反射炉です。反射炉とは、鉄を融かして大砲を鋳造する炉です。

実際に稼働した反射炉がそのまま残っているのは世界で唯一ここだけだそうです。
反射炉とは、不純物を多く含んでいる銑鉄を高温で溶かして優良な鉄にするための
ものです。
千数百度の高温が必要で、その技術を独力で学んで造りだした反射炉だそうで、
その技術を 江川坦庵 は独学して造ったのだそうですから、感動してしまいます。



 

 敗戦によって滅ぼされた源氏の血脈につながる源頼朝が、北条に預けられて
 いて、、北条のの娘「政子」と結ばれることになったのは有名な話です。

 それから鎌倉幕府・頼家が殺され・実朝が公暁の手で殺され、尼御前・政子が
 北条を後ろ盾にして執政の実権をもったとか言う話は
物語なのか実録か解ら
 ないほどに知られています


 頼朝はこの「蛭ケ島」 に逼塞させられていたのですね。すっかり物語的に
 なっている頼朝と政子の話を聞きました。




江川太郎左右衛門の邸へ行きました。今は財団法人として管理しているというが未だに個人の土地家屋であると聞きました。

十万石の伊豆代官を勤めた家系で、その三十六代が反射炉を造った江川担庵なのです。

現在は四十二代で子孫に多くの優れた人材を輩出しているとのこと。
東大教授や学者、医学者など、名のある人々でした。

NHKテレビの「篤姫」の撮影のときに使われたと言う邸は堂々たるものである。戦後の混乱期をも通り抜けて、今も堂々としていることに驚くばかりでした。



ポインターを載せて見て下さい。



江川担庵は、ここで「韮山塾」を開いていて、明治の元勲と言われるような人々に知識を与え、大きな影響を与えた人でもありました。

面白いことに、日本で一番早くパンを焼いた人でもありました。それを記念して左の碑は「パン祖。江川担庵先生邸」という碑銘は、徳富蘇峰の筆になるものでした。

長岡には順天堂病院がありました。大きな病院で、このあたりのセンター病院だということでした。

この後、長岡駅でタクシーを降り、踊り子号で横浜下車と言う帰路につくことになりました。






横浜はみなとみらい地区のホテルに一泊です。七十階建ての五十二階の角部屋。港のナイスビューの部屋を予約してありました。

港の灯りが美しく、部屋も快適でした。

朝。雨模様で、横浜港は霧に霞んでいました。眼下に展示されている帆船日本丸では、甲板掃除の人々がかけ声をかけあって動いているのが見えました。


十時開館 横浜美術館へ行きました。みなとみらいの中は迷うくらいの建物。美術館はすぐ近かったので迷わずにつきました。
他のイベントもあるようでしたが、常設展示だけを見ました。
タクシーを頼んで横浜駅へ。

東海道線で品川下車。恵比寿に行って山種の後期展を見てから帰途につきました。

あわただしかった、三日間の旅でした。


[上へ戻る][目次ページへ]