12月30日 羽田空港 | ||
2005年12月1日から使われるようになったターミナル2からの出発なので、少し空港に興味がありました。明るくてきれいなターミナルですが、地方への出発便が今日は殆ど満席です。
私たちは秋田から上京して来たので、向きが反対なんて思っていた暢気さでした。羽田からは帰省のお客様と一緒なんですよね。
お昼頃について、新しい食堂でお昼にしましょうなんてのんびりしていたら、ナントナント!どの食堂・(今ではすべてレストランと言う・こんなところで田舎
者丸出しになります。)も行列状態。あきらめてお握りを買い、ラウンジのフリードリンクで間に合わせました。アワレな話です。この写真、張り出しの部分に並んでいるのは殆どレストランのお客様。 それにしても美味しいのかしら?レストランの前に行列して食べることなんて、私のような田舎者には出来ないことでした。都会生活をなさっている方は、ゆっくり時間を使っていると思っている田舎暮らしの私たちよりも本当はのんびりしているのかも・・・・。
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那覇空港についたときは、もうあたりは真っ暗。
運の悪いことに、いつもは当てにならない天気予報が的中して、雨でした。それに大晦日から元日にかけては沖縄にも寒波が押し寄せて、寒いでしょうと言うのでした。
ついた夜は、もう遅かったのでホテルのレストラン?でナントカ言う定食を食べました。沖縄らしいものは、私がオリオンビール、主人が泡盛と、私が敬遠した「トウフヨウ」(字の書き方を忘れましたが豆腐のチーズです)。以前に沖縄を訪れたときの体験で、私ははじめからお断りでしたが、主人は美味だと言いました。フシギでした。ミミガーは豚の耳の炒め物です。
豚足とゴーヤの煮付け、ミミガー、沖縄ソバ、トウフヨウ。 |
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12月31日 | ||
大晦日ですが、定期観光バスがありましたので、それに乗ります。まずは南部戦跡めぐりです。
旧海軍司令部壕・・ここから遺骨が2400柱蒐められたそうです。4000人がここに潜んで戦ったと言う話は、現実とは思えないものでしたが、こつこつとその壕の中に下っていく自分の足音が、兵士の足音と響き会うような不思議な思いがしました。 最期に士官たちは、手榴弾で自決したそうですが、そのあとが壁面に残っていて、その有様を想像させるすさまじさでした。 |
、 この壕を掘り、この壕に潜んだとき、海軍の兵士たちは勝つと思っていたのでしょうか。 敗戦後、放置されていたそうですが、数回にわたる遺骨収集の後、昭和45年司令官室を中心に復元されて、見学出来るようになったのだそうです。この壕は岡の上の入口から30メートルほど階段を下りるようになっていました。ビジターセンターがあり、ハイビスカスが真っ赤な花をつけていました。 |
ひめゆりの塔 | ||
沖縄と言えば、誰しもが訪ねるのはひめゆりの塔でしょう。沖縄海洋博の時にもここを訪ねましたけれど、すっかり観光地化してしまいました。
太平洋戦争末期に沖縄県立師範学校女子部と、第一高等女学校と合同の従軍看護隊を結成。米軍が沖縄上陸後、正規看護婦補助要員として看護活動をしたのでしたが、この壕の中で最期を迎えたのでした。
沖縄戦の悲劇を象徴するものとして語られました。両校の戦没職員、学徒210人を祀って建てられたのがひめゆりの塔であることはご存じの通りです。以前にはなかった、資料館がそばに建っていて、この戦争の悲劇を語り継ぎ、平和を願う思いを切々と訴えていました。 ここでも、私が疑問に思ったのは、このような状態でも、勝つと信じていたのだろうかと言うことでした。そのように信じさせた教育の凄さを思います。私もここにいたらこんな風に勝つと信じていたと思います。
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摩文仁の岡 | |
沖縄島南部は住民が避難して来た場所でありましたが、上陸して来た米軍を逃れて、軍はここ摩文仁までやってきました。
ここが最期の決戦の場所です。黎明の塔の在る場所で、司令官は自決して最期をとげ、この崖から幾多の人々が投身して命を終わったわけです。少し雨が降っていて、思いはいよいよ切なく深いものがありました。
観光バスの同行者の一人にオーストラリア人がいて、私と主人がこの岡を目指したら、ついてきました。日本語がわからず、ガイドブックを見ながらの旅でしたが、少し変な英語を話せると見たのでしょうか。私たちについてきたようでした。しかし、この場所についての感想は「美しい眺めですね」と言うのでした。そこで摩文仁に平和祈念の慰霊モニュメントが多くある理由を説明し美しい眺めを見に来たのではないということを話してやりました。流石にシュンしたようでした。オーストラリア人ですから、まぁ許しましょう。
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沖 縄 平 和 記 念 堂
この記念堂は昭和53年に開かれたもので、沖縄海洋博開催当時はまだありませんでした。摩文仁のあたりは、その頃からすると、すっかり平和公園として整備されていました。
この平和祈念像は、仏像のように見えますが、全戦没者の追悼と共に、平和を願う人々の祈りの象徴として造られたもので、仏像と言うわけでは
ないそうです。仏像の様に印をむすぶ形ではなくて、静かに合掌をし、少し俯いて目を伏せて居られる祈りの像です。
「天佑を保有し、万世一系の皇祖をふめる大日 本帝国」と、信じさせて戦争を遂行した世代の反省が、この頃何だか忘れられていると思うこと
があります。皆が融和して穏やかな世界を実現できたら、どんなに気持がいいかと考えます。
この像を制作した山田真山画伯は、沖縄戦を体験し、長男と3男が戦死と言う悲事を負う方だそうです。
七つの海の平和な協調を象徴する正7面体の堂は、同時に合掌の形をもあらわしていると聞き、頷きました。
この堂のすぐ近くに、平和の礎(いしじ)があります。これは沖縄戦で亡くなった軍人、一般住民など、また、国籍はアメリカをはじめとして台湾、中国、朝鮮など23万余の人々の刻銘碑です。終戦50周年を迎えたことを記念して建てられたものですが、この摩文仁の平和祈念公園をつくった主要な精神的なシンボルとなっているものです。 小雨の中でしたので、少々辛いコースでした。
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玉泉洞 | |
隆起珊瑚石灰岩から成り立っている沖縄の島々にはガマと称される洞窟が多く、物資の貯蔵庫や、ゴミ捨て場としても利用されることが多かったそうです。特に沖縄島南部に多く、このガマが避難壕として使われ、沖縄戦の時には多くの住民を救ったのだそうです。ひめゆりの塔の洞窟も同じ様なものでした。
この玉泉洞と言う大きな鍾乳洞の発見は大戦後でした。愛媛大学探検部がケービングをして発見したのですが、1964年(昭和42年)のことでした。鍾乳石の種類も多く、学術的にも重要な価値を持っています。「玉泉洞」と言う名前で公開して見せるようになったのは1972年、日本復帰の直前でした。全長5キロ、観光用に使われて居る公開部分はそのうちの800メートルほど。勿論今でも学術研究は続いています。中に雄樋川が流れていて、お魚もいました。地底を流れている川沿いに、ひろびろとした空間にそだっているさまざまな鍾乳石を見ながら歩くようになっていて、地底の国のような雰囲気があります。
この洞が昭和42年まで発見されなかったのが不思議なくらいです。もし、ここが戦前から発見されていたら、沖縄戦で利用されて、このような自然を見ることが出来なかったでしょう。そんなことを考えながら洞の中を通りぬけました。
洞窟の上には今ではテーマパークが開発されていて、賑やかでした。沖縄で最も集客数が多いとか・・・・。
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