平成三十年一月の旅







出航横濱  四日市 清水
横華出航  



「大きなお船にのるのよ」と、言ったら
見送りに来てくれた一番下の孫。
大きいな、スゴいなとちょっと興奮して
見送りに埠頭を駆け回っていました。


 
ポインターを載せて下さい。


波もない東京湾、ベイブリッジまでは
小さな船に先導されて行きます。
静かな海に白い水脈を曳くのが綺麗です。

四時出航です。

七デッキでは出航のパーテー。
乗客が集まってシャンパンを飲み交わし
歌をうたったりして賑やか。

 





スープの写真はとり忘れました。

「クルースは奥様方には天国だね」と、
以前のクルーズの時、言う男性がいました。
確かに食事の支度もお掃除もせず、
楽しみばかりですから・・・・。


 





今回は一人参加ですから、話し相手もなく、
食事も楽しくないと思っていたら、
 他の一人参加の方々と同席になるように、
スタッフが気を配ってくれました。


クルーズの楽しみの一つは素敵な食事。
シェフお薦めのワインで乾杯です。
 

早朝、まだ明け切らぬ時間です。
眩しい朝明けの空に、煙を吐いている
四日市のコンビナートが見えてきました。
コンビナートの立地条件にぴったりの
場所なのですね。
工業化学の授業で工場の建設にはまず
立地条件と言うことを考えなければ
ならないと、教えられましたが、
戦後すぐの1960年代には
公害ということは念頭になかったのですね。
「四日市喘息」が大きな話題になったのを
思い出しました。



コンビナートと言う言葉が
普通に日本語?として使われ出した
  頃だったと思い出されます。これは英語だと思っていましたが、ロシア語:が起源でした。
旧ソ連で関連産業の企業や工場を一地域に
立地させ 有機的に結合させた工業建設組織を
指して言った言葉だったと初めて知りました
企業相互の生産 性の向上のために
 原料・燃料・工場施設を計画的・有機的に結び付けた企業集団のこと であると言う事です。
 第二次世界大戦後に発展した石油 化学工業の
(石油 化学コンビナート)が.
その典型と言えるでしょう。

四日市喘息(よっかいちぜんそく)は、三重県四日市市で、高度経済成長期の1960年(昭和35年)から1972年(昭和47年)にかけて政治問題 化した四日市コンビナートから発生した大気汚染による集団喘息障害。水質汚染を含めた環境問題として 四日市公害と呼ばれています。
昭和35年ここの 第1コンビナートの操業が始まった直後から、騒音やばい煙、 振動、悪臭への対策を望む要望が出されました。 特にエネルギーのほとんどに、 硫黄分の多い中東原油を使っていたため亜硫酸ガスの排出量が多かったために、ひどい空気汚染による喘息が多発、公害にたいする対策が必要であることを、認識させたものでした、
     

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