茫茫漫遊記 房総・会津 紀行
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東京は、大変な変貌ぶりで、上京するたびに迷ってしまう有様になります。
 ここで、二人はそれぞれに自分の用事を果たしてから、東北新幹線をつかって、郡山へ、磐越西線に乗り換えて十九時二十分に会津若松に下車すると、すごい雨で目の前に見えるホテルまで、タクシーを使う有様でした。チェックインをして、十階のレストランでハーフコースの洋食とビール。帰室してすぐに休みました。


五時半起床。曇りで静かです。

九時半にチェックアウトして、駅前までゆき、市内をめぐる観光バス・ハイカラさんに乗車しました。鶴ケ城下で下車したが、歩くのが大変だと言うことで、近くの交番からタクシーを呼んで貰うことにしました。交番の人(右)が親切に応対してくれました。
 





タクシーのドライバーは若松の出身で鶴ケ城の近くで育ったと言うことで、案内が詳しく、これもまた助かりました。

会津藩の本陣跡で国の重要文化財・史跡に指定されている旧滝沢本陣横山家住宅(主屋・座敷)です。


まず白虎隊・飯盛山へむかいました。「白虎隊記念館」にはいり、会津藩の歴史、人物たちの歴史にかかる活躍のことなどを改めて勉強しました。

その後、飯盛山にのぼって並ぶ白虎隊の墓を詣で、孤立した白虎隊員二十人がお城の安否を確かめるためにたどったという「戸の口堰洞穴」などを見ました。

ここから遙かに鶴ケ城が見える。隊員達は城の廻りが真っ赤な火に包まれていたのをみて、お城が落ちたと誤解し、絶望して死んだと言う話でした。十八歳くらいの、今ならばまだ子供の隊員達の絶望した自刃だと思うと切ないことでした。




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鶴ケ城へいきました。石垣は築城の時のままでのこっていて、戊辰戦争の時の砲弾の後があちこちにのこっていました。

城そのものは再建したもので内部は歴史博物館になっているけれど、殆どもとの形のままに昭和四十五年に復元したのだという。その復元に際して、若松市民の寄付が原資であったと聞いて感動しました。
天守閣の上から会津若松市や、あの飯盛山などを望むことが出来ました。
展示物により、この会津若松城主が芦名・伊達・蒲生・加藤・保科そして松平と変遷したことなどを知りました。戊辰戦争、城下のくらし、風俗、文化など丁寧に展示されていて大変参考になりました。


  
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ドライバーは石垣は昔のままで、幼いときはこのあたりで遊んだと懐かしげに話していました。



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ついで訪れたのは会津武家屋敷と言うところ。移築した武家屋敷などを当時を思わせるような感じに設置してあるところ。大名屋敷は西郷家です。、会津の戦に折りに、家族全員が自決したという部屋があったりして、いろいろと思わされた。


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戊申戦争の恨みをすてて大山巌の妻となった山川捨松の話なども資料館として展示されていました。曇っていて、展望についてはいいとは言えませんでしたが、旅の間、格別雨にあたることがなく過ごすことができたのは幸運でした。

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