茫茫漫遊記 伊豆・下田・小田原 紀行
 下田海岸ホテルまで   下田の町を見て廻る。   小田原へ寄り道
  
     
 
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なぎさに出て日の出を見る人々もおり、その側で釣り竿を入れている人もいました。
あとで聞くと、このあたりでは烏賊がつれるとのこと。昨夜の漁り火は烏賊つり船だったのです。

朝六時四十七分が日の出の時間。窓辺に座ってその壮観を見ます。

大浴場で日の出を見ると言って主人は出かけたので私は一人で海にむかっていました。

利島の島影と、大島の島影が日の出につれて染まる空にあらわれて来ました。

朝食はブッフェで、これは十分まんぞくできるものでした。鰺の干物なども供されての和洋折衷・・・・。

食後、九時に出る送迎バスで下田駅まで出て、観光案内所の紹介で観光タクシーを使うことにしました

ホテルではもう咲き終わりだと言っていましたが、爪木崎の野水仙群生地を尋ねることにしました。
野水仙の群生地は大きなグラウンドほどの広さの海岸に隙間なく真っ白な小型の野水仙がさきさかっていて、かすかに甘い香りが漂っています。観光客がかなり多く、「土佐の高知のはりまや橋で」の節で水仙音頭を踊る地元の人がいたりしてにぎわっていました。
野水仙群生地で記念切手を販売していたので購入しました。水仙の球根を買ったらおまけだと言って、ポンカンの一枝を呉れました。荷物になりましたが、嬉しくなりました。
ここへの途中、須崎のご用邸に沿って車を走らせます。宮内庁職員と皇宮警察が常駐して管理しているとか。かなりの広さの海岸を占めて、立ち入り禁止です。






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野水仙の群生地を通り過ぎると、遊歩道があり、爪木崎の灯台までの坂道と石段を歩みます。
道ばたにはもはや椿が咲き始めていました。

青くさえざえと澄み渡る海がはろばろと見渡せる丘の上の白い灯台です。
ここから望むと伊豆七島がはきりと見えます。

そして日本で初めて西洋式石造り灯台が設置されたという神子元島灯台が見えました。

天候に恵まれてはるかに水平線まではっきりと見ることができました。

ハリスが入国したとき、最初の米国領事館を設置したという玉泉寺で境内にハリス記念館があります。体調を崩したハリスに供するために牛を繋いで屠殺したと言う標板がりました。寺の境内でそんな行為が日本最初に行われたということに、違和感をもちましたが、当時はそんなものだってのでしょう。また牛乳を飲ませるために日本牛から乳を集めたとか。
ここの領事館に侍妾として法外な手当を与えられて送りこまれたのが、有名な「唐人お吉」。お吉のほかに、書記官にも女が送り込まれたとそうです。
お芝居にもなった唐人お吉の悲劇が、下田に語りつがれることになったのです。
彼女たちの秘話などの他に、星条旗(当時は星が三十五しかなかったようだ)ハリスの使用したもの、領事館の使用人の紋付きの半纏などが展示されていました。
また外国通商をとなえた渋沢栄一の書だとか、アメリカ国旗掲揚台などもありました。


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当時は大きな建造物で、人を集めることができる場所と言うのは寺だけだったからなのだろう。


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吉田松陰が密航を謀って失敗した弁天島です。七隻の黒船が停泊したのは、下田の湾の中の二つの島の間だったとかで、弁天島からはほんの五百メートルぐらいのところのように見えました。

下からでるのは松陰たちが小舟をこぎ出すまで隠れていた洞だそうです。この湾は深さはかなりあるとのことですが、距離は思いがけないほどの近さなので驚きました。
それにしても、こんな近さのところに旗艦サスケハナ号以下七隻の黒船が停泊したとすれば、住民の驚きはいかばかりかと想像されます。


下田は、もともと北条の城があり、その城下町であったことが、昔の通りや建物の姿が残されているのだとのこと。美しいなまこ壁を持つ家の通りがある。度重なる大火の防衛策として江戸時代・旗本屋敷の外側に浸かったのがはじまりだということであった。今もまだ大切にされて風情をもった通りりになっていた。



ペリーが上陸した港にたっているペリーの像。
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下から解説が出ます。

ここから了仙寺までがペリーロードと言われています。川に沿った道は心地よくち整えられていて、風情があります。ペリーが日米下田条約を締結したのがこの了仙寺で、日蓮宗の名刹です。一八五四年に下田が開港されたとき、日米下田和親条約締結の舞台となっているので、日本開国にかかる国指定の史跡です。ペリーは上陸の際、礼砲をとどろかせ、軍楽隊をつけてこの道を歩たのだそうで住民の驚きは如何ばかりだったろうかと想像しました。

またこの寺はまた密航を企てた坂本龍馬が山内侯と会ったところでもあります。


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唐人お吉は、ハリスに解雇されたあとで、髪結いをしたり、安直楼と言う居酒屋を営んだけれど、異人の侍妾だったことでさげすまれ、まともな生活をすることができずにいた挙げ句、酒に溺れて流浪して、最期には稲生澤川の上流の淵に身を投げたのだそうです。その死体が引き取り手のないままうち捨てられたのですが、宝福寺の住職があわれんで葬ったのだそうです。
居酒屋だったその安直楼の前を見て通りました。今では市の指定史跡になっているそうで、中も見られるようになっているといいました。
先に述べたが、お吉を弔った宝福寺はあまり大きくないお寺。小さなお墓が寺の片隅にありました。この側にかなり整えられている立派なお墓が並んでいました。どちらも、お吉の墓です。一人の墓が二基あるわけです。
小さいお墓はもともとの墓なのですが、新しい大きいのは後年、お吉の話が芝居になって、大当たりしたので、大谷竹次郎だとか水谷八重子などが立派なのを建てて弔ったのだといいます。面白い話です。このお墓はもともとのお墓のほうです。






道の駅がありました。ここでタクシーを下りて、下田湾内クルーズをすることにしました。二十分間だそうですが、当時の黒船を模して造った黒塗りの船・サスケハナ号を使います。大きさは実物の四分の一。サスケハナという名前を聞いて、日本的な名前を付けた観光船だと思いましたが、これはアメリカにある河の名前「Susquehanna」に由るのだそうで、これは黒船艦隊の旗艦の名前なのでした。湾内は先にも述べたように四〇メートル以上と言う深さなので黒船が入ってくるのに十分で停泊するに好適なところだったのでしょう。ここから艀を使って彼らは上陸したのだそうです。



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海から望む下田の港の様子は、昔日とは異なり、今日、住宅やビルの様なものが建っているところは、昔は砂浜だったと言うし、すっかり防波堤がととのえられています。堤防や岸辺に釣り人がいましたが、ここでは鰺なども釣れるのだそうです。

湾内一周を終えて、新鮮な魚類を使う回転寿司に入りました。順番を待つ人々がいて、繁盛していました。新鮮な魚類が使われていて、結構でした。昭和期には下田ドックがあり、四万くらいの人口があったそうですが、今は漁業と観光だけになったしまったと聞きました。




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ゆっくり歩いて、駅前にゆき、寝姿山のロープウエイに乗ることにしました。女性の寝姿に似た山容によってこの名前がつけられたのだとかききました。この寝姿山山頂駅までは三分間、ロープウエイがあり、一五分おきぐらいにひっきりなしに上下していました。

登って行く途中にある池にヒレナガニシキゴイがいて、ひらひらと泳いでいるのが珍しかったです。この錦鯉は新種で、今の天皇が皇太子時代に、インドネシアから贈られたヒレナガコイを使って産出されたのだそうです。登っていく途中にはいろいろな草花が植えられて花を付けていました。


登ると下田の市街地や、伊豆七島までが一望できます。本当に「春の海ひねもすのたりのたりかな」です。黒船見張り所には侍の蝋人形の座っている小さな建物があり、来航した船にむかっての大砲(?)が二台置かれてありました。
伊豆急行をひいた五島慶太の記念碑があった。また日本最初の商業写真家である下岡蓮杖の写真記念館もあり、楽しんだ。

山上の記念館の前の河津さくらが咲き出していて、目白が沢山寄ってきて蜜をすっていました。雪国ではまだの花を楽しみました。

駅前から下田の路線バスを経験して、ホテルへ帰り、夕食後、疲れたので早々に床に就きました。



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