十 一 月 七 日 | 十 一 月 八 日 |
神棚は奥行き二間、間口二間の一段と高い処に飾られていて、その前に区切られて二間四方の神楽を舞う板の間には注連縄が張られてあります。神棚の前には一間に一間半くらいの火床があり、湯釜が二個湯を沸かしてあります。廻りには十二本の幣束が立てられていました。 午後七時。神官六人、(その内一人は年配で高位の神官らしく、全ての行事の差配をするのでした。衣服も白狩衣で烏帽子です。他は文様織の狩衣姿で烏帽子を被っています。巫女は巫女舞の姿でようらくのついた冠をつけた三人。去年は四人でした。)が入堂して神楽の奉納が始まります |
。波宇志別神社と言うのは、社伝によりますと創建は七五七年(天平宝字一年)、大友吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を現在地に勧請されたのだそうです。秋田県に所在する式内社三社のうちの一だそうで、中世には修験道の霊地として崇敬を集めたところだそうです。近世には佐竹氏の定めた秋田藩三国社の一つとして崇敬を集め、大友親久が本居宣長、大友直枝が本居大平に学ぶなどして国学を修め、江戸後期の地域の国学の動きにも影響を与えたとのことです。縁起はともかくとして、今日保呂羽山は少年自然の家などという施設が出来て、子供たちの合宿などによく使われていて、子供たちは知っていましたが、波宇志別神社を知っている人はあまりいないようです
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宮司である大友家に伝わる縁起によりますと、創建以来大伴氏の末裔と伝えられる大友家が別当を務めてきましたが、江戸時代初期、大友家当主が幼いため、一時的に守屋家と両別当となりましたが、守屋家が別当をつとめていた一八五三年(嘉永六年)に出火があり、責任をとって神職を退いたので、以後現在まで大友家が宮司を務めています。 霜月神楽は山上の本社ではなく、里宮でおこなわれるのでした。里宮と言っても、人里離れた山中にあり、携帯電話は圏外になってしまいます。辿り着くまで、細い道を幾まがりして、とっぷりと暗くなった頃に、到着。しかし、いわゆるお祭りらしい華やかさはありません。もう沢山の人々がいました。。受付がふたり、住所氏名を書いて五千円を奉納しました。 |