茫茫漫遊記 霜月神楽・保呂羽山・羽宇志別神社
           十 一 月 七 日           十 一 月 八 日


私は日本は神国だと言う教育を受けた世代ですが、天照大神や神道を信じているわけではありません。今はレジェンドのように古事記を楽しんでいます。
去年も見に行ったのですが、思い立って、もう一度見にゆこうと決めてでかけました。
始まるのは午後7時ですから、大仙市大曲駅からタクシーに乗ります。

旧暦霜月の七日から八日にかけての奉納神楽なのですが、今は新暦で行われています。陰暦で言えば、今日は十月十二日ですので、お月様がかなり大きく中空にかかっています。家を出るときはまだ日が落ちたばかりでしたが、大曲に着く頃はもう真っ暗になっていました。
帰りのタクシーを約束しました。去年、携帯電話が圏外になっていて難渋しましたから、明朝六時半と約束をしました。

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大仙市・大曲から、横手市の大森町へ移動するのです。町村合併ですっかり広範囲になっていますから内小友、外小友。そして旧南外村を経て横手市の一番はずれの町であった大森町へと移動するのです。

保呂羽山の山裾(といっても、かなりの高度があります)にある八澤木と言う部落にある波宇志別神社の里宮で神楽が奉納されるのです。神社の本宮は保呂羽山を登ったところにあるのだそうですが、どんなお社なのかは知りません。天平年代からある神社なのだそうです。秋田県にある神社の第一だとかいいました。
保呂羽山(ほろはさん)波宇志別神社(はうしわけじんじゃ)と読みます。念のため。


神棚は奥行き二間、間口二間の一段と高い処に飾られていて、その前に区切られて二間四方の神楽を舞う板の間には注連縄が張られてあります。神棚の前には一間に一間半くらいの火床があり、湯釜が二個湯を沸かしてあります。廻りには十二本の幣束が立てられていました。
午後七時。神官六人、(その内一人は年配で高位の神官らしく、全ての行事の差配をするのでした。衣服も白狩衣で烏帽子です。他は文様織の狩衣姿で烏帽子を被っています。巫女は巫女舞の姿でようらくのついた冠をつけた三人。去年は四人でした。)が入堂して神楽の奉納が始まります












。波宇志別神社と言うのは、社伝によりますと創建は七五七年(天平宝字一年)、大友吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を現在地に勧請されたのだそうです。秋田県に所在する式内社三社のうちの一だそうで、中世には修験道の霊地として崇敬を集めたところだそうです。近世には佐竹氏の定めた秋田藩三国社の一つとして崇敬を集め、大友親久が本居宣長、大友直枝が本居大平に学ぶなどして国学を修め、江戸後期の地域の国学の動きにも影響を与えたとのことです。縁起はともかくとして、今日保呂羽山は少年自然の家などという施設が出来て、子供たちの合宿などによく使われていて、子供たちは知っていましたが、波宇志別神社を知っている人はあまりいないようです






宮司である大友家に伝わる縁起によりますと、創建以来大伴氏の末裔と伝えられる大友家が別当を務めてきましたが、江戸時代初期、大友家当主が幼いため、一時的に守屋家と両別当となりましたが、守屋家が別当をつとめていた一八五三年(嘉永六年)に出火があり、責任をとって神職を退いたので、以後現在まで大友家が宮司を務めています。

霜月神楽は山上の本社ではなく、里宮でおこなわれるのでした。里宮と言っても、人里離れた山中にあり、携帯電話は圏外になってしまいます。辿り着くまで、細い道を幾まがりして、とっぷりと暗くなった頃に、到着。しかし、いわゆるお祭りらしい華やかさはありません。もう沢山の人々がいました。。受付がふたり、住所氏名を書いて五千円を奉納しました。

修祓式は神楽の始まりをつげるものなのでしょう。(神降祝詞・天津祝詞・大麻行事・塩湯行事・送神祝詞)
先述の高位らしい神官が鈴を鳴らし、長い二枚の板を。七・五・三と打ち鳴らして、番名を告げます

修祓式のあと、花入れ式というのが行われ、小さなお餅のかけらと塗り椀に入れたお酒をいただきます。お酒はみんなで回しのみでした。そして「打鳴」で太鼓や擂り鐘、笛などの調子を調えることをしました。
 大祓の祝詞を全員で奏上し、いよいよ神楽の始まりと言うことになりました。
 







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最初は「けんざん(どのような字を使うかわかりません)湯清浄」というのが行われ、意味がわかりませんが、神主がその装束のままで舞うのです。

特にマスクをつけたり装束を替えたりすることはなく、素面で静かにそして激しく舞います。これは確かに神に捧げる舞であって、見せるものではないと思わせられます。



天道舞、伊勢舞、保呂羽山舞と巫女舞がつづきます。

時折神前にたち、神歌を詠うのでした。何を詠っているのかまでは太鼓、笛、擂り鐘の音で聞き取れませんが、けっこう長い文言の様でした。特に保呂羽山舞には神歌だけでなく、託宣がかなり長く唱えられました。

保呂羽山舞は巫女舞、御嶽山舞と高丘山舞は神官が舞います。

その間に、衣冠束帯で斎主の神官がこの舞の行われて居るところより高い差にある神棚の前で、御饌祝詞をあげるのでした。




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一番が終わるごとに、神棚の前に設えてある幣束で湯釜を祓います。そして、笹の葉をつかねた湯箒を祓い、五方をその湯箒で祓うと言う所作を、各舞の始まりに繰り返します。

早池峰神楽は観覧者に見せる形をしていたのとは違い、ここの神楽は全て神の前に捧げるものと言うかたちなのでした。

ですから去年祭壇の前に座ったので神官達の背中を見ることになっていました。詳しい様子は見られませんでしたが、今年は横にすわったので、神官や巫女の神前に向かう様子がうかがえました。

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