茫茫漫遊記 一 関 紀行



一 関 ・ 厳美渓 ・ 達谷窟 
中尊寺 ・ 高館 ・一関 


武蔵坊弁慶の墓と彫ってありました。
山門前です。

十五年位前でしょうか。中尊寺に出かけた事がありました。
このときにはスイスイとのぼった月見坂、今年は息をはずませて登りました。のぼっただけでも良いとしていますけれど、体力の衰えは覆う術もありませんね。でもまだ大丈夫だと解って安心もしました。
 
小さな歌会の吟行会でも出かけたのですが、その時は光堂のすぐ裏手まで車で行ってこの坂は登らな
いで、ラクラクコースでした。今回は山門から入って
月見坂を登る覚悟をして少し修行をしなければならないと、覚悟をして出かけたのでした。
 
義経も弁慶も、藤原三代の領袖もみなこの坂を登ったのです。
そんなことを思いながらこの巨木の杉の間の坂道を登るのもまた一興です。
当時の人々はすごい体力を持っていましたね。私の今よりは若いのですが・・・・。
 

月見坂をのぼっていくと山内の左右に別院が多くあります。

その中の一院のお堂で眼のお守りを買いました。このお守はパソ子との交流による眼の疲れをケアする必需品ですが、効果があるかどうかは不明です。

左は光堂です。表現することの出来ないほどのまばゆさです。

陳腐な表現ですが藤原三代の栄華が偲ばれます。

ポインターで下から出るのは中尊寺本堂です。丁度読経のお勤めをしている僧が坐っていました。

金色堂を風雪から護るために鎌倉幕府によって建てられた五間四方の堂で、鞘堂と呼ばれていた建物です。芭蕉が来た頃は、参詣の人はうす暗いこの堂内に入って、金色堂を参拝したのです。

昭和38年に新鞘堂が建設されて、鞘堂は重要文化財として移築。されました。中に供養塔がたてられています。

ポインターで下から出るのは、白山神社の能舞台です
ここで京にもまさる文化的な生活が営まれていたのですね。東日本に残る唯一の能舞台遺構だそうですが、いまも能が演じられるそうです。重要文化財です。







義経堂に祭られている源義経の像と、ポインターで下から出るのは義経堂から見た束稲山です。

義経堂の額には、よく見えませんが、右から   「白幡大明神」とあり、普通は「八幡大明神」なのでしょうが、源氏の旗印は白だったことに思いが至りました。

また、束稲山(たばしねやま)と蛇行する北上川ですが、この川は流れの位置が昔とは変わったそうです。

そこで、

芭蕉は「夏草や兵どもの夢の跡」
曽良は
卯の花に兼房みゆる白毛かな

と言うことになります。

   

 

一関近辺は「もち文化」が発達した所だそうです・

「もち文化」ってどんなのかは知りませんが、とにかく体験しようと言うことでお餅を食べさせるというレストランにはいりました。
 
決して古くさい感じではありません。でてきたのがこの
 
「ひとくち餅膳」です。納豆餅、胡桃餅、じゅうね餅、あんこ餅、ずんだ餅、しょうが餅ごま餅、えび餅。
 
そして口休めは甘酢味の大根おろしでした。何とも多彩なお餅料理でした。そしてこれに雑煮椀がつきます。お昼にはちょうど良い量です。中尊寺から帰ってきて、これをいただいて、美味しかったです。「もち文化」もいいですね。

でも、お餅ってマッチ箱一つくらいの大きさで、ご飯茶碗に一杯くらいのカロリーなんですってね。ダイエットを心がけている私としては考え物です。そう言えばお正月には「お餅太り」なんて言う言葉があったような気がします。
 
 この辺では家の棟上げなんかの時には、お餅を撒くだけでなく、こんな風なお餅を作ってお祝いに来た人々に振る舞うんだそうです。
 
 不幸の時はまた不幸の時のお餅料理があるんだそうです。
ワーッ大変! 私ここに嫁いでこないでヨカッタと思いました。稗餅、粟餅等というものもありましたから、貧富の対応もできたでしょう。

確かにお餅は和風インスタント食品として保存も利きますし、戦のある時代には大切な食糧だったのでしょう。

フムフムフムと頷いていただいた 「ひとくち餅膳」 美味しかったですヨ。 これも宣伝かしら?


お餅をたべたのは一関に帰ってきてからです。

町中がお祭り気分でした。夏祭りなのだそうです。

仙台の七夕のような竹飾りがメインの通りにありました。仙台ほど豪華ではありませんが、通りの人々が楽しんでいるのがわかりました。

女の子は着慣れない浴衣なんか着て、スニーカーなんか履いて、街を歩いていました。

御神輿が回って、夜になったら賑わうかと思いましたら、夜は九時までとかで、九時過ぎたらこの竹飾りも片づき、交通規制もなくなっていました。

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