誰もが話題にする人間ドックの話です。昔は人間ドックなんて何だかいやらしい言葉だと思って
いましたけれど、この頃では人生の荒海を航行してきた身体を船にたとえるこの言葉を最初に
使った人を尊敬します。 英語ではドックなんて使っていません。徹底的医学チェック(直訳です)
となっているのですが、日本人の芸術的とも言える言語感覚の素晴らしさを思うのです。
「健康だと思っていても、思いもかけない病気がひそんでいるかも知れないから人間ドックで精査
をしておいて貰うべきだよ」中年を過ぎた人々の中では話題になることです。
実際、私の夫も「○○会」の会長を押しつけられて、それを辞する理由を求めて人間ドック
に入ったら、初期のS状結腸癌が発見されて手術して完全治癒。それがなかったら今頃は
どうなっていたでしょうか。そしてその「○○会」の会長を辞めたいと思ったことでの人間ドック
だったのですから、イヤダイヤダと思っていたその「○○会」にも感謝しなければならない様で
す。いずれにしろ、人間ドックによって、わが人生は幸運な経過を辿って来たわけです。
そんな話をSさんにもしてやったことがありましたから、彼も考えたのではないかと思います。
そう言うと恩着せがましいようにも思えますけれど・・・。
「70歳を機会に一度ドックに入って来る。」
と、宣言したSさんに反対する家族は勿論いません。70歳は少し遅すぎる感じがしますが、
それくらいに若々しく元気な人だったのです。髪の毛が少し薄くなったこと、老眼鏡を使うこと
など当たり前の老化は気になりませんが、人間ドックはやはり受けておいた方がいいです。
Sさんは自営業、息子に仕事の一切をゆずる予定を着々と進めていて、今では休んだか
らってどうってことはないのです。
彼は事業を推進してきた自信がイッパイで、カミナリオヤジタイプですから、嫌われているの
ではありませんが、少し煙たがられる存在です。そして「自分の身体は自分が一番良くわかる」
が口癖だった人が言いだしたのです。
みんなが賛成しました。
「それはいいことだと思うよ。早速手続きをして・・・。」
彼は家族がこんな風に心配してくれていると思って少しいい気分でした。
息子が友達の伝手を頼って、早速ドック入りがきまり、受付にいきました。
「宿泊コースにしましょう。予定に入れて置きますから、次の火曜日の朝8時半まで朝食をとら
ずに、おいで下さい。前夜は普通に過ごして結構です。検査の参考にしますので、ここに書い
てある項目に書き込んで来て下さい。」
と、言って渡された紙を見ると、様々な項目があって、簡単ではないようです。今まで病気なん
かしたことがないような気がするけれど、まずは家に戻って書き込むことにしました。
「おい、俺は病気で寝たことがあったか?」
自分のことは自分が一番よく知っているなんて言っていたにしては、この質問は変だと
思いますが、そこは妻。うまい答を用意しています。
「病気って言うことは、風邪引きか、食べ過ぎ、飲み過ぎ・・・。アラ、二日酔いも項目
にはいっているの?それならあるんじゃないの」
嫌みな言葉だと思いながら、思い当たることなので、Sさんは聞かないふりをします。
これは大凡の男性に当てはまることだと思うのですが、Sさんも例外ではありませんでした。
「小さいときのことは知らないから、省略・・・。学生時代の骨折なんかは入れて置かなければ
駄目だろうな。風邪引いて三日寝たなんてことは病気に入らないだろう。時々心臓がばくばく
するようだとでも、書いておこうか。少し病気みたいなことを書きたくなってしまうヨ。」
「アラ、そうなの。知らなかったワ」
妻の T子は3人の子供を産んでからすっかりサイズがかわり、ふっくらとした顔になっています。
顔同様に性格ものんびりしています。
「少しは俺のことも心配して欲しいもんだヨ」
「心配してるから、人間ドックに入って見たらって言ったんでしょ。あんたはいつも自分のことは
自分が一番よく分かっているって言って、受け付けないんじゃないの」
聞こえないふりをして項目を読み上げては書き込みます。
「煙草は吸いますか?はい。何本?一日10本」
「あら、そんなじゃないんじゃないの」
「いいんだ。それで・・・。お酒は飲みますか?はい。一日ビール一本、ウイスキー少々。」
「ウソ書いちゃ駄目でしょ。そんなもんじゃないのに・・。」
「うるさいヨ。こんなことはイイカゲンに書いておく。」
「やっぱり・・ネ」
T子さんは心得たもので、あとは黙ってお茶をつぎたしました。それがテクニックですから。
T子さんはこんなとき思うのです。
「若々しいと言うのは、バカバカシイとも聞こえるワ」
確かに50音表を見れば「バ」と「ワ」は同列相通音と言うことで、少し耳の遠い
人なら、区別がつかない音ですからね。試してごらん下さい。ホラ、バカバカシイ
と聞こえても不思議はないでしょう。
若々しい夫をもっていることは幸せなんですが、ときどきこんなことも思うのです。
「親爺は92歳 老衰で、おふくろは88歳で脳溢血。弟妹はみな健在。オイ、こうして
書いてみると俺の身内はみんなすごい健康体だヨ。食糧難の時代に育ったから、俺も
鍛えられてバランスがとれている。」
なんだか変なことを言っていますが、家族、弟妹をみれば確かに丈夫な家系のようです。
毎日何度もその書き込み項目を確認して、書き直したり書き足したりし過ごして
いよいよ明日は予定の日です。
「今晩は少し摂生しないと駄目だな。酒は止めておこう」
「それじゃウソのデータが出るんじゃないの?」
「フン、その方が面白いじゃないか」
T子さんは、結婚以来、ン十年、酒の肴になるような料理を作ってきていましたから
いつもと違う夕食でどうしようかととまどいました。
お酒を飲みませんから、食事もさっさと終わり、後かたづけも簡単になります。
入浴をして、少し天辺の辺りが薄くなった髪を洗い、髭も丁寧に剃りました。
「今日は何もすることがないから早寝だ」
いつもは野球だとか、ニュース番組を遅くまでみている人なのですが、風の吹き回しが
ちょっと変わったようです。大丈夫でしょうか。
「俺が終わったら今度はお前だぞ」
T子さんに、これは愛情のこもった言葉でしょうか、どきっとするようなことを言って寝に
行ったのでした。
一晩だけですから、病院では病衣を貸してくれますし、たいした用意もいりません。
神妙な顔をして病院ゆきです。町で行う検診をいつもスポイルしていますし、健康管理
については今回が初めての体験なのです。インフルエンザの予防注射も受けたことがないと、
威張れることではないのに威張っている人だったのです。
こんな人は本当は怖がりなのかも知れません。大丈夫だ
と大威張りの健康体を誇っているけれど、もしかしてと
言う不安を持っていない訳ではなし、それに面と向き合う
のは実際怖いですからね。さすがに少しは心細かったので
はないかと思います。
担当の看護師さんから説明を受けて、ドック検診のはじまりです。
[一日目]
計測(身長・体重・視力)採尿、血圧測定、採血、胸部X線、負荷心電図、
聴力、眼底、肺機能、腹部超音波、甲状腺超音波、胃内視鏡、
そして医師の診察
そして二日目の大腸内視鏡検査のための、説明と投薬。
負荷心電図もかなり大変だったが、ゴルフで鍛えているから大したことはない。
それにまだ70歳だからな。今日一番苦しかったのは、胃の内視鏡検査。
医師の言うとおりにするって言うことは、即ち俎板の鯉と言うところか。
眼を開いて楽にして、大きく息をしていて下さい、なんて言われても苦しいも
のは苦しい。そして自分の胃の中の画像まで見るんだから、実際恐怖・・・。
腹黒いと言うことはなくて、すべすべした赤い胃壁だったので安心した。
その他はまぁまぁ流れ作業みたいなもんだ。眼底検査のあとはしばらく眼が変
だったが、それは当然だろう。一番楽だったのは身体計測は別として医師の診察。
口を開けさせられたり瞼をひっくり返されたり、歩かせたり、片足立ちをさせたり、
あの渡されて書き込んだ紙にあったのと同じ様なことを聞かれた。ちゃんと書い
てあるのに・・・。まさか、いい加減にうまいことを書いたところを見破ったと
言うわけでもないだろう。
Sさんが日記を書いたとしたら、多分こんな風に書いただろうと思います。
[二日目]
糖尿病の検査(負荷試験)、大腸内視鏡検査(全大腸)、前立腺検査。
医師から2日間の検査結果の説明、保健指導、栄養指導
大腸内視鏡検査のため朝からガバーッと下痢をさせられて大変だったが、作
為的な下痢体験もまた面白い。腹痛もなく下るんだから・・・。
胃の内視鏡よりは苦しくないが、空気を入れられて腹が脹ってくるのは変な
感覚である。検査の後ガスが連発。
糖尿病の検査も流れ作業についていくだけだったから、楽なものだ。
気分がよくなかったのは前立腺の検査だったな。まぁ一連のことだから・・。
女の人のお産よりは楽ですよなんて、医者は笑ったけれど・・・。彼も男だ
からお産の経験はないくせによく言えるものだ。
午後4時、医師から検査結果の説明があると言う。一人で大丈夫なのだが
「オクサンも一緒に聞いて頂いたほうがいいですね。」と言うので電話で呼び出した。
これは2日目の日記に当たります。
「お前も一緒に結果を聞けと言うことだ。4時に来るようにしてくれ」
いつもと違って朝から不規則な食事だったので、Sさんの電話の声は少々不機嫌な感じ
だったのでしょう。
「何かあったの?」
「何かがないと駄目みたいな声をだすなヨ。昨日からろくなものを食っていないんだから」
「はい、はい。4時ですね。わかりました。」
T子さんだって決して何かがあってくれればいいなんて思っていないのですが、お医者さん
に呼び出されると言うことは、不安を感じさせられます。はじめから迎えに行って一緒に帰
るつもりだったのですが、ことさらに電話があったことで、やや動揺していたのですけれど、
それは軽く流したふりをしましょう。
さて、「医者のしばらく」って言うことをご存じですか?「しばらく」って言う時間は普通どれ
くらいのことなのでしょうか。それぞれの方によって違うと思いますが、医師は「只今直ぐに」
と言う約束はなかなか出来ないのです。患者さんにとって医師は自分を見てくれるたった
一人の人なのですけれど、医師の方から見ると、患者さんはたった一人ではなく、時には
救急の患者さんもあらわれますので、大体の場合遅くなってしまいます。決してわざと遅
くなるのではないと言うことを、これは私も医家の一員ですから、言い訳をしておきます。
4時前に、指定された部屋で説明をうけることになり、二人は神妙な顔ですわっていま
した。やっぱりここでも「しばらくお待ち下さい。」と言われました。20分くらい待ったでしょうか。
そんなに待たされた感じがしないうちに担当医師がカルテファイルとX線写真の袋をもった
看護師を連れてにこにこして入ってきました。にこにこしていることはいいことなのか、それ
とも深刻な話をごまかしているのかなどと疑心暗鬼にかられます。
こんな時は大体において、深刻な話をされることになっていると覚悟をきめたのですが、
案に相違して明るく軽やかな医師の声です。
「ご心配は要りません。年齢のわりには健康体だと思いますよ。」
「年齢の割にはですか?」
Sさんは安心もしましたが、少しガッカリしました。年齢の割にはと言われることが残念だ
ったのです。それは老人だと言われるのと同じ感じなのです。
「やっぱりどこか悪かったんですか?」
「いえ、血液の検査でも、大体が正常値の範囲内にありますし、心臓も、肺も煙草を吸っ
ているということですから、少しは汚れが進んでいて、痰が出やすくなっていますが、心配は
要りません。でもこれからでも止めた方がいいでしょうね。
前立腺は少し年相応に肥大がはじまっていますから、注意していたほうがいいですね。
でも手術をする程のことはありません。
体重は肥満傾向がありますから、オクさんの手料理美味しくてもあまり食べ過ぎないように。
たまには検査をうけたらいいでしょう。悪くならないうちの対策が効果的ですからね。
アルコールもこの程度ならば大丈夫だとは思いますが、ウィスキーか、ビールか、お酒かいず
れにしろ飲み過ぎはいけません。」
「はぁ」
T子さんの顔をちょっと見ながら、神妙に応えます。「バラされては困る」のです。そこは心得
ているので、T子さんも
「気をつけます。」
と、調子を合わせます。さすが糟糠の妻ですね。
「少し内蔵脂肪が多いと言うデータです。糖尿病予備軍と言うよりも、ぎりぎりで危険度が
高いと言うことができます。今だったら食事に気をつけることで大丈夫だと思います。この点
については、たまに検査をうけたらいいでしょう。悪くならないうちの対策が効果的ですからね。
今のところ精密検査をすぐにうけなければならないと言うところはありませんけれど、時折は
診察をうけたほうがいいとおもいますよ。内臓脂肪が多いのはすべての成人病のもとですから
心しておいた方がいいですよ。
運動は激しい運動をしなくてもいいですから、毎日仲良く奥さんと散歩でもして下さい。」
「そんな・・・」
「まだ若いですから照れくさいですか。ハハハハ。職業柄、車を使うのは仕方がありません。
確かに便利ですし楽ですけれど、歩くことがいいですよ。私なんか、いま毎日4キロを徒歩
通勤するようにしています。患者さんの関係で出来ないこともありますけれどネ。勿論、
その他にもいろんなことをしています。まだ若いですから・・・。
泳ぐのもいいです。Sさんは70歳。今の日本ではまだ若いほうに入っていますから、今の体
力を保持するようにつとめましょう。心臓も年相応。血圧も問題ないです。よかったですね。」
Tさんは何の問題もないといわれたことで、ほっとしてウキウキしてしまい、調子に乗って言い
ました。
「先生、祝杯をあげたいと思いますから私のところへいらっしゃいませんか?」
「それは有り難いですが、ご遠慮します。今日は患者さんの担当がありませんので予定通りに
帰れることになっているので家内が待っていますから。滅多にないことなんですよ。」
「そうですか。残念です。コイツは料理がうまいんですよ。」
S子さんの方を向いて,ここでちょっぴり点数をかせぎますと、先生は笑って言います。
「さぁ、そこが問題です。栄養指導や食事指導は奥さんの方にお話しした方がいいですね。」
「はい」
「Tさんは丈夫な家系のようですし、人間ドックに入られたことで、病気を予防すると言う意識を
持つことも出来ましたから、よかったですね。
そこで最後に一つだけですが、心配なのでご注意したいことがあります。」
カルテのファイルをかたづけながら、医師は真剣な顔で言うのです。
ドキッ!最後まで言わなかったと言うことは、もしかして悪いことではないかと、誰もが思います。
今まで話題にならなかったけれど、もしかして認知症?まさか・・・。
「それは言いにくいことですが、歯が悪いと言うことです。早速なおさないとこれ以上にぼろぼろに
なってしまって手のつけようがなくなりますよ。今だったらまだ少し治療が出来そうですけれど。
歯医者さんでは80歳で自分の歯20本が治療の目的になっていると聞いていますが、Tさんは
それをクリアすることはできませんね。お気の毒ですが・・・」
人間ドックに入ろうと考えたときに、歯のことには全く思いが及ばなかったのでした。
Tさんは友達に歯医者さんがいたので、遊びに行っては治療をして貰っていたのですけれど、その
歯医者さんに、「眼が悪くなったから息子に仕事を譲ってこれからは悠々自適だ」と告げられてか
ら、痛みでもあれば治療を受けたでしょうが、「すこしぐらついてきたな」くらいで3年も診療を受け
ていなかったのです。確かに歯は気になっていたところでした。
「人間ドックに入らなくても、歯の悪いことなんかわかっている。言いにくいことだなんて勿体つけるな!」
と、Sさんは、真面目な顔をしている医師に向かって啖呵を切りたくなったのですが、
「アッハッハッハ。そうですか。わかりました。」
と大きな声で照れ笑いをしたのでした。
それ以来、奥さんに毎日ヤイノヤイノ言われて、ズーッと歯医者さんに通わされているTさんです。
そして、友達に「人間ドックには歯を治してから入らなければならない。」なんて言っているのです。
メデタシ、メデタシでしょうか? 歯歯歯ハハハ・・・でしょうか?