透き漆
塗り物には埃が禁物と言うことから、締め切った土蔵の部屋で、源吉は仕上げぬりに
心を集中していた。土蔵の中はすずしいとは行ってもやはり、夏であることにはかわり
ないけれど、しーんとした時間とこの空間は、彼に陶酔をもたらすようであった。こうして、
源吉は漆の匂いのこもるむっとした空気の中に座る仕事を五十年続けてきた。そして
彼の先祖達も、この時間と空間に包まれてきたのだ。
今日は養女のキヨ子が、消防署に勤めているという治雄を連れてくる。母だったらこの
結婚をどう言っただろうか。
「とうとうこれで終わりになったな。ほら、やっぱり終わりになったな。」
とでも言うだろうか。最後の仕事はいいものを造ろうと残してあった硯箱を今日は仕上げ
るのだ。それにしてもこの漆の美しさはどうだろう。源吉は腕を組んで仕上げ台の上にある
最後の一刷毛を待つばかりの硯箱をじっと眺めていた。
母のサヨが死んだのはお盆の五日前で、蓮の花が見頃の時だった。この地方では旧暦七月
七日をお墓の掃除をする日と決めてあり、早朝から家々から人が出て各自のお墓を浄める。
毎年、母がこの勤めをするのが慣わして、まだ暗いうちから出かけるのが常であった。帰りの
遅い母をさほど訝しみもせず、また、いつもの通り年寄りの嫌がらせをしているのだろう位に
思っていた。
「テイ、おっ母ぁ何か言ってでかけたのか。ばかにおそいなぁ。」
「何にも言わなかったですよ。キヨ子の話をしてから余計物言わずになってしまって・・・。」
「うん、そうか。文句言ってもなんともならんのに、相変わらずの強情で困ったもんだ。一寸
寺の方をみてくるか。なんてったって、もう七十だからな。」
昼近くなった日差しは肌着一枚の源吉の肌を刺す暑さになっていた。寺の庭には墓地から
抜かれた草が山をなして片隅に摘まれており、夏日にむれむれとした匂いを放っていた。
すっかり片づけられて、もう誰もいない墓地に、ぼんやりと立っている彼に、隣に墓地を持っ
ている斉藤のおばんちゃんが本堂から出て来て声をかけた。
「おや、原田さん。あんたの母さん、今日は何としたのですか。いつもなら、一番に来ていた
のに、今朝は見えなかったから、身体でも悪くしたのですか。お墓はみんなで片づけたけれ
ども。」
「えっ。今朝まだ暗いうちから出かけたんで、お寺の掃除の日だからなと思っていたんだが、
あまり帰って来ないから迎えに来たんだけど、来ていなかったとはどういうことだろう。どこへ
いったんだろう。お墓の掃除もしないで・・・。申し訳なかったです。」
急いで家に引き返すと、テイが叩土に膝をついて座り込んでいた。二人ばかり顔見知りの
農家の男衆がいて、それを助け起こそうとしていた。
「何した ?」
「いま、あの川向かいの蓮池で。おっ母さんが。ああ。」
「何したと?」
母のサヨの死体が蓮池で見つかった。源吉は走りながら、その男達の話を聞いた。
蓮沼から引き上げられた母の顔は、夏の日差しを浴びていた。この地方で、蓮の葉はお
盆のお供え物を盛るのに使われる。花はもちろん供花として使われるので、お盆の前に
は町に売りに行くために蓮池に人が入る。五郎衛門の蓮沼も今日から蓮の葉を取ったり、
花を取ったりすることになっていて、三人ばかりの人がやってきて、サヨを見つけたのだ
という。
「申し訳ないことを・・・・。」
母が死んだために、今年は五郎衛門の沼では蓮を売りにださないことになったと聞いて、
源吉はひたすらに恐縮した。花盛りの頃はわざわざ花を見に来る人がいると聞いてはい
たが、見事な蓮沼である。二町歩ほどもあるという沼は、渇水期の時のための貯水池とし
て造られたものだと聞くが、そのほとんどを覆い尽くすように葉をひろげ、茎を高く伸ばして
薄桃色の花をつけている。母がここで死んだことで迷惑をし、また迷惑をかけたけれども、
この極楽絵のような風景が母を呼んだのかも知れないとも思った。入水して死んだ人は、
家の中には入れられないとされていた。おそらく死体の痛みが激しく手をつけられないこと
が多かったからだと思われる。それでなくとも、夏の盛りで、暑いし、水でふやけて浮腫んだ
死体は忽ち腐敗してゆく。源吉達は、家の外に菰かけの小屋を造り、早桶に納めて、一晩
置いて急いで火葬場に運んだ。
***********************
この地方の特産の塗り物である角館春慶は能代春慶と並んで良質の塗り物として知られて
いた。
やや赤みの強い色調が特色とされていた。原田の家は代々その職人としての跡を継いで
来たのである。源吉は、父の源蔵にも勝る腕だと言われるようになっていたが、一人息子と
して育った彼は我が儘であった。職人気質は一方では我が儘なものだとして両親は許してき
た。仕事以外は思いのままにさせて貰い、すべてが順調のように見えた彼の生き方を変えさ
せられたのは、好きで貰った嫁のタミ子が、男の子一人を残して、風邪をこじらせたのが原因
で死んでしまったことからだった。
決して誰が悪いと言うのでもないし、両親に反抗することによって癒されると言うものでもな
かったけれど、源吉の暮らしは荒んだ。
息子の源太は母がいなくなっても祖父母に愛されて育つ。それがまた源吉の癪の種であった。
「儂がおらんでも、暮らしは立つ。少し遊ばせて貰う。」
公然と宣言した源吉に、両親は何も言えなかった。そう宣言したからと言っても、仕事をしない
のではなく、腕のよい彼は人々の期待にそうようないい仕事をした。そして、どうせたいした遊
びが出来るわけでもないのに、毎夜のように柳町へ酒を飲みに出かけていった。だから、源蔵
はやめろと言いかねて目を瞑った。
ところが、タミ子が死んで三年目に入った頃、源吉は柳町の小料理屋で仲居をしているテイと
仲良くなり、後妻にすると言いだした。仲居と言っても田舎のことだから、実家は隣村の農家の
娘で、ふしだらな生活をしているわけでもない、心の優しい女で、妻を亡くした源吉へ同情から
のつきあいで始まった関係だった。言ってみれば通いの下働きなのだが、しかし、仲居と聞い
ただけで、確かめもしないで源蔵達は反対して、家には入れないと言い渡した。
「それでは、儂はこの家を出る。仕事は通ってきてするから、そのつもりでいてくれ。」
「ああ、そんな女の面はみたくもない。勝手にしろ。」
サヨは七つになった孫の源太に向かって嘆いた。
「何でかあちゃんは死んでしまったんだ。生きていてくれれば、こんなばあちゃんが坊を見てや
らなくともよかったのになぁ」
「 何もそんな皮肉を語たらなくともいい。タミ子は過ぎたことだ。テイだって苦労して育った女だ
し、
この家に入れば入ったようにする筈だ。それをあっても見ないで入るなと言うのはそっちだか
ら文句を言うな。」
「父ちゃん。ばぁちゃんを泣かせれば駄目だ。」
すっかり祖母ちゃん子になってしまっている源太は父を睨んだ。
思いもかけなかった子供の反抗に源吉は憮然としたのだが、売り言葉に買い言葉で、町はず
れに小さな家を借りて、テイと所帯をもった。と、言っても塗り物をするには道具ばかりではなく
適した仕事場もいる。そこから毎日仕事場に通ってきて源蔵と並んですわり、むっつりと仕事
をこなした。源吉は漆の仕事が根っから好きなのだし、二人とも仕事に関してのわだかまりは
ないのである。
ただ、サヨとテイの間には女だから持つやり場のない気持ちをもてあましていたのである。
何度か源吉に用があって訪ねて来たテイを、サヨは部屋へあげることをしなかった。テイは自
分だけが漆に関わることを拒まれていることが残念で仕方がなかったが、源吉も源蔵も、そん
なことは気にしていない様に見えた。 後にひけない二人の意地にテイは耐えるより他になかっ
た。
源蔵は長い坐り仕事のために、すっかり足が不自由になっていて、家の中を這って歩くことし
か出来なくなっていた。それに口には出さないながら、いろいろな心労もあった筈ですっかり老
いを深めていた。こんな親子の意地の張りあう暮らしが三年ばかりつづいた冬の朝、ご飯の入
った茶碗を取り落とし、そのまま意識のない状態で三日を過ごして死んでいった。テイはその
間、動転して何も出来ないサヨに代わって、家のことをすっかり取り仕切った。決してこれを機
会だとは思わなかったと言えば嘘になるかも知れないが、そんなことよりも、そうしなければな
らないことを、そうしたという感じで、許してくれなかった義父を送った。初七日が過ぎると、小
さな仏壇に小さな位牌を置いて、またいつもの暮らしが戻ってくるのは、庶民の生活では当た
り前のことだった。
源太が学校へ出かけ、朝食の後かたづけにテイが流し場に立ち、源吉が仕事場の方に行こう
として立ち上がったとき、サヨが言いだした。
「ずるずるとこの家にいるつもりでいるんだろうか。テイは・・・。」
「うん、そりゃどうでもいいよ。便利ならそうしてもいい。」
源吉の答えにサヨはきっと眉を上げた。
「お父っあんが許さなかったのに、わしが許せるわけはないんではないか。許して置いてくれと
でも願うならばまた別だが・・・。」
「 許すの、許さないのと言ってる場合ではないんでないか。現に葬式からなにから、テイがい
なければ出来なかったんじゃないか。」
「それは、有り難かったとは思ってる。だが、それとこれとは別でないが。他人だって頼めばや
ってくれることを、お前と暮らしているのだから義理をたてたんじゃないのか。」
さほど広くない、むしろ狭い家のことだから、二人に言い合いは流しにたっているテイにもはっ
きり聞こえた。
「おい、テイ。許して貰わねばこの家に入れないんだとよ。お前は・・・。今夜からまたあっちの
家に戻ることにしよう。」
「あ、申し訳ないです。おっ母さんこんなときだからと思って何にも断らないで、家のことに手を
出してしまって、済まなかったです。」
胸が詰まって涙声になったテイに
「ふん、今頃になって挨拶したりするのか。言われねばわからないのは、やはり出が出だから
な。どうにもならないことだ。」
と、サヨは言い続けた。流しの板の間に膝をついて座ったテイに、源吉は言った。
「テイ。謝ることは何もない。いままで通りにせいせいして儂たちは、あっちの家で過ごそう。そ
のうちにおっ母のほうからあやまることになるだろうさ。」
「罰当たりだよ。お前達は・・。」
と背を向けて言うサヨを無視して源吉は仕事場に行った。
源太が学校から帰る前に。テイは家を出ていった。
「おばっちゃはもういないのか」
と問う源太に、サヨはうるさそうに
「ああ。」
と答えた。この何日間かの間に源太はすっかりテイになついてしまっていた。
「なんだ。今日はお焼きこさえてくれるっていったたのに・・・。」
なおも不満そうな源太を、源吉は
「おばっちゃは用あって帰ったんだ。仕方のないことを言うな。」
と抑えつけた。
そんな訳で、源蔵がいなくなったと言うこと以外は、何も変わりのない暮らしが続けられた。仕
事の間はあまりものを言わなくても済む。終わればフイと家を出てテイのところへ行く源吉の暮
らしは、普通とは言えないかも知れないが、職人気質で意固地な彼は、母のサヨを責めるでは
なし、テイを庇うでもなし、ただひたすらに注文された仕事を片づけて行く暮らしである。当時は
塗師の仕事は多かった。この地方では、食器は飯器椀と言うものを使うのが普通で、箱膳一
つにさえ、五個の塗り物の食器がセットになって作られる。
源蔵が盛りのころは弟子を三人も置いたものだが、源吉は注文の数を制限し、いいものだけ
を作ることにしたので、この辺でも趣味の深い人々からの注文が多く、それにそんな人達は仕
事を急かすこともないので、よく気のあった木地師と組んで良いものを作ればそれでよかった
のである。弟子はとらないと決めていた。いきおい仕上がったものを調べては拭いて調えるす
る仕事はサヨがやることになる。
「テイはいいな。なにも手伝わないで食わせてもらっている。」
源吉がジロリとサヨの顔を見たが、サヨは続けた。
「職人のかかがなにもしねーで、ごろごろしてていい気なもんよ。」
「うるさいことを言うな。おっかぁ。テイのことを気にくわないんはわかっているが、あれはあれ
で、針仕事をしたり、百姓の手伝いをしにいったりしている。この家に来るなといったのはおっ
かぁでないか。ここにいれば同じことをして手助けしている筈だ。源太のきるものなんか、みな
テイがこさえてるのを忘れるなよ。」
そう言われればその通りで、サヨは黙るよりほかはない。
源吉がそうであったように、源太は父の傍らで、木地をヤスリで磨いたり、下塗りに使う糊を作
ったりすることを当然の様に手伝っていた。家中が同じ職人仕事に関わっていて、言葉を交わ
さなくとも過ごせる暮らしには源太は小さいときから慣らされていたし、父の仕上げた盆の透き
通るような漆の色を美しいと感じるまでに成長していた。そんな源太を「この子も漆が好きらし
い。きっとよい後継者になってくれるだろう。」と、サヨと源吉は口には出さなかったが、目を細
めてみているのであった。
もう十二歳になっていたので、源吉が夜になって家にいなくなると聞かされる祖母の嘆き、繰り
言にも、「うん、そうだ、そうだ。」と言ってさえいればよく、それで、大凡の我が儘は聞き届けら
れることにも自ずと気がつく年頃になっていた。
今夜はことに暑い。雨の降らない日が二週間ばかり続いて、いよいよ降り出すのだろう。蒸れ
蒸れとした空気は耐え難かった。
源吉が仕事を終わって出て行った後、風鈴さえ音を立てない八月初旬のむっとして夕暮れは、
蚊いぶしを薫いて、開け放ち、風を待つより他に術がない。夏休みにはいったが、今日は何も
手伝うことがないと言われていた源太は、暑い、暑いとさわいで、ぐだぐだしていた。
「ばあちゃん、氷のみにゆかねーか。身体がダラーンとして、さっぱりしない。暑すぎる。」
と、言いだした。
「そうだなぁ。角やにでも行ってみるか。腹が痛いとか言っていたが、なおったのか」
「何ともない、氷飲んでさっぱりすればもっとよくなる。何食ってもうまくないから、ぐだぐだしてし
まう。」
「そうだな。涼みに行くことにしよう。」
団扇をもって夕涼みということになった二人は、横町の角やという店にないった。同じ思いの人
達が何人か氷を啜ったり、ビールをのんだりしている。パタパタと団扇をせわしなく使って足元
の蚊を追い払っていたのは隣の鍛冶屋の亮造である。
「おや、源太坊もか、いいな。」
「なんと、こんなに暑くてはねるもならねー。」
「明日は雨になるだろうな。」
「源太坊。さ、こっちに坐れ。」
「おっちゃんも、だらーっとして飲みにきたんだろ。」
「うん。お前も氷でも飲まねばしゃんとしないだろ。この暑さで。」
「小豆氷がいい。」
サヨは小豆氷を三杯注文した。はじめから源太のは二杯飲ませるつもりな喪である。
「ゆっくり食えよ。」
源太は氷を啜りながら
「この氷。少し、苦いのと違うか。」
と不味そうに言った、
「そんなことないよ。どうしてだろ。」
サヨは源太に熱があることに気がついていなかったのである。ただ、この暑さに負けているの
だとばかり思っていたのだった。それは迂闊な話だったが、くたびれたのだから、早く寝るよう
にと、蚊帳をつって団扇で風をおくってやりながら、まずは寝ようと床に就いた。
真夜中、源太のうめき声で目を覚ましたサヨは、彼が痙攣をおこし、すでに意識を失っている
のに気がついた。汚物は床一面に流れ出し、源太の裸の身体を汚していた。
半狂乱になって隣の鍛冶屋の亮造をたたき起こし、医者と源吉を呼びに行ってもらったが、医
者は申し訳程度に脈をとり、目蓋をかえしたり、腹部を撫でたりしただけで、急いで入ってきた
源吉とテイにむかって
「よほど前から具合が悪かったのではないでしょうか。子供だから、自分で具合が悪いからこ
んなだなどとわからないんですよ。ぐだぐだしていたかも知れませんが、どうですか。もう、十二
と言ってもまだ子供ですからね。可哀相に。リンゲルをうちましょう。あとは自分の恢復力があ
ればいいのですが・・・。」
「普段からあまりものを言わない子なので、昨日の朝、ちょっと腹が痛いなんて言ってたので、
征露丸を飲ませたんですが、昨晩はなおったから氷を飲みに行こうといいまして・・・」
「何ともならないんですか。何ともならないんですか。源太。源太。」
痙攣をして白目をむく源太の身体を抑えて叫ぶ源吉の声が聞こえただろうか。喘いでいた源
太は、本当にはったりと息を止めた。あまりの急変にまわりのものは、あっけにとられて声も出
なかった。サヨはべったりと膝をついたまま動くことも出来なかった。
「何もしてあげられなくてお気の毒でした。」
白目をむいているのを、しずかに閉じてやって医者は言った。
「この病気は伝染りますから、すっかり消毒しなければ駄目です。クレゾール石けん水というの
をあげますから、それを薄めて、辺りをすっかり拭いて下さい。便所にはそれを撒いて下さい。
伝染病で隔離病院に入らなければならない病気だったのですから、みなさんもどうか気をつけ
て下さい。」。
鍛冶屋の一家が隣近所の人を連れてやってきて、手伝ってくれた。
「昨夜は大丈夫だったのに・・・。」
鍛冶屋の亮造は昨夜、小豆氷を苦いと源太が言ったことを思い出しながら、この急な死が
本当なのかどうかさえわからないと呟いた。
サヨは放心してただ坐りこんでいるだけだった。風鈴がしきりになりだした。昨日までの暑さは
颱風の前触れだったのかと人々は空を見上げた。
夏の死人は早々に火葬される。嵐がおさまるのを待って荼毘にふされ、お盆の前に葬式をし
てもらい、小さな位牌になってしまった源太は、いまではみんなの思いでの中で心優しく、穏や
かなよい子として語られることになった。新盆の悲しみは一家をいよいよ無口にしていた。
テイはなんと言われても、今度はこの家に居続けなければならない立場になったと心を決めて
いた。一方で、サヨはサヨで、何も口にだして言わないけれど、彼等にとってかけがえのない跡
継ぎを、自分の不注意で死なせてしまったと言う引け目を感じていた。もし、あの時氷を飲ませ
なかったら、腹が痛いと言ったときに、源吉に話をして医者に診て貰っていたらなどと、悔やん
でも悔やんでも限りない悔いに苛まれていた。
「テイ。これからはこの家にいてくれないか。跡継ぎの源太もいなくなったし、わしには何もする
ことがなくなったようなものだ。今度はこの家はお前と源吉の仕事場になった。」
サヨがこんあふうに言いだしたとき、テイははじめてサヨの心が知れたような気がした。代々の
塗師として、藩政時代からの職人として、家を継ぎ続けてきたと言う誇りが、自分を受けいれる
ことを許さなかったのだと気がついたのである。
これは源吉の曾祖父にあたる人の道具と試し塗りだ。これは先祖から伝わる透き漆の調合の
仕方を書いた漆紙だなどと、きちんと整えられ手順の通りに並ぶ道具の数々を、テイは今まで
入れて貰えなかった仕事場に入って初めて目にしたのだった。たしかにそこにはテイの全く知
らなかった職人の、歴史と伝統が重く積み重なっていて余人の踏みいれない雰囲気があった。
おそらくサヨは源太にすべてを賭けていたに相違なかった。そして、テイには言わないけれども
源吉も同じ思いだったのに相違ない。源太がいなくなってしまったい、執着してきた伝統継承
が叶わなくなってしまった今、この神聖な雰囲気のある仕事場は、彼等にとって単なる仕事場
としての場所にすぎなくなったのだと、テイは感じていた。
昔、舅の源蔵に「女郎をしているような女に子供ができてはたまらない。」と女郎などではない
のに、嫌みを言われたが、テイには子供が出来なかった。もし一人でも生まれていれば、サヨ
達も考えが変わっていたかも知れないが、それは繰り言にすぎない。繰り言に過ぎないと思い
ながらも、今まで疎外されて来たことは明らかであった。この家に入ったからと言っても、彼等
の真の望みであったであろう職人の誇りを誰かに受け継がせると言う目的がないのだと思うと
やりきれない虚しさを噛みしめることになった。それは多分源吉にもわからない虚しさであった
だろう。テイが作ってやった源太のための小さな座布団が、ちょこんと仕事場にあることも切な
かった。
とにかく、新盆が過ぎると彼等はまた仕事に戻った。跡継ぎがいなくなったことで、どちらかと
言うと寡黙な源吉は、ますます寡黙になり、仕事には以前よりも熱中して念を入れるようになっ
たように見えた。気に入らない仕事は金になるとわかっても断り、生活は以前よりも苦しい。源
太に教えるために注文を取っていた雑器具類の仕事も、少なくしていた。腕を惜しんで、弟子
を取るように言う人がいたが、取り合わなかった。
一年は早く過ぎた。悲しみをもつものにとっては、季節の移り変わりのすべてが身を甦らせる
のである。雪が例年よりも多かったことも、花の咲くのが遅いことも、何もかもが源太の生きて
いたころの思い出を鮮やかに甦らせる。仕事をしている間は、ものを言わないのがならいだが
、みんなが時折大きなため息をつくのだった。
テイの兄が娘の一人を養子に出してもいいと言ってくれたのを、有り難く受けることにした。源
太が大きくなったら、嫁に貰うことにすると、生まれたときから約束してあって、源太が生きてい
た頃から遊びにきたりしていた子供である。サヨはこの話に表立って反対はしなかったが、養
子を貰うならば、源蔵の親戚から、それも塗師の跡継ぎになる男の子が欲しいと思っていたの
である。しかし、そんな都合のよい話はあるわけがないのもわかっていた。
「難しいことを言っていても、どうにもならない。おっかさんの死ぬのは俺たちが見るからいい
が、俺たちの死ぬのを見てくれる人を決めるんだからな。我慢して貰わなければならない。」
源吉の言葉にサヨは言葉がなかった。
「おっ母さん。私の身内を連れてくるのだから、わたしも心苦しいのだけれど、なかなか適当な
人がいなくて、申し訳ないです。」
テイがそう言えばサヨは何も言わずに仏壇の前に行く。チーンと鐘を鳴らして無言の後ろ姿は
すっかり小さくなっていた。
夏がめぐってきて、源太の一周忌が営まれた。盆過ぎには源吉達の養女としてキヨ子が来る
ことになっていた。実家では兄妹も多いことだし、町から離れているから、刺激のないくらしな
のだが、ここは賑やかな町で、あまりかまって貰えない幼子にとっては面白いところであったの
だろう。何回も遊びに来たりして幼いキヨ子は、すっかりテイになついて、ばっちゃん母さんな
どと言ってこの家に来るのを楽しみにしている様子でもあった。
「もうじき他人がこの家に入って来て娘になる。」サヨは大きなため息をついていた。
****************
「なんでこの家は葬式ばかり続くんだ。隣の葬式になれて、葬式上手になってしまいそうだ。」
鍛冶屋の亮造はぼやいた。
たしかに源吉の妻のタミ子が死んで以来、源蔵、源太、そしてサヨと4人もの死人を、ここ十年
ばかりの間に続けざまに送ったということになる。
「すまないな。いつも世話になって・・・。」
「いやいや、そんな訳ではないよ。今度は俺の家の番だなとおもっていたもんだから。俺の家
のばあちゃんが先だとおもっていたからよ。こんなことになるとは、思ってもみなかった。やっ
ぱり、源太坊のことがよっぽどひっかかっていたんだな。ばあちゃんには・・・。」
「あぁ。」
源吉は心の中で
「跡継ぎがなくなってしまって死にたかったのはおれの方だ。」
と、呟いていた。源太が死んだとき、俺の技術も死ぬことが決まったと思って過ごしてきたのだ
とあきらめていた。だから、もうどうでもいいんだ。母は女だから、そんな風に心だけを死なせ
ることが出来なかったのだろう。身体も喪わなければ思いを断てなかったのだろうと思ってい
た。
キヨ子を養女にすると言うことは亮造には言わなかった。誰が聞いてもそれが自殺の原因だと
思うだろう。今更どうにもならないことだし、それを言われるとテイの立場もなくなる。
源吉は、あの美しい蓮の池にういていた母は、どんな気持ちだったのだろうとふと思った。朝、
花が音を立てて咲くと言う。その音を母は聞いたのだろうか。職人の家を守り続けることを生
き甲斐として、源太を育てていたに相違ない。それが叶わなくなったことが、恐らくあの入水に
繋がったのだと思う。蓮池の岸にきちんとそろえて逢ったという下駄が、夏の日差しで熱くなっ
ていた。いまはそんなことが無性に悲しく思い出された。
「去る者は日々に疎し」と言うけれど、源吉はこの頃サヨと源太がしきりい思い出されるのだ。
あのあと、現在に至るまでには第二次世界大戦があり、多くの働き盛りの仲間達を喪った。源
吉も本業の漆塗師の仕事はうち捨てて、国策工場にかり出されて働かされた。
敗戦によって、平和が戻ったとは言っても、昔のような穏やかな暮らしには戻れなかった。信
用のおける腕を持っていた木地師の周太郎も戦死した。漆掻きをする人もほとんど老齢になり
、その上、源吉の思うような上物を作ってくれと言う旦那衆も、戦後の経済の変動ですっかりな
くなってしまった。ろくに仕事のない日々が続き、六十五歳になった源吉はいよいよ気難しくな
っていた。修繕の仕事などが時折はいるが、なかなか安定してくらすと言うところまでは行かな
い。
テイは、以前から和服の仕立て直しを頼まれたりしていたが、、実家の兄から分けてもらった
野菜を天ぷらにしたり、コロッケを作ったりして、きんぴら牛蒡や、煮豆を作って売る小さな店
を家の前に出して暮らしを立てることにした。もともと料理が好きだった上に、戦後の食糧事情
の悪さの中で、それらはよく売れて三人の生活もあまり不自由を感じなかった。サヨの死んだ
次の年、小学校に入るのを機会にこの家に来たキヨ子もすでに二十四歳になっていた。
サヨが蓮沼に入って死んだことを、キヨ子は知らない筈だった。小学校の三年生のころだった
ろうか。友達と一緒に蓮沼を見に行くと言いだしたことがあった。
「きれいだってよ。母さんも行こう。母さんと一緒なら行ってもいいでしょ。」
「駄目だと言ったら駄目だ。」
声を荒げて言う顔をみて、訳もわからず泣き出しそうになったのを宥めてテイは実家に連れて
いったことがあった。その友達の母親が、キヨ子が蓮沼に行かなかったことを聞いて「それは
当たり前だ」といったそうで、その理由を知った友達から噂が広まり、キヨ子の耳にも入った
らしい。その後暫くの間、源吉とうち解けなかったが、二度と蓮沼の話はしなかった。
高等科をでて、テイから針仕事を習っていたキヨ子も戦争中は軍需工場で働いた。戦後はテイ
の出した総菜の店を手伝いながら、近所の洋裁学校に通っている。
源吉はとうに自分の跡を継ぐものはないと覚悟をしていたはずなのだが、その心の底で、微か
ながらキヨ子の婿に何でもいいから職人気質の男が見つかればいいと思っていた。
今の時代には合わないだろうと思いながらも、塗師の伝統技術を受けつく男ならば尚更いいな
どと考えていたのだった。。戦争で気立てのいい男はみな死んで行った。キヨ子の結婚相手と
なる年頃の男は特に少なかった。だから、そんな望みは叶うはずもないと自分に言い聞かせ
なければならなかった。そして「源太は死んでしまったし、それにあの蓮沼があるからなぁ」と、
最後にはそこに辿りついて、いつも大きな溜息をつくのだった。
娘盛りになったキヨ子は昼は母に手伝い、夜は青年会のコーラスグループにでかけたりして、
明るい娘に育っていた。蓮沼が影を落としているのかも知れないとテイは思うが、友達が次々
に結婚するのに、まだ結婚話はまとまらないのだった。昔の塗師仲間から職人になってくれそ
うな若者との縁談も持ち込まれたが、ケロッとして「まだ早いよ。」とはぐらかしてしまい、塗師
の伝統を守れるかも知れないとはかない望みを抱いた源吉をがっかりさせていた。
戦後の自由、民主主義、男女同権は若い世代を席巻していたので、キヨ子の考えがわかりか
ねるのは当然だが、その上に、自分の子供でないことも源吉の虚しさを深めるものだった。
「誰か好きな人でもいるのかい。もしそうなら、父さんも心配しているから、話してくれよ。誰も
反対なんかしないと思うから・・・。」
「もう一寸待ってね。そのうちに話すから。」
テイとのそんな話し合いがあった六月の末頃、川土手の桜並木の道をキヨ子が男と歩いてい
たと報せてくれたのは、隣の亮造だった。彼も鍛冶屋の仕事は全くと言うほどなくなっていた。
戦争から帰って来た息子の営林署つとめに頼って暮らしている。二人とも昔の職人気質が抜
けない頑固者なので、話があう。
「あれはただの仲でないぞ。いい男だ。」
「何がいい男だ。こそこそと娘を連れ出して・・・。」
源吉はコロッケを丸めているテイの傍に腕組みをして立って行った。
「お前は知ってるのか。キヨ子の男のことを。」
「好きな人がいるらしいとは思っていたけれど、はっきり聞いたわけではないから、知らないで
すよ。」
「女親がこれでは困る。きちんとしろ。」
「はぁ。」
粉のついた指で丸めた数を数えながら、割合驚かない風に言うテイに、源吉の不機嫌は募り、
むっつりとして土蔵の仕事場に入った。古い道具を取りだして並べ直してみても虚しさは募る
ばかりだった。
テイは源吉が自分にはなんだかんだと口うるさく言うけれど、キヨ子にはあまり文句を言わな
いことも心得ていた。これだけの長い間、娘として育ててきたのだけれど、どこかに遠慮がある
のだろうと、少し気の毒に思っていたのだった。
今日、亮造と逢ったのなら、きっとキヨ子は話し出すだろう。どんな人を選んだのだろうか。だ
らしなく育てたつもりはないけれども、少し不安であった。
案の定、その晩、夕食後にキヨ子は二人の前にきちんと坐った。いつもとは違う感じで戸惑う
二人に
「隣の亮造おっちゃんと今日土手で逢ったから、多分もう聞いているでしょうから、話をしておきます。実は私と結婚したいと言う人がいます。一度逢ってみて下さい。」
と告げた。
「ん。誰だ。それは。」
「柿岡治雄と言う人で、東高野の農家の三男で、今年の三月に消防署に勤めることに決まった
から、先達、やっと結婚したいって言ったんです。」
「この家に来てくれると言うのか。」
「うん。この家に来るからには仕事がきちんと決まらないうちには、父さんや母さんにはまだ逢
わせて貰えないと言っていたのよ。きっぱりした人だから・・・。」
「職業は消防署つとめか、つまらねぇな。」
「そんなことを言ったって、父さんの仕事はたしかに立派なんだけれど、決まった収入のあった
方が安心出来ると思うし。それに・・・。」
と、少し言いにくそうに、小さな声で続けた。
「あの蓮池のことも、家の人達がちゃんと知っていて、それでも良いって言ってくれて、この家
に来てくれるって言うのだもの。私はそう言って貰って、本当に嬉しいと思ったの。安心出来る
人だと思って・・・・。」
源吉とテイはギョッとして顔をあげた。キヨ子はケロッとした顔をしている。
「七月二十日頃まで、講習会があって忙しくなるって言ってたから、七月の末頃に連れて来ま
す。どうぞよろしく。」
「ん。」
「じゃ、いいでしょ。私、台所片づけるから・・・・。」
キヨ子は流しに立って、夕食の後かたづけをはじめた。話をしたと言う安堵からだろうか、のび
のびとした後姿は、晴れやかに見えた。
源吉とテイはしばらく無言で座っていた。
「蓮沼のことを知っていても、来てくれるのよ。」
と、あっさりとキヨ子に言われたことで、言葉に詰まってしまったのは事実だった。それは二人
の間でさえ口に出来ない程の、辛い苦い出来事だったのである。
「時代が過ぎたのだな、もう、俺たちの出る幕はないようだ。」
「本当に・・・・。キヨ子にはわかるわけもないでしょうね。この思いは・・・。」
「いいだろう。そんなところだ。」
「キヨ子も肩身が狭かったんでしょうね。可哀相に・・・。」
「寝る。」
源吉は床に入っても眠れないのはわかっていたが、一人になりたかった。
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約束通り、七月二十四日に治雄がキヨ子に伴われて訪ねて来ることになった。今は本人同士
がよければいいと言うことで、親たちからは以前に申し入れがあった。それはそれでいいと源
吉は自分を納得させた。テイはご馳走は何にしようかなどと、キヨ子と話し合っているのを聞き
ながら、源吉は何かおちつかなくて、朝から土蔵の仕事部屋に籠もった。今は大した仕事もな
く、古いお膳を修理したり、重箱を塗り直したりする小さなことばかりしていて、生活の足しにな
らなくとも漆の仕事が好きなのである。心を籠めていとおしみつつ塗れば、漆は生きて艶を出
すのだ。もしかして、この美しさを知って、自分と同じように漆を愛する男がキヨ子に婿になって
くれればと長く夢見てきたのだが、今日ははっきりとその夢から覚めなければならないのだ。
今日が最後だ。落ち着かなかった気持ちが、この部屋に入ると、ひとりでに心が静まる。仕上
げをするところまで塗っておいたあの硯箱を塗り上げようと言う気持ちが湧いてきたのは不思
議なことであった。仕事机に向かって坐ると、いつもとは違う自分がそこにいるような感じがし
た。源太が前にきちんと坐ってみている。父の源蔵が手元をのぞき込み、見たこともない祖先
の人々が自分のまわりに座ってじっと息を潜めている。そんな感じがするのである。これが最
後に見る夢なのかも知れない。源吉は仕上げ塗の台の上に硯箱をのせて、しばらく目を瞑っ
ていた。
終わり。