告別

「ねぇ、すみちゃん。知ってる?美世さんのこと!」

甘い声は菊子だ。受話器を伝わって来る声は獲物をとった猫が舌なめずりをしているような感じがする。高校時代からの親

しい友達だが、どこからか噂の種子を仕入れて来る。自分と正反対の性格を持っているような菊子を、親しいながらもうとま

しく思う時もあるけれど、何の屈託もないような彼女の話を聞くと、ほっとすることもある。しかし、今日のすみ子は一寸身構

えて答えていた。

「何のこと?病気のことなら、入院していらっしゃるから知ってるわよ・」

「あら、でもあなたいまたしか、産婦人科病棟でしょ?」

「そりゃ、私だって婦長と言う立派な役付きなんですからね。」

「フーン。そうなの。それじゃみんな分かっているのね。何にも話してくれないから、知らないのかと思った。」

「お気の毒さま、この間の日曜日、平田先生が美世を入院させるから、よろしくってわざわざいらっしゃったけど、私は職業

柄、守秘義務って言うのがあるのよ。誰かさんとちがって・・・・」

「そりゃね。私とはちがう立場って言うのはわかるわよ。でも、すみちゃん。大丈夫だった?平田先生はすいぶん変わられ

たでしょ?再会がこれじゃ、すみちゃんは辛いわよね。」

菊子が電話して来たのは、それを言いたかったのだと、すみ子は気づいていた。

「大丈夫よ。いろんなことがあったけど、私だってもうあの頃の私じゃない。四十五歳よもう・・・・。あなただっていい加減に

して、私の心配より、娘の結婚でも考えなさいよ。私みたいになっちゃうわよ。」

「わかった。わかった。そのうち様子を見に行くわよ。元気そうで安心した。じゃね。」受話器を置いたすみ子は、ふっと大き

なため息をした。そして、菊子に指摘されたような沈んだ気持がないと言い切れるだろうかと自問していた。

窓の外はすっかりの秋の深まりを見せて、薄暗くなっている。病棟記録を見終わったすみ子は更衣室で帰り支度をしながら

小さい声で「枯れ葉」を口ずさんでいた。

あれは遠い夏の日  木漏れくる日差し さざめいてゆれた あの道 
   肩を寄せてあなたが 囁いた愛の言葉を まだ忘れないのに いまは 
 風がふきすさび 時は帰らず  秋の終わり告げる歌 うたうよ
  別れ告げた あの日から 秋は深まり 虚ろなわが胸に 散り積む 落ち葉 

先達て、あの喫茶店で平田と聞いた曲である。あの時の平田の表情が思い出される。更衣室に入ってきた看護婦が怪訝

そうな顔をした。

「婦長はさびしい歌が上手ですね。枯れ葉ですか。」

「秋はメランコリーになるわね。私も・・・」

すみ子はふっと笑いながら応えて部屋を出た。

                ***********************

六人兄妹の末っ子の川井すみ子は、長兄の尚人と十五も年がはなれていた。尚人は横手高校の国語の教師をしており、

平田恒夫は彼の大学三年後輩で、同じ高校の生物教師だった。実家が、列車で一時間半ばかりかかる土崎にあり、下宿

生活をしていたので、すみ子の家にちょくちょく来ては、夕食に加わっていくという関係にあった。高校の校長を務めてた父

はもう停年を迎えて市の教育委員をしていて、母は近所の娘さん達に裁縫を教えている。尚子の姉三人はすでに嫁ぎ、も

う一人の兄は結婚して湯沢の地方事務所に勤めている公務員である。いまは父母とすみ子と長兄尚人とその妻である兄

嫁と三つになるその息子の満が一緒と言う平穏な家庭である。みんな平田を家族同然に親しく待遇し、城南女子高校の三

年生で、仙台の高等看護学校を受験すると決めていたすみ子は、時折、数学や理科の指導を受けていて、もう一人のお兄

さんと言う感じの付き合いで、一緒にいるのが楽しかった。十二歳も年上と言うこともあって、すみ子の結婚の対象とか、恋

愛の対象などとは家族の誰もが思っていなかった。

夏休みも終わりに近い一日、兄夫婦が三歳になる息子の満とすみ子を連れて、買ったばかりの小型乗用車で「抱き帰り」

と言う名勝へピクニックに出かけようとしていた。当時、自家用車でドライブなどと言うのはまだ珍しく、大変な贅沢のように

思われて、うきうきしていた。そこへ平田が訪ねてきたので、これに同乗した。

「抱き帰り」は美しい渓谷で知られたこの地方の名勝で、横手から安全運転で一時間半ばかりかけて着いたのは、丁度見

頃になっていた。そこには抱き帰り神社と言う小さな社があり、社の前にはいろいろな石碑が建っている。四人は碑文を読

んで、大人の会話をするのだが、満にせかされて、吊り橋を渡り、日陰を選んで弁当を開いた。野外での食事は珍しいので

大騒ぎする満を相手にしてすみ子もはしゃいだ。

平田は理科の教師らしく渓谷の成因や、断崖の柱状列席など難しげな話をし、兄の尚人はまた、国語の教師らしくここを題

材とした郷土の文人の話などをしている。退屈してうるさい満を連れて川原におりた兄夫婦を残して、平田とすみ子は川沿

いの道をさかのぼって「回顧(みかえり)の瀧」まで散歩することにした。

「この川の水は玉川の毒水を含んでいて、微粒子の硫化物がコロイド状に溶解しているために、エメラルドグリーンだよ。」

平田はここでも教師のような口調で説明した。たしかに、ところどころ澱みながら流れる谷底の川は異様なまでの蒼さで、

きりたった崖の下の淵には小さく細かい並が揺れて、夏の日差しを照り返していた。

細い川沿いの道は続いていて、ピクニックをしているのは彼等だけではないので、時折細いみちをすれ違い「こんにちは」

と声を掛け合う。二人並んで歩くのがすみ子にはとでも楽しく、晴れやかでうきうきした気分であった。その気分にうかれて

「何だか恋人みたいな感じがするね。」

と、ふざけた調子で言ってみると、

「うん、そうだね。それもいいじゃないか。」

と、平田は真顔で嬉しそうに言った。

回顧の瀧までには二つのトンネルがある。一つは短く、二つ目は少し曲がっていて暗く永い。すみ子は平田の腕にすがっ

た。

「怖いわ、向こうが見えない。」

すがった腕をギュッとつかまえて、

「大丈夫、もうすぐだ。」と、言った。とたんにぽっかりとトンネルの向こう側が明るく見えた。すみ子は手をはなして足音を響

かせて走り出した。

トンネルを出ると、目前に白い水泡をたぎらせて、回顧の瀧が落ちているのが見られる。苔むした岩の間を麻糸のようによ

じれながら、飛沫をあげている。水は小さな橋の下を潜りぬけて、谷底の川へと流れこんでいた。橋の上に立つとちょうど瀧

を仰ぐ位置になっていて、二人はならんでしばらく瀧を見上げて立った。

「もう少しそばに行ってみましょうよ。」

ごつごつと張り出している苔の青くついた石をわたって、二人はしぶきのかかる程に瀧に近づいて行った。

「すずしいわ。」

と、振り返ったとたんに、すみ子は足をすべらせてよろめいた。

「あぶない。」

大声をあげて平田がすみ子の腕をつかんで、引き寄せるようにしてささえた。

「あぁ、こわかった。」

支えられた腕をあずける形になったまま、道の方へ戻ってくると、平田は

「もう、帰ろう。兄さん達が心配しているよ。」

とぶっきらぼうな調子で言い、先に立って歩き出した。まだ早いのにと思いながらあとに続いて、またあのトンネルに入る。

来るときと違ってトンネルの長さが分かっているので不安感はないのだけれど、平田とてをつないだ。

「ワーッ、ワーッ。」

と声をあげると、狭いトンネルの空間に反響して、二人を音がとりまいた。そんな子供っぽいすみ子の手をぐっと力をこめて

平田は引き寄せて、抱きしめるような形になった。

すみ子は手をふりほどいて走り出した。頭の中に火花が飛び散ったような驚きであった。家族みんなの親しい関係から、す

てきなお兄さん、甘えを許してくれる存在だと思っていた人。一緒にいると楽しく、安心していられる。我が儘を聞いてくれる

人。それがこうして一人の男性として目の前に立ちあがって来たのである。

トンネルから走ってとびだしたすみ子を平田は追いかけなかった。何事もなかったように

兄たちのところへ戻って振り返ると、平田は笑いながら手を振っていた。

夏休みの後も、何も変わったことは起こらなかった。平田は相変わらず訪ねてきてすみ子の勉強を見てくれた。もう一度、

あんな風になったら、こうしよう、ああ言おうなどと、平田を恋人として認識しはじめたすみ子の思いをよそに、淡々としてあ

の日のことなど、何もなかったような態度だった。


仙台の高等看護学校に合格したすみ子。四月の教員異動で本荘高校へ行くことになった平田。二人の送別会を兼ねて、

川井家で夕食会を開いたのは出発の前日のことであった。

久しぶりの賑やかさの中で、明日からの寂しさをみんなは少し忘れていた。平田も二人の兄たちと酒を酌み交わし楽しそう

だった。

七時近くなって平田は礼を言って立った。それに続いてすみ子も

「私、平田先生をお送りするわ。その辺まで・・・。いいでしょ?」

と言って立ち上がると、父と母と兄夫婦がふと顔を見合わせた。

「いいですよ。すみちゃん。もう遅いし・・。」

と、言う平田より先にサンダルを履いて土間に立っていた。

「いいでしょ。コーヒー一杯くらい。明日は二人とも別れ別れの門出なんだもの・・・。」

冗談のようにすみ子は言った。困ったような顔をした兄が、父の顔をうかがいながら、

「早く帰れよ。」

と、強い調子で言った。

「平田先生にご迷惑はかけません。リンデンでコーヒーを一杯おごって貰うだけよ。」

と、言い捨てて外に出ると、三月の終わりの夜空はぼんやりと霞んでいた。

             **********************

田舎の町の小さな音楽喫茶「リンデン」は客がほとんどいなかった。奥の方に二人は向き合って座り、コーヒーを注文する。

「ああ、これで二人はお別れだね。」

「ほんとに、名残り惜しいですね。もうこれでしばらくお逢いすることはないでしょ。楽しかったし、大変お世話になりました。」

「やっぱり、寿美ちゃんの卒業まで待てばよかったような気がするよ。」

と、平田は運ばれてきたコーヒーをかき混ぜながら、妙なことを言った。

「え?」

と聞き返すと、平田は思いがけないことをぽつりぽつりと話し出した。

多分、すみちゃんのご両親は何もすみちゃんに話していないことだろうと思うけれど・・・。と言う前置きで話し始めたことは、

すみ子を呆然とさせることだった。

あの抱き帰りのピクニックの後で、平田はすみ子と結婚の約束をさせて欲しいと申し込んだこと。すみ子の両親は驚き、十

八歳ではまだ若い上に、平田が十二歳も年上ではとても相応しくないと言って、はっきりと断られたこと。そして、その頃、

教頭の娘の榊美世との縁談があり、そうしてもはっきりしておかねばならなかったこと。三十歳の分別で、すみ子の家族の

了解のうえで、結婚はあきらめても、不自然でない形で以前と同じように訪ねてつきあってほしいと言われていたこと。そし

て、美世とは九月に結婚することに決まったこと。いまとなっては聞かされても術のないことばかりだったが、もし、両親から

一言でも平田の申し出のことを聞かされていたら、彼女の人生は変わっていたかも知れないと思われる告白だった。

すみ子は唇をかみしめてうつむいた。どうして私に直接話してくれなかったのですか。どうして今頃話すのですかと聞きただ

してみたかった。そして、もしかして、「先生が望むなら、いまでも先生のところへ行きたい。」と言う返事を希望しているので

はないだろうかと考えていた。

すみ子は平田に愛されていたという甘美な感覚が身を熱くすると同時にこの告白に応えることは出来ないとも思っていた。

両親、兄姉、それにもう結婚の約束をしたと言う榊美世のことを思うと、愛を感じるだけの夢の様な非現実では生きていけ

ないと言うことを納得する常識を受け入れたのだった。そうは思っても、榊美世と結婚すると聞けば、灼けつくような妬ましさ

が胸に渦巻くのを感じていた。

悲劇のヒロイン!すみ子はいま自分がそんな立場に置かれているのだと思った。平田を愛しているのならば、彼が最も幸

せになる生き方をさせてあげなければならない。悲しくてもいい。それが美しい本当の愛のあり方なのだなどと自分の言い

聞かせた。あまりにも幼く感傷的な行為なのだが、そう思いこむことで自分を慰めようとした。

「美世さんだったら、私も知っている人。あの人は先生に、私なんかよりも数段相応しい方じゃないかしら。きっとあの方だっ

たら、先生を大切にして、幸福にしてくれると思うわ。 もう少し早く生まれていたら、どんなことをしても先生のところへ行った

と思うけれど、お父さんもお母さんも、兄さん達も許さない位に私は若すぎるんですものね。

でも、先生、私を忘れないで!先生のこと、私はいつまでも忘れない。」

すみ子は真っ直ぐ平田を見ながら、言葉を句切りながら話している自分が自分でないような気がしていた。

「ああ、すみちゃんも僕のことを思っていてくれたんだね、嬉しいよ。でもこんな風になって、僕たちはもうお別れなんだけれ

ど、僕もすみちゃんのことをいつまでも心で思っているよ。それしかないね。仕方のないことだ。」

何という非現実的な甘い時間を二人は過ごしたのだろうか。 若い二人はのろのろと冷たくなったコーヒーを飲み終わって

店を出ると、春の靄はいよいよ深く、街灯の明かりを滲ませていた。

店の前で二人はどちらからともなく手を伸ばして握手をした。そして思いを振り切るように手を離すと、反対方向に向かって

歩き出した。互いの足音が次第に遠ざかって行く。耐えられなくなって振り向くと、平田の背中が街灯のぼんやりとした光の

奥に消えて行った。すみ子は額に垂れた髪を掻き上げると家の方に向かって走り出していた。

この告白を聞かなかった前の心にはもう戻ることは出来ない。そして報いられない恋がこの夜から始まったと言うことを思

い知らされるようになったのである。

家に帰ったすみ子は部屋にこもって泣いた。両親も兄も何も言わなかったし、言わなかったが、すみ子が何故泣くかと言う

ことはわかっていたと思われる。次の朝、仙台に発たねばならないと言うことが、傷心を少しはやわらげたかも知れない。

時が悲しみをいやすだろうと、家族の誰もが思っていた様子で、その後も平田の事を話題とすることはなかった。しかし、こ

の夜の二人の語らいがその後のすみ子の心を強く縛ることになると想像するものはいなかった。

          **********************

看護学校を卒業したすみ子は、国立病院に何年か勤務したあと、秋田県立病院に勤めることになった。二十七歳になって

いた。秋田に嫁いでいた高校時代の親友だった同級生の菊子が、逢いに来た。三歳になる子供を抱いて、幸せそうな顔を

している。少し甘えたような口調は昔と変わらない。

「ねー。すみちゃん。こないだ、平田先生と会ったわよ。デパートで美世さんと、小学生くらいの子供さんを二人連れて買い

物していたわ。幸福そうだったわよ。」

「幸福そうだなんて・・・。」

と、冗談めかして言ったが動揺は隠せなかった。

「やっぱりね。すみちゃんは平田先生が好きだったんだものね。」

あれから九年と言う歳月が過ぎていたのに、すみ子にとって平田はたった一人の恋人のままだったのである。胸がザックリ

と割れてしまったような思いがしたのである。あの時悲劇のヒロインのようにして、泣きながら美世に譲ってやった平田は、

いまでも暗く寂しい顔をして、すみ子の愛を求めている筈だったのである。

「おかしいわね、平田先生と美世さんが幸せにしていると聞いて慶べばいいのに、何だか妬ましい思いがするの。まるで、

幼稚な恋をしている女学生みたいよね。ハハハハ。」

親友だから、そんな風に心をさらけ出して見せたすみ子なのだと、菊子は憐れむような目をしていた。

「そりゃそうよ。私たちはみんな、すみちゃんと平田先生は恋仲で、必ず何とかなるわよなんて言ってたのよ。別れるなんて

あの頃のすみちゃんは若すぎたのだと思うわ。いまになって気がつくなんて、すみちゃん、かわいそう・・・。」

「いいのよ。あれは仙台へ発つ前の日のことだったのよ。何だか私にはもっと明るい未来がありそうだと思っていたようだっ

たわ。私の方から、美世さんと結婚した方がいいって先生に言ったのよ。」

「あら、そうなの。そんなこと話してくれる機会がなかったから、どうしたかしらと思っていたのよ。本当は・・・。まだ十八だっ

たし、十二も年上と言うことではね。」

「ううん、それだけじゃないの。美世さんと結婚した方が幸せになるから、そうして下さいって言ったのよ。考えて見ると小説

の主人公のような台詞を言ったものね。フフフ」

菊子が帰ってから、すみ子は自分が情けなかった。あの時、きっぱりと思い切って「美世さんと幸福になって下さい。」と、言

ったつもりなのに、彼女の本心では平田がいつも不幸のどん底にいた欲しいとおもっていたのだろうか。それが、幸福そう

だと聞けば、もうすっかり私のことを忘れたのかしらと思う。非現実的なバカバカしい心の動きに揺れる自分が無性に腹立

たしかったのである。


すみ子は老いた両親を嘆かせながら結婚しないままで、四十五歳になってしまっていた。月日は容赦なく過ぎる。仕事の

綿では、きちんとした性格で、明るく、親切で同僚からも後輩達からも信頼をうけていたけれども、結婚の相手となるとそう

は行かなかった。幾度か紹介する人もあり、見合いもさせられたけれど、その度に、心の奥底にある平田と比較している自

分に気づき、そんな思いのままで結婚すれば相手に悪いと考えてしまうのだった。幼い恋だったために、彼女の心の中に

現実離れをした理想の男性として平田が形成されてしまったのだとは気がつかないで、あの時、何もかも捨てる覚悟でつ

いて行かなかった自分自身の過去に報復をうけているのだとと思っていたのであった。菊子に言わせると、そんな生き方

は不器用なのだそうである。しかし、生活が安定するからといって、心にもない結婚をして、お互いに便利だけを取り合うと

言う生活をするのは、許せなかったのである。

「それじゃ、まるで娼婦のようなものじゃないのよ。」

と、厳しい口調になってただすと、

「凡その夫婦なんてそんなものよ。そのうちに育つ愛って言うのもあるんだから・・・。」

と、言って菊子は笑った。二人の子供を育て中年肥りを気にしだしている彼女は、以前のもましておしゃべりになっていた。
   
        ****************************

雪国の秋は短い。十月に入ったかと思うと忽ち紅葉が始まる。千秋公園の木々は歯を落としはじめた。そんなある日の夕方、

病院勤務を終わって公園を抜けて街へ出ようとしていた。夏には花が美しかった蓮も終わって暗い色をした水の色を悲しみな

がら、お堀の橋を渡って 石垣の迫っている道をまがろうとしたとき、

「やぁ、すみちゃんじゃないか。」

と、言う声がした。声の方に顔をむけると平田が立っていた。三十年近い年月を逢うこともなくすごしたきた二人だったから、

お互いの変わり様を確かめ合うように、視線は激しく交錯した。

「すみちゃんは変わらないね。僕なんかすっかり疲れてしまった。がっかりしただろう。」「あら、そんなこと・・・。私なんか一人

者だから変わらないと言われても、そんなに嬉しくないんですよ。でも、先生はお髪が白くなられましたね。びっくり・・・・。」

「いま帰りなんだろ?一寸時間があったらその辺を歩かないかな。歩きたいな。」

平田の言葉の調子が昔と変わっていないのが嬉しかった。

「ええ、そうしましょう。嬉しいわ。」

肩を並べて黄昏迫る公園の道を辿る。

「すみちゃんはどうして結婚しなかったの。」

「失恋の痛手が癒えなかったから・・・。フフフ。」

すみ子は冗談を言うように、軽やかに言った。

「ふーん、本当にそうだったら、僕が悪かったのかな?もう少し待っていればよかったかな。やっぱり・・・。」

「あら、先生だけのことを言ってるんじゃないですよ。そんなことを言ったら美世さんに悪いじゃないですよ。」

「ハハハ・・。冗談、冗談」

と、笑いながら言う平田の声に何となく翳があるのをすみ子は感じていた。

「どうかなさったんですか」

「何でもないよ。ただ僕がすみちゃんを結婚させなかったみたいだなと思ったんだ」

「そんなことはないですよ。いろいろ縁談があったんですけど、一人でいるのが私の性にあっているみたいで。勝手にしてい

るのが好きなんですよ。私は。」

公園を出たところの美術館の前に、人にあまり知られていない喫茶店がある。他に客のいないその喫茶店の窓際の席に二

人は座った。

「横手のリンデンはまだあのままだろうか。」

「この頃は私もあまり行きませんからわからないですよ。横手もすっかり変わってしまったみたいですよ。何しろあれから三十

年近く経ったんですからね。」

白いカップのコーヒーが運ばれて来た。コーヒーの匂いには秋がある、とふとすみ子は思った。こうして、昔の恋を思い出しな

がら飲むにはコーヒーが似合っている。他に客がいないこの店では、ママがカウンターのかげで編み物をしていた。シャンソ

ン・多分モンタンと思われるやさしく、甘い憂いにみちた歌声が流れていた。

「モンタンの枯れ葉だわ。秋のシャンソンは枯れ葉が一番ね。寂しいけれど・・・。」

「もう、すっかり秋だね。」

「ええ、すべてが懐かしい季節・」

すみ子はテーブルに両肘をついて目を瞑って耳を傾けた。秋がくると唱われるこの歌を口ずさみ、そのたびに平田の面影を浮

かべていたのである。いま、平田と二人で聞いている、二人で聞いても、枯れ葉はやはり寂しい曲だった。モンタンはリフレイ

ンを呟くように唱っていた。

平田は疲れた顔で椅子に深く腰をかけて目を閉じていたが、しばらくして目をあいてコーヒーカップを静かに口に持って行った

。この人は何かを話そうとしている、とすみ子は確信した。そして、その言葉を待って平田の顔を見つめた。


「実はね。今度、美世を県立病院に入院させることになったんだ、すみちゃんがいるって言うのがわかってたから、一度事情

を話しておこうと思って、病院から出てくるのを、実は待っていたのさ。辛いことを話すのは嫌なものだね。」

「美世さん。どうなさったんですか。」 

すみ子は美世の病気が思わしくないものであることが、平田の表情から読み取れたが、職業意識が働いて、冷静と思えるほ

どの声で訊ねた。

「異動で僕が大館に行ったのは二年前、今度は校長職だったから、あれこれと忙しくてね。その上、子供も就職だとか結婚だ

とかが重なってね。疲れた、疲れたとばかり行っていたのに、僕は気にもとめなかった。」

一息、ふかく息をして、平田は思いきったように言った。

「胃癌でね。手術はしたんだけれど、肝転移があってね。いまは黄疸がでてきているんだ。」「まぁ。」

すみ子は息をのんだ。肝転移、黄疸、それはあきらかに死への過程を進んでいる状態であることは明らかであった。

平田は窓のそとをボンヤリと眺めていた。そして、呟くように続けた。

「大館で入院をすすめられたんだけれど、秋田にはあれの姉もいるし、僕の実家もあるから、それに・・・。」

「美世さんは知っているのですか」

「いや、癌の話はしていないけれど、あれも馬鹿じゃないから、おそらく死ぬ時のことを考えているんだろう。実家も近いし、秋

田で死ねるように取りはからってくれと言うんだよ。手術のあとで、少し気分が落ち着いて、家の中で朗らかにしては見せて

いるんだけれど、それが何とも辛くてね。」

すみ子は黙って頷いた。さっき、平田と逢ったときに何故か弾んだ心を恥じていた。浅はかさが情けなかった。平田がもし、心

の片隅ででも私を思っていてくれたとしたら、いまはおそらく悔いているだろう。美世に対して慚愧の年を抱いている筈だと思

った。人の死は絶対のものであり、比べられるものは何もない。不意にこみ上げて来た涙がテーブルのうえにポタポタとこぼ

れ落ちた。すみ子はそれをまるで自分のものだないように見つめていた。

     ***************************

十日ばかりして、美世が入院してきた。内科病棟三百十六号室。個室である。窓から千秋公園が見える。平田から連絡を受

けて、すみ子は夜になってから様子を見に行くと、美世は窓のそばに坐って、外を眺めていた。

「あら、起きていて大丈夫ですか。」

と言いながら、入っていくと、振り向いて微笑する美世には、すみ子の知っている若い頃の面影は見いだせなかった。

「千秋公園の木々も夜は暗いばかりね。平田が秋田にいた頃はよく散歩したものだったけれど・・・。年月の経つのは早いわ

ね。すみ子さんには本当にお世話になるけれど、よろしくお願いします。」

静かに立ちあがって、ベッドに横たわる美世を手伝いながら、黒く長い髪をきっちりと三つ編みにして、頭の上の方でまとめて

いて、いつも清潔な印象だった若い頃の美世を重ねて思えば心が痛んだ。

「ねえ、すみ子さん。死ぬときが来たら、私、乱れないで死ねるかしら。」

枕にのせた顔をすみ子のほうに向けて、不意に美世が言った。その言葉は刃のようであった。そして、表情の少しの動きも

見逃すまいとするように、まっすぐすみ子の顔をみつめていた。 

「あら、どうして・・・。死ぬことを考えるのは早すぎるんじゃないの」

職業的に慣らされてポーカーフェイスを少し歪めて、すみ子は笑って見せた。

「そうね。もう少し生きたいわ。」

「そうよ。早くよくならなければ・・・。疲れたでしょうから、今日はもうお寝みくださいね。ベッドが変わって眠れないようでした

ら、お薬さしあげますから・・・。」

「大丈夫。眠れないのが嬉しいときもあるのよ。この頃の私には・・・。」

「でも、眠らないと疲れますから、いつでも言って下さいね。」

ドアを閉めて廊下に出たすみ子は、少時息を整えるために立っていた。

美世は確かに死を自覚していた。それが来るのはあまり遠いことではない。


美世が入院して二十日位したころ、日曜日の病棟へ菊子が訪ねてきた。ナースステーションの隣の小部屋でインスタントコー

ヒーを入れて、向かい合って坐るとすみ子は言った。

「何の御用?今日は日曜日でご主人様はご在宅じゃないの?」

「ううん。それがご出張。子供達はそれぞれ御勝手におでかけ・・。私も一息つきに出てきたっていうわけよ。何とかの居ぬ間

の命の洗濯っていうわけ。」

「あら、いつも洗濯はしているんでしょ?」

菊子はすみ子の表情をうかがいながら言った。

「ホントはね、私すみちゃんの様子を見に来たの。美世さんのところへ今日は平田先生が見えて居るんでしょ?。すみちゃん

は辛いわね。」

「何が辛いのよ!」

強い調子で 言い返しはしたけれど、菊子に自分の心の中をのぞき込まれているようで、すみ子は怯んだ。

「美世さんが健康なら、平田先生をもう一度奪っちゃってもいいでしょ。でも死ぬっていうことがわかっている人から奪うわけ

にいかないものね。」

「何を言うの、菊ちゃんは!そんなことを言いに来たの。ひどいわよ!呆れてもう口もきけない。帰ってちょうだい!」

そう言うだろう事を予想していたように、菊子は表情を変えずに椅子にもたれていた。

「帰れと言ったらかえるけれど、すみちゃん聞いてね。私にはみんなわかるのよ。うちの主人がそうだもの。心が私に向いて

いないのって悲しいわよ。そんな悲しみの中で美世さんを死なせられない・・・。うちの人もたしかに私にも子供達にも優しいし

、いい人よ。でもその裏に私の知ることのできない何かがあるの・・・。私が病気で死ぬようにでもなれば、多分平田先生のよ

うになるわ。平田先生はいま悔いているわよ。心のなかで美世さんとすみちゃんをきっと比べていたでしょうから・・・。」

すみ子は言葉を失っていた。立ち上がって菊子に背を向けて、水道の蛇口を一杯にひねって手を洗った。心の中で自分が思

っていたことを、菊子がくやしい程に見透かしたように言ったのだ。その反面、わかってくれる人がいると思うやすらぎのよう

な感じもあった。

「すみちゃん。いま平田先生の心はすっかり美世さんのものになっているわよ。

私だって悲しみはわかるわよ。わかっていて知らないふりをする女の生き方を、あんたは気がつかないだろうけれど、今は自

分に納得させているんだから・・・。」

と言いながら、菊子がそっと立ちあがり、部屋を出て行くのをすみ子は背中で感じていた。

           ********************

十一月も半ばになっていた。千秋公園の裸木を風が渡って音を立てていた。遠くの山々は、雪を含んだ鉛色の雲に覆われて

いる寒い木曜日の午後に、美世の娘の律がすみ子を訪ねてきた。

「母がどうしても、川井婦長さんと二人きりでお話したいと言うんです。お忙しいからって言ったんですけれど・・。」

「あら、何かしら。いいですよ。今いきますから・・・。」

「ええ、お願いいたします。御用は何なのって聞いても話してくれないんです。」

美世に似て、きりっとした眉の律は、四月に結婚したばかりで、まだ初々しい。

ちょうど、引き継ぎを終わって一段落していたすみ子は一緒にナースステーションを出た。

律は涙ぐんでいる。

「いよいよ、駄目みたいです。父も私たちもあきらめたくはないんですけれど、母の方がすっかり死ぬ覚悟を決めているんです

よ。怖いくらいで、本当に辛いんです。」

「皆さん、本当に辛いわね。」

すみ子にはもはや他に言うべき言葉はなかった。

果物を買いに行くと言う律と別れて、美世の部屋に向かう。死に近い人と会う心には、長く看護婦をしてきた彼女であっても、

準備が要った。ましてそれが、平田の妻である。病室の前で立ち止まり、呼吸を深くして、息をととのえてからドアをノックした。

美世はあう度に状態が悪くなっている。当然のことであるが、当然だから尚更痛々しい。痩せて黄色くなった皮膚がひきつる

ように見える首をそっと回して、すみ子を見て頬笑むような顔をした。

「ごめんなさい。およびたてして・・・。」

「いいのよ。何か御用がおありだってきいたんだけれど、私で出来ることならさせて頂くから、何でもおっしゃってね。」

ベッドサイドの小椅子に座り、美世の顔の見えるような位置をとったすみ子に、美世は小さな包みを差し出した。

「これ、あなたに使って頂こうと思って・・・。」

「あら、何かしら?」

「時計。平田が選んできたのよ。あなたのために・・・。」

「そんなことをしては困ります。とてもそんなものは頂けませんわ。私は内科でもないし特別な事はなにもしていないんですも

の・・・。」

「ううん。そういうことの御礼ではないのよ。私から差し上げたかったの。どうしても叶えていただきたいお願いがあるから。」

「お願いなんか、何もいただかなくても、出来ることなら、出来る限りのことをさせて頂くわよ。昔からのお付合いですもの。」

美世はすみ子が受け取らない時計の包みを、枕のそばに置いて、しばらく目をつぶった。そして静かに話し出した。

「あなたはまだ若くて美しい。羨ましいわ。私は平田を愛したけれど、平田は私をどう思っていたかしら。」

「あら、どうして?心配なさってお痩せになられたくらいじゃないの。羨ましいのは美世さんたちの方よ。よくなって差し上げな

ければ、先生に悪いわよ。よくなるって言う意志を強く持って下さいな」

すみ子はいつも思う。今まで何人の人にこのようなわかりきった嘘を言ってきただろうか。そして、おれからも言い続けなけれ

ばなたないのだろうかと・・・。死ぬことをはっきりと自覚しているような美世にさえ、「もう駄目なのだから、安らかに死になさ

い。」などと癒える訳がない。そして、奇跡が起きるかも知れない、起こって欲しいと祈るのだ。人の最期に立ち会うものの悲

しみに耐えながら、いつもすみ子は智恵の限りを尽くして嘘を言い続ける。

「ありがとう。ほんとにそう言って下さって嬉しいけれど、私にはよくわかっているのよ。もう私には時間がないということが・・・

。だから、あなたに私は時計をさしあげたいのよ。平田にはいろいろお世話になったからの御礼だと言って買ってきて貰った

の。でも私の本当のお願いと言うのは・・・。」

美世は口ごもってからつづけた。

「平田は知らないのよ。私が死んでも私から平田をとらないで欲しいと言うこと。あなたにだけはとられたくないのよ。ごめんな

さいね。」

すみ子はするどい刃物で胸を刺されたような思いで絶句し、顔から血のひくのを感じた。美世は目をとじたままで続けた。

「あなたは平田とはずっと逢っていなかったと思うけれど、私が病気になるまでは、あの人の心の奥にはいつもあなたがあっ

たのよ。あの頃、あなたと平田とは本当に親しかったし、それにあなたは誰とも結婚しなかった。」

「何をおっしゃるの。先生と私には何もなかったし、何もないわ。ただ兄と友達だったと言うことで甘えていただけなのよ。」

「いいえ、それは表面だけのこと。あなたがどう思っていたかは知らないけれど、平田は少なくともあなたを心の奥にすまわせ

ていたことだけはたしかなのよ。

こうして、病気になっ私と

の約束の証に・・・。ね。」

すみ子は看護婦と言う冷静であるべき職業にありながら、耐えきれなくなって声をあげて泣いた、美世の手をにぎっている手

の甲にポタポタと涙がしたたった。

美世は静かに手を伸ばしてさっきの時計の包みを取り上げて、枕のそばに小さなバッグから取り出した花模様の薄いハンカ

チと一緒にすみ子に渡した。

「本当に辛いことを話してしまったわ。私ね、あなたにこのことを言わないままでは死なれないと思っていたのよ。いよいよ死

が近くなって来たみたいだから、今日はすっかり話してほっとしたわ。安心した。ごめんなさいね。」

二人のうえにしーんとした時間が流れた。美世は深い息をしてまた目をつぶった。

涙が乾くまで、すみ子は黙って美世の手をにぎっていた。

律が帰って来たので、すみ子は何事もなかったように、職業的な話をしてナースステーションに帰った。


それから十日後、入院してから四十五日目に、美世は昏睡状態のまま静かに息をひきとった。意識が朦朧としてからも、美世

は平田に向かって、「私を忘れないで下さい」と言ったことを、律はすみ子に話して泣いた。事情を知っているすみ子にとって

律が受けとる以上にそれは重い言葉だった。


勤務の都合をつけて告別式に参列したすみ子は憔悴した平田の精一杯の挨拶を聞いた。

「美世は生前、皆様には大変お世話になりました。有り難うございました。この度の病気が助からないものだと言うことを、口

には出しませんでしたが、死んでしまったあとを見ると、家のなかの事は私が困らないように、きちんと整理し、いろいろと書

き残してありました。死の覚悟をして、一人で苦しんだのでしょうが、私には何もしてやることが出来ませんでした。」

平田は天井を仰ぐようにして、声を詰まらせた。参列者の誰もが息をつめて、彼を見つめ焚いた。

「美世はよくつとめてくれました。現在の私があるのは、すべて美世のおかげです。いま私はどうしてこれからの人生を過ごし

てゆこうかと、本当に当惑しています。どうか皆様。私のために、そして子供達のために、美世の思い出をいつまでも心の中

に置いてやって下さい。本当に有り難うございました。」

一語、一語、ふりしぼるような挨拶が終わると、彼方此方ですすり泣く音がした。

祭壇にかざられて写真は、律の結婚式の時に撮ったものだと言う。そのやさしく微笑する美世の顔が涙で歪んで見えるのを

哀しみながら、すみ子は自分の心の葬りをしているようなきがしていた。

あの時、美世はずっと私の影を平田の中に見ながら変わらすに彼を愛し続けてきたと言ったけれど、これからは平田が美世

を心の最もふかいところに抱きつづけてゆくことにあるのだろう。そんな平田はもうすみ子のものではなかった。彼の存在が

自分の生きて来たことに何の関わりもないとは言い切れないけれど、美世のような無償の愛を彼に捧げ得ないことを感じてい

た。そして、自分が彼を愛していたと思うのは悲しい錯覚で、愛されていたいと言う願望と、いつも愛してくれているとひそか

に信じる甘美な自愛でしかなかったことに、はっきりと気づかされていたのである。

六人兄妹の末っ子で、幼いときから愛されていることに馴れてしまい、愛されているのが当然の用にして、結局はさびしい生

き方をしてきたと言うことを、」すみ子は美世によって初めて知ったのだ。

会葬の人々に深く頭を下げて礼を言う平田は、痛々しく見えた。すみ子は三十年前「先生は美世さんと結婚なさった方が幸福

になれます。」と、言ったことを思い出していた。

たしかに妻に先立たれると言う現実の不幸には遭遇したけれど、美世の大きな愛をうけて、その思い出とともにこれからは生

きてゆくだろう彼を決して不幸とは言えないと思った。

すみ子は何の余念もなく、心から彼の今後の平安を祈っていた。

葬りを終わって出た寺の庭は、今朝から降り出していた雪に白く覆われていた。

すみ子はコートの襟を立てて、うつむいて歩き出した。


疲れていた。まだ九時なのに、もう何をする気力もない。ブランデーを取り出して、少し飲んでベッドに入ったのだが、かえって

目が冴えるような気がしていた。電話のベルが鳴っている。ガウンを羽織ってのろのろと立ち上がり受話器を取ると、菊子の

声だった。

「すみちゃん。大変だったわね。」

「うん。まあね。これですっかり終わって、少しは大人になったわ。私も・・。」

気を許して、疲れたような返事をすれば、

「しっかりしてよ。あなたにはあなたを頼りにしている患者さん達がいるのよ。ゆっくりお休みなさい。じゃあね。」

いつもは長々とつまらないことを話しつづける菊子が、たったそれだけで終わったことで、

すみ子は、菊子が多分なにもかも、うちひしがれた哀れささえもわかっているのだろうと思った。それにしてももう彼と会うこと

はないだろう。逢ったとしても昔の私ではない。私は四十五歳、彼は五十七歳、年齢を考えてふっと苦笑した。何と長い間、

自愛のラブロマンに囚われてきたことか。

ブランデーをもう少し・・・。グラスに注いでその琥珀色を目の高さに掲げてみた。机のスタンドの傍にあの時計がケースのま

まで置かれてあった。

すみ子はそっと呟いた。

「乾杯!」

ブランデーはじいんと胸にしみた。

雪はまだ降り続いているらしい。
                                                         終わり