動物愛護団体から苦情が来そうな話です。
私は犬が好きです。高校時代の英語の先生が教えてくれた「オールドドッグトレー」と言う歌の中に「いつも忠実な」と言うフレーズがありましたが、本当にそうだと思っています。
結婚してからは、姑がお稲荷様を信じていて、犬を飼うことはできませんでしたが、結婚前は犬を飼いました。飼ったと言っても血統書付きとか何とか言う立派な犬ではありませんでした。それに山の中の一軒家みたいなところでしたから放し飼いです。
今日ならば大変な違法行為かもしれませんが、そんなことは気にしませんでした。犬たちも自由を謳歌していたと思います。
一番先に来たのは、多分柴犬の系統をひいた茶色に白の斑のあるいい子でした。
命名は私でポピーと言う愛らしい名前をつけました。雌犬ですし放し飼いですから、どこの誰ともしれない犬との間に、子犬がうまれました。自然のなりゆきで、それをなんとも気にしなかったんですね。でも、ポピーはあまり丈夫でなかったみたいで、私が学校に行っている間に子犬たちは次々と死んでしまい、3回目くらいのお産のあとで、自分もしんでしまいました。
可愛がっていた私が学校へ行ってる間のできごとで、不思議なことにそれらの死を一度もみたことがなかったのです。
その後、パールと名をつけた黒い秋田犬を飼いました。血統書があるわけではありませんから、多分雑種だったでしょう。真っ黒な身体で、のど元に小さな白い毛がかたまって生えていることからパールなのです。雑種でも賢い犬でした。
食事をするとき「座って!」と言うと「よし」と言うまで座って食べるようになりました。「お手!」と言うと真っ黒な前足をボタッと言う感じに私の手に載せるのです。それをみていた父が
「子犬の時はいいけれど、大きくなったからの芸にしては気持ちが悪いから、それはやめた方がいいんではないか」
と言いました。確かに忽ち大きくなって「お手!」は似合わなくなりました。
登校するときもついてきました。(つないでいませんから自由です。)どこまでもついて来られては困りますから
「もういいよ。お帰り!」
と言いますと、恨めしげな眼をしてその場に腰を下ろしてすわりこみ、しばらく見送ってから、のろのろと帰ってゆきました。
父の仕事の都合で、祖父母達の家から4キロほど離れた家に5年ほど住んでいたことがありました。
山の家と言っていたその家は、道路から3米ばかり高い台地に山を背にして建っていました。玄関には道路から30米ばかり庭の中の坂道を登らなければなりません。
パールはいつも庭の一隅の道路から坂道を一望に見下ろせる場所にすわっていました。
訪ねて来る人があれば吠えます。初めて来た人、何回かきたことのある人、家族みんなが親しくしている人、嫌っている人と何となく吠える声が違うのです。その声の違いには、家人しか聞き分けられないのですから都合のいい門番でした。
東京の大学に通っていた頃は、山の家を引き払い、祖父母達と一緒にくらしていました。雪国の田舎家ですから、屋根のかかった土間が玄関から裏口まで続いていて、パールの小屋はその片隅にありました。
帰省すると、玄関を開けたとたんにとびかかって来て、肩に両前脚をかけて立ち上がり、顔をなめるのです。仕方がありませんから、可愛いとは言えない大きさの犬が落ち着くまで、しばらく抱きつかれているのがならいでした。
大学を卒業し、結婚をして家から離れて、遠くに暮らしていましたので、なかなか実家に帰ることが少なくなり、帰るたびにパールの歓迎儀式は淡泊になってゆきました。
もはやとびかかってくることもありません。果てはノソーッと犬小屋から這いだしてくる老犬となっていました。それでも
「パール元気か?」
と声をかけると、顎をすり寄せて来ました。
犬も白髪になるんですね。のど元の白い毛の塊の範囲が広くなり、髭は全部白くなっています。庭を走り回ることもなく、吠えることもなく、昼間は庭石の傍で前脚に顎をのせた姿にばったりと坐って、秋の日を浴びながら時々薄目をあけて、空をみていました。
帰るとき
「元気でいてね」
と背中を撫でると、太い尾をバタリバタリと振りました。
法事があって集まった次の年の6月にはもうパールはいなくなっていました。死んでしまっただろうことは言わずともしれたことです。今まで一度も犬たちの死を見たことがなかった私でしたが、パールの最期は何となく気になり、父に尋ねると
「スミのところに預けて死なせた」
と言います。スミは昔からのお手伝いで、その夫の周造もよく知っています。丁度法事の手伝いにスミが来ていたので、私は訊いてみました。
「パールはどうだった?」
「年を取っていたから、少し硬かったそうです。」
スミは応えてから、ハッとした顔をあげました。
「ア!言うなって言われていたんだった」
と、口を押さえましたが、もう時は遅しです。
突然、梅雨の降る夜の田舎の農作業小屋の、裸電球の下で捌かれている血まみれの犬と、声をひそめてパールを捌いている男たちの浅黒い汗に汚れた脂臭い体の動く様子がまざまざと目に浮かんだのでした。
吐き気がしました。おとこ達が「犬を食う」と言う話は聞いていましたが、パールがその対象になっていたのだとは思ってもいなかったのでした。
「死」と言うことに触れたくないから、逃げて目をふさぎ、耳をふさいで、知らないことを幸いとして楽しいことばかりに興じて過ごして来た私でした。
父は彼らに預けて死なせたと言ったけれど、彼らが「食った」あとで「死にました」の報告を受けて眼を瞑ったのだろうか。それとも彼らに「食わせる」ように仕向けたのだろうか。父が・・・・。
それを問いただすことは恐ろし過ぎました。姑も亡い今では犬を飼うことに憚りはないので、時々犬を飼いたいなどと思うことがありますけれど、犬と過ごす楽しさのあとに必ずあの日がある。そして、見てはいないのだけれど、あの情景がそれに重なるのです。
私はもう犬は飼えません。