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大きな古時計

 そこは煤ぼけた天井の高い部屋、柱にデーンと架かっていたのは直径八十糎ほどもある丸い大きな柱時計でした。
 その時計は大きいですから振り子も大きくて、チクタクなどという生易しい音ではなく、カッチンカッチンと部屋に音を響かせていました。時間を報せる音もまたボーンボーンと言うやさしい音ではなく、ビィーン、ビィーンと空気を震わせて鳴り響き、初めて訪ねて来た人々は驚いて話をやめ、時計を見上げては、鳴り終わるのを待ったものです。
 三十分毎に鳴り響くその音は、大きな地主の家なのだと言うことを誇示するように聞こえたと思います。
 家の中のどこにいても聞こえるその音は家族の生活のリズムを整える役目を果たしているようなものでした。
 あれは小学校の二年生くらいの頃の冬だったと思います。使用人の多い家でしたから、誰かがいたと筈なのですが、その日は何故か祖母とたった二人だったと記憶しています。
 広い家の中はがらんとして、大きな囲炉裏には炭火が赤く、祖母は傍らに火鉢を置いて、縫い物をしていました。
 火鉢に鏝を差し込んで、膝の上にひろげている縫い物は何だったのかはわかりません。
「三時になったらいいものをあげるヨ」
 と言う祖母の背中によりかかって、雑誌をひろげていました。
 囲炉裏にかかっている薬缶が沸き立つ音と、あの時計がカッチンカッチンと時夫刻む音。家の中に音はそれだけしかありません。全くの無音よりも妖しい静かさです。静寂とはあのようなことを言うのではないかと今でも思い出されるのです。
 3時に少し前、時計のどこかでギーッと小さな音がします。つづいてハッとするほど大きく3時を告げました。
 いつもと同じ時計でいつもは驚かないのに、しんと静まりかえっていたあとでのその音は本当にスゴイ感じがしたのでした。
 祖母は針仕事を片づけ、火鉢の灰を掘り起こして、少し焦げ目の付いたホカホカのジャガイモを3つ取り出したのです。新聞紙の上で器用に皮を剥いてくれ、にこにこしながら、何か特別なことでもするように二人で頭をよせて食べ合いました。
 何を話したのかは全く記憶にないのですが、カッチンカッチンと言うあの振り子の音が、この遙かな記憶の底に響いてくるのです。
 この柱時計の架かっている柱に向き合って神棚がありました。朝食の前に必ず神様を拝むようにと躾けられていた私たちは、
「早くしないと学校に遅れてしまうよ」
 と言う声に急かされて、時計を見上げて時間確かめ、神棚に手をあわせるのでした。その行為は単なる習性になっていただけで、神様に祈るなどと言う敬虔な心があるわけではなかったのです。時計を見上げるのと、神棚に手を合わせるのとを一度にしてしまって、何度あの時計を拝んでしまったことがあったことか。
 祖父は十人兄妹、父は九人兄妹、そして六人の私たち兄妹。年が離れていても、みんなこの時計で一日の時間を計って来ました。変色した写真でしか知らない曾祖父が買ったものだというこの時計にかかる思い出は、世代によってそれぞれ違うでしょうが、みんなが何度か時計を拝んだか、それに似た体験があるのでしょう。この話をすると誰もが一様に頷いて笑うのです。
 五日に一度、大きな螺子でゼンマイを巻き上げるのを見るのも小さい頃の楽しみでした。そしてみんなが何度かその作業をした体験をもっていて、ゼンマイのギーッ、ギーッと巻きあがるときの感触を今でも思い出せると言い合うのでした。
 それまで何度となく修繕をくり返して来た時計が、祖父が亡くなった頃からどうにも修理が出来なくなりました。
 古くてどうにも修繕の部品が手に入らないと言うのです。とうとう動かなくなった時計ですが、あまりに大きすぎて動かなくとも他に置く場所がないので、動かなくとも今までと同じところに掛けておくより他にありません。昔の時間はそこに止まってしまいました。 
 そして同族達が実家を訪ね度にそれを見あげて「この時計どうにかならないかしらね」と同じ事を言う何年かがありました。
 古くなった実家を改築することになったとき、父はこの時計を東京のメーカーに運び込んで、とにかく動いて鳴るようにしてもらうことにしたのでした。何しろ直径八十糎もある掛け時計です。曾祖父がそれをどのようにしてこの片田舎の町に運んだかは知りませんが、東京へ送りつけるまでが大事業だったと言って父は笑いました。
 一年がかりで家の改修が終わった頃、時計も帰って来ました。なおって、見た目は同じでも中身はすっかり新しくなったのです。ゼンマイも二十日巻きになり、大分管理が楽になったそうです。でもあの音は変わず、カッチン、カッチンであり、ビィーン、ビィーンでした。改修した家は以前とは違い、間取りもすっかり変わってしまい、明るくなりました。 時計は綺麗に掃除をされ、磨かれたとは言っても、いかにも古くさく場違いな程の大きさで、デーンと反っくりかえっているのです。
 昔の地主の旦那様の風情で、ユーモラスでもあります。昔と同じ顔をした時計が同じ音をたてて動いているのに出会うと、今でも実家に遊びに帰った誰もが本当にホッとして、顔を和ませるのです。
 父も母も兄ももうこの世にはいませんが、時計はまだ動いています。実家は甥夫婦が守り、子供達も健やかです。
 そして、時計は今も神棚の前の柱に掛けられています。甥の子供達もあの頃の私のように心急いで時計を拝んでしまうことがあるかも知れないと想像すると、何とも楽しいのです。

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