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こいを求めて300里・父と錦鯉

  聞いておけばよかったと思うことは多いものですが、父が亡くなってからあの「こい」の話を聞かないでしまったことが、本当に悔やまれるのです。
 長い間、小さな町の町長をつとめた父でしたが、落選したことがあり、町部から少し離れたところに住んでいた一時期がありました。  
 私はちょうど生意気な高校生でしたから、無聊の相手にするには格好だったのでしょう。 
 この時期、将棋や囲碁の手ほどきを受けさせられました。
 受けたのではなく受けさせられたのです。 
 手ほどきですから、駒の動きを知った程度です。
 六枚落ち、四枚落ちなんて言う変な対戦をさせられても尚いつも負けてばかりです。 
 話にもならなかったのでしょうが、負けず嫌いで悔しがる様子が面白くて、からかって負けそうになった振りをしたり、逆転を楽しんだりしてよい暇つぶしをしていたのだと思います。
 そんなある日の事です。いつものように将棋盤を取り出して駒を並べはじめたとき
「なぁ、ヨリ子。徒然草というのは徒然に書いた随筆だが、俺はいま閑をもてあましているから、閑草というものを書こうかと思っている。」
 と言い出したのです。
「それに閑草は音読みにすれば かんそうだから、感想にも通じるし、題名もよいだろう」
 面白そうだと思って顔をあげて頷きますと
「副題は(こいを求めて三百里)と言うのだ。面白そうだろう?」
 と言うのです。
「副題はいやだけれど、閑草は面白そうだからいいんじゃないの」
 日記をつけたと聞いたこともない父でしたから、どうせふざけた話だろうと思いました。
「いや、副題が大事なのだ。(こい)それも俺の色こいだからな。」
 と、いかにも懐かしそうに言うのです。潔癖な少女は眉をひそめて
「いやらしい!そんなのは今どきの流行で、下手な随筆でこいの告白をするって言うんなら、バカバカしい!やめてよ!」
 と言いました。すると父はしてやったとばかりに
「釣れた!釣れた。こいはこいでも魚の鯉だよ。色鯉のことだ。」
 と種明かしをして大笑いをするのです。からかわれてむくれる私を面白がって笑うと言う有様になってしまいました。
 プンプンしながら将棋盤を片づけて引っ込んでしまいましたから、この話の本筋は聞かないでしまいました。
 父もまたまもなく町政に復活して忙しくなり、忙しいままに終わってしまいましたから、閑草はとうとう書かれずじまいでした。
 すでに百年以上も前から食用鯉の養殖が行われていた山峡の小さな町です。
 大正の中頃、ちちと祖父が目指した養鯉事業は、あくまでも稲作農家の副業として成り立つ方式でした。
 採卵孵化した稚魚(青子)を苗を植え付けた水田に放ち、体長十糎ほどになるまで育てて、秋になったらそれを種鯉として出荷するという考えだったようです。
 今日の水田では考えられませんが、農薬も何も使われなかった時代のことですから、鯉を放っても稲作に影響は全くなかったのです。
 稲田に放つまでの稚魚は、私の家の外庭に掘られた大きなため池で採卵され、孵化させると言うのでした。
今日のような採卵孵化事業などと言う程の大げさなものではなく、自然の摂理にほんの少し手助けをすると言うものでした。
 それは第二次世界大戦の始まる前まで続いていました。
 初夏、湿った空気に青草の匂いがこもりはじめる頃、若い衆たちが鯉の産卵を見届けるために夜番小屋に泊まりこみます。
 篝火を焚いて幾晩も徹夜をする毎年のならわしは、まだ幼かった私の胸を弾ませるものでした。
 水草を植え付けた採卵池で産卵を終わった親鯉は、そのまま入れておくと卵を産み付けた草が荒らされ、折角の卵が壊されてしまうということで、若い衆が抱き上げて別の池に移すのです。
 詳しいやり方はよくわかりませんが、いずれにしろ孵化したばかりの鯉の子は糸のように細く、小さく、それに卵黄などを溶き流して食べさせるのです。そして少し大きくなっ たころ、田植えの後の苗が活着して落ち着いた稲田に放されました。
 夏の間、水田の稲株の間をチョロチョロと泳いで大きくなった鯉の稚魚は、秋には回収されて、水が自然に静かに流れる程度の勾配に設置された養鯉池で、何段階にも分けられて管理されていました。
 この流水式養鯉池は当時としては新しい方式だったようで、他所から見学にくる人もいて、みな張り切っていたように思い出されます。
 画期的だと思われるのは、この稲田養鯉と流水式養殖鯉池を食用鯉でなく多色鯉で行おうとしたことでした。
 当時はまだ色鯉または多色鯉と言う名前で呼んでいた時代です。
 その先進地は新潟県でした。若かった父(まだ二十四歳だったそうです)は、良い種鯉を苦心して尋ね歩き、新潟県古志郡山古志村でようやく思うような鯉を手に入れることが出来たのです。
 山古志村に「錦鯉発祥の地」と言う碑があります。
 たしかにここがはじめて美しい多色鯉を生み出したところであることに間違いはないようです。それも私の父の言葉からなのですが・・・。
 当時、山古志村から秋田の山峡の小さな町のわが家まで、その多色鯉の種鯉を移送するのは列車の便も不便極まりなく、鯉を運ぶ容器も大きな桶の時代です。
 駅に止まる度に水を管理しての旅。貨車について線路を歩いたこともあると言いました。 
 そうしてまで運んだ苦労話を書こうと思ったのが、先述の閑草だったのでした。たしかに三百里位はあるかも知れませんし、今考えれば面白い副題だとも思います。
 後に父が新聞記者のインタビューに応えた記事を見ますと、百二十尾の種鯉だったとありました。そして庭を掘り返して養鯉池を造り多色鯉を増やして、当時の農民の貧乏を何とかしてやりたいと思ったとありました。
 増やした多色鯉を百五十戸の農民に配って育ててみろ、大きくなったら良い値段で売れるからと言って勧めたのだそうです。
 多色鯉とは言っても美しい模様を持つものは数少なく、その選別技術も、父は身につけ、悪いものは全部捨てて、烏の餌にしたのだそうですから、大変な苦心だったと思いますが、その結果はみなが「高見の見物」をすると言う結果になってしまったのでした。
 親郷の肝煎とか言う家でした。
 金持ちの道楽につきあってゆけないと言うのが当時の人々の自然な思いだったのでしょう。 そこでも面白い発想をする父でした。                                
「よーし、それなら見て居るがいい。やれば外国へも輸出出来るんだ。満州だのと言うケチなところではない。アメリカに輸出することだってできるんだから・・・」
 と、父は大啖呵を切って見せたのです。もうあとには引けないことになってしまいました。
 それまでアメリカに鯉を輸出した業者はいないのです。「法螺吹き」という陰口がやがて陰口でなくなってゆきました。
父はよく言ったものです。
「ウソつきは駄目だが、ホラ吹きはいい。法螺は努力によって法螺でなくなる」
 それから三年間の父は努力に努力を重ねました。
 まず「日本輸出金魚同業組合」と言う企業の設立を祖父を組合長として設立。
 輸出業者は国際水産株式会社で、ロサンジェルス支店を受け取りとしたようです。輸送が今日のような酸素のボンベなどもなく、その上船便ですから、どうすれば鯉が長く生きているかの実験などもしたそうです。
 法螺吹きと言われたからには、どんなことをしても格好をつけてやると意地を張ったのでしょう。
 大阪商船・浅間丸で送ったと言う受け取りの手紙が私の手元にあります。私がこれを題材にして書くと聞いた実家の甥が持ってきてくれたものです。
 父の言葉によると、千二百尾を二回に分けて送ったとあります。
 私の手元にある手紙は、多分一回目の受け取りでしょうが、成功とはお世辞でも言えそうもない報告書でした。
 鯉の輸出は成功とは言えない結果だったのですが、周囲の人々は「あの多色鯉をアメリカに輸出してたいした儲けをしたそうだ」などと言う噂で持ちきりになったのでした。
 それで財産を失う程の大損をしたことには口をぬぐい、その後も多色鯉の養殖を続けたのでした。
 その頃から私の記憶がはじまります。
 輸出は不成功だったのでしょうが、この多色鯉の世界に大きなインパクトを与えた出来事だったと思います。
 東北の山の中の名もない養鯉業者の父が日本で初めてアメリカに多色鯉を輸出したのですから・・・・・。
 この頃はまだ「錦鯉」と言う言葉は使われていませんでした。
 いまは英語でも「ニシキゴイ」で通じるのかも知れませんが「varicolared carp(多色の鯉)」なんですが、父は麗々しく「フラワーカープ」と名付けて送ったのでした。
 この命名について、父と「閑草」の話をした頃だったと思いますが、英語を少しわかり始めた私に笑いながら言ったことがありました。
 「だがな、ヨリ子。英語ならば「フラワーカープ」も良いけれど、日本語にすれば(はなごい)だろ。変な感じだ。それに色鯉ではますます聞こえが悪いだろ。山古志では、博覧会に大正三色、紅白、銀鱗昭和だとかそのものずばりの雰囲気のない命名で出して来ていたのだ。中で(大和錦)(富士錦)と名をつけた人がいたんだ。それがいいと言うことで(錦鯉)と言う名で呼ぶことにしたんだ。
 「錦」は「二色」にも通じるだろうから・・・。まぁ言ってみれば俺がニシキゴイという名を、あの多色鯉たちにつけてやったということだ。 
 昔から俺の家にいた変わり鯉に(更紗)と言う名を付けていたから(サラサゴイ)もいいかなと思ったんだが、やはり(ニシキゴイ)でよかった」と、言ったのでした。
 「ニシキゴイ」と言う呼び名が一般的になったのは、昭和三十年頃からのことでした。
 真偽のほどは確かめようもありませんでしたが、本当に父がこう言う名前をつけたのだったら嬉しいと思ったものでした。
 父には悪いですけれど、この多色鯉の事業は苦労はしたとしても、周囲の人々の言うとおり道楽の域を出ることは叶わなかったと、私は思います。
 家の本業は地主としての農業経営と山林業でした。組合を作って農業倉庫を建てたり、森林組合を設立したりするにつれて、仕事が増えてきましたから、食用鯉の品質を上げると言う実務をするようになり、多色鯉の養殖については、あまり熱をあげなくなったように思います。
 時折、名残りはありましたが、熱中したのは昭和十三年ぐらいまでだったように思います。 内庭の池と座敷から見える庭の広い池に五百尾ほどの親鯉を残して、鯉の仕事からは遠くなっていました。
 錦鯉の町にはとうとうなれずにしまいましたけれど、鯉の町としては知られるようになりましたから無駄でもなかったでしょう。
 外庭の稚魚を育てた堤はやがて苗代となり、田圃となりました。堤だったところの石垣には苺が植えられ、採卵のときの番小屋は四阿として残されました。
 水を取り入れたところには花菖蒲などが植えられおり、稲田をそよがせる風を見ながら私たちはお弁当をひらいたり、友だちが来ればおやつを持ってきてもらう場所になったのでした。
 そんな訳で、ほとんどうようよと二色、三色の鯉がいるのが当たり前のこととして育った私たち兄妹でした。どれも親鯉ですから、かなりの大きさです。人なつこくて、警戒心はありません。
 沢庵の切れっ端に紐をつけて差し出すだけで、大きな鯉をたぐり寄せることなんか簡単です。特色のある鯉には名前をつけて呼んでいました。
 冬を越すときには水を深くして区画してある池に全部集められ、夏になると庭の方の池に移すのがならいで、その日は若い衆が賑やかに働いて大にぎわいでした。毎年水を止めてすっかり清掃するのと、いつも水が流れているのできれいです。暑い日には、鯉たちと一緒に池で遊んでもいいことになっていました。
 鯉たちと一緒に泳いだ割には泳ぎはうまくありませんが、足の指をしゃぶられたり、脇の下をくぐり抜けたりする一米近のもある彼らと泳いだ楽しさは、多分わかって貰えないと思います。
 中央に島が造られていた座敷の方から見える池の方には、特に父が選んだ鯉が百尾ほども泳いでいて、島に渡した板 橋を渡ると足音に反応して、ワーッと波を立てて餌を貰いに群れ寄って来るので壮観でした。
 来客はみな大喜びをしたものです。
 夜は夜で、鯉がはねる水音がします。それを聞くと、
「雨が近いらしい。鯉がしきりに跳ねる」
 と枕を並べて寝ている祖母がつぶやきました。
 膝にこぼしたごはん粒や残飯などは、流しの下に飼っている食用鯉の餌となりました。  
 小学校のころ、母の実家に遊びにゆくときはいつも食用鯉を二,三尾新聞紙に包んで背負わされました。鯉は勢いがあってなかなか死なないので、時々背中でビクビクと動くので妙な感触がしました。
 母の実家につくと、鯉は盥の水に放されてまた元気よく泳ぐのでした。幼い日々の思い出はすべて鯉につながっていたと言う感じがします。
 時代はあわただしく流れ、戦争へ戦争へと人は駆り立てられてゆきました。祖父は家の事業から離れて東京に住んでおりましたし、父も国策的な鉱山事業の責任者にされて留守にすることがおおく、養鯉に心をむけることができなくなっておりました。その上、食用にもならない鑑賞鯉を飼うための餌の入手も困難になり、毎年の池の清掃や鯉の移動にかける人手もなくなっていました。
 仕方がないと思った父は、これらの鯉を花巻の山田さんと言う人に預けることにしたのでした。
 何も遠くの町にまで預けなくともいいだろう、食用鯉の生産地である自分の町の中に預けてもいいだろう、騙されたんではないか、損をしたんではないかなどと色々な噂をたてられたらしいですが、今思えば、私は父の愛着の強さをこの一事の中に見るような気がするのです。遠くへ離してやることで、深い愛着を断ち切ろうとしたのだとも、本当に愛してくれる人に飼って貰いたかったのだとも思えるからです。
 その日は薄物の長袖の服を着ていたような気がしますから、夏の終わり頃だったと思います。一米ほどの大きな多色鯉が、男達の両腕に抱え上げられ、大きな盥に移されて裏門から運び出されてゆきました。
 抱き上げられた鯉の鱗は夕づいてきた日を受けて輝き、盥の水の揺れは赤金色に染まって見えました。
 不思議なことにこの時の情景の中に父の姿は思い出せないのです。ただ鯉たちの去った池はすっかり生気を失った澱みのように見えて切なかったことが記憶に残っています。
 山田さんとの間にどんな話し合いがあったのかは知る由もありませんが、父は後々まで「あれは俺の鯉だ」と言っておりました。
 四歳年上の姉は、父と一緒に花巻温泉に遊んだことがあって、旅館の庭の池で泳ぐ大きな鯉を「あれは俺の鯉だ」」と言ったのを聞いたそうですが、何という旅館だったのかはさだかではありません。
 その後山田さんも亡くなってしまったそうで、鯉たちは再びわが家の池に還って来ることはありませんでした。
 父の心を思い、何か複雑な事情がありそうだと察しられて、聞きただすことをしないで過ぎてしまいました。戦後十年あまり、祖父がなくなったあと、父は座敷から見える中の島のある池を、座敷に近すぎて湿りで家が傷むなどと理由をつけて埋めてしまいました。
 鯉のいない池はがらんとして暗いだけでしたから、それはそれでいいのですけれど、あたかも未練を断つ行為の様にも思われたのです。
 中の島にあった、太い桜の木と枝垂れ紅葉の老木、簪のような花をつける石楠花、岸辺にあった池の水に深い影を落としたしだれ柳、細かい花をこぼした萩などが取り残され、季節が来ると芽吹き、花をつけて乾いた風に揺れる風景に変わってしまったのでした。                                                
 父は七十二歳で亡くなりました。
 亡くなる二年前、七十歳を機に、長くつとめた町長の職を辞すると決め、助役を務めてきた人を無競争で後任の町長にすることが決まり、事務の引き継ぎを終わった夜に、脳梗塞を発症して倒れたのです。
 そのあと一応の回復をしましたが、眼が不自由になっていました。
 幼いときに網膜剥離で片目がほとんど視力がなかったのですが、見えていた方の眼の視野狭窄です。
 いつも退職したら読むのだと言っていた本を棚に並べたままになってしまったのです。 
 七十歳はまだ若くて、まだまだ楽しみがあると考えていたのでしょうが、人手を借りなければ何も出来なくなってしまったのです。
 そして二年後、胃癌が発見されました。幽門部に出来ていて、食事が通らなくなったのです。手術を受けることにはなりましたが、糖尿病もあり、体力が手術に耐えられるか、さまざまな問題がありましたし、癌はかなり侵攻していましたから、予後の状態が良いと確約されるわけでもありません。
 昔の勢いは想像できないほど、すっかり気が弱くなってしまった父でした。
「良くなって、書いて残しておかなければならないことがたくさんあるんでしょ。あの閑草も書かなきゃでめでしょ。頑張ってなおらなければ駄目でしょ。」
 と、いってやることも最早や意味のない慰めごとのようになっていました。私の言葉に
「お前が書いてくれるだろうから・・・。」
 と力無く応えて涙をこぼしたのでした。
「そりゃ書いてやってもいいけれど、何にも聞いていないんだから困るじゃないの。元気になってみんな話してくれなき駄目!」
「知っていることだけでいいからお前が書いてくれればいい。」
 と、行ったのでした。目が見えませんから、私が泣いていたことに気がつかなかったと思います。二ヶ月ほど苦しんで、最期は肺栓塞で呼吸が止まりました。
 その朝は素晴らしい晴天でした。
 私の家の鳩時計がとまって、何回も振り子を動かしたりして見ましたが、動きません。もう古くなったのだからと諦め気分で、父の入院している秋田市へ出かけました。
 もう駄目だと言われて酸素テントの中であぎとうような呼吸をするようになってから何日か経っていたのです。
 傍へ寄ってやせ衰えた手を握って
「ヨリ子だよ」
 と声を掛けたら、
「ウッ」
 と息が止まったのでした。急を聞いて駆けつけた医師、看護婦たちに兄と母と私は病室を出るように言われました。
 間もなくモニターの心電図が真っ直ぐの線になりました。最期の顔は苦しみにゆがんでいました。
 解剖を受けることになっていた父を迎えに来るのを病室で兄と母が待ち、私は姉、弟、妹たち、叔父、叔母たちに電話をかけるの仕事がまわってきました。
 冷静に泣きもしないで、亡くなった時間と最期を報せている自分が少し不思議でした。
 父は私にそんな仕事(?)が出来るだろう私を待っていて亡くなったのかもしれないと思いました。
 その後、解剖が終わるまで、空っぽになった病室で待っていますと、今朝の晴天からは思いもしない程の暗い空になっていました。
 雷が激しく鳴り響き、すさまじい雨になったのです。 
 父が棺に入って病室にもどってきて、兄と母が付き添って一緒に実家に帰りました。それを見送った後で私は家に帰りました。
 夕方になっていました。すると不思議なことに今朝は何としても動かなかった鳩時計がことこと動いているではありませんか。
 夫は父の魂がお前を呼び寄せようとして振り子にとりついたんじゃないかと、言いました。そうかも知れないと霊魂を信じない私も思いました。他の姉妹や弟には悪いですけれど、私を父は招んだのだと、確かに私を招んだのだと思ったのでした。
 今、約束通りに、父の書けなかったことを私は書いてやろうと思っています。聞くことの出来なかった数々のエピソード、聞いて置けなかったことが多すぎるのが、私を苦しめます。
 母は父の三回忌の時に、鯉を盛んに飼っていた頃に父が使っていた私箋を復刻して分けてくれました。誰か有名な画家の原画だとか申しておりましたが、三尾の錦鯉が泳いでいる図柄です。それを惜しみながら時折使うのですが、その度にあの鯉の去った日の事が思い出されます。
 昭和五十八年。新潟県の小千谷の近くまで行く機会がありました。地図を開くと古志郡山古志村はすぐ近くです。父が遠い日に眼を細めて懐かしげに言った錦鯉の故郷です。
 この機会を逃せばもう行くことはあるまいと思った私は、会合に遅れる事を覚悟の上で小千谷で列車を降りると真っ直ぐに山古志村へタクシーを走らせました。
 新潟県といえば越後平野、ひろびろとした水田地帯をイメージしますが、山古志村は深い谷に添ってのぼってゆく山間の村でした。 
 四方が山、山、山の風景です。
 向かい合った山肌に民家がはり付くようにならんでいると言う感じをうけました。米作地帯の風景とは全く違ったものでした。 
 父がここへ多色鯉の種鯉を求めて来たときに、何年ぶりかの客人だからと、お米を炊いてもてなされたと言ったものでした。
 その米は古いお米でボロボロで、秋田米を食べている父にはとても美味しいとは言えなかったが、有り難かったと話してくれたこともありました。
 貧しい村だったのでしょう。今では錦鯉をはじめとして、闘牛などをして観光開発が進み、明るい村の雰囲気がありましたが、この山また山の風景は父の見たものと変わらないだろうと思ったのでした。
 この村の鯉の生産は十七世紀頃からはじまり、十九世紀になって緋鯉、白鯉などの生産を始めたのだそうです。ドイツ鯉を入れてからその交配変種がやがて多色鯉となり、二十世紀の初めにその固定に成功し、昭和十五年に出来た金色の入った多色鯉に富士錦と言う名前をつけ、ここで初めて「錦」と言う言葉が使われたということになります。
 この系統の鯉が錦系統「錦鯉」ということになったのでしょう。
 父がこの村に来たときにはまだ錦鯉とは呼ばれていなかったことはたしかめられました。 
 父の命名が本当かどうかはわかりませんが、何だかそれに近づきそうで面白いことでした。
 「錦鯉発祥の地」という石碑があり、錦鯉総合センターには沢山の近代的な流水式の養殖池が並んでいました。
 それは昔のわが家の養殖池とは全く比べものにならない立派なものでしたが、どこか似通った懐かしさがありました。
「「錦鯉」と名付けた人がわかりますか?」
 と尋ねて見たのですが、確実な答えはいただけませんでした。
 鯉に熱中した父が、あの輸出騒ぎのあとも、種鯉を分けて貰った山古志村の一番の養鯉業者と親しい関わりを持ち続けていた筈です。 でもそれは半世紀以上も前の事なのです。
 父のアメリカ輸出の話をしてみましたが、その頃の養鯉業者などはもうこの世にいないのですし、戦争がありましたから、若い世代の人々にはわからないのが当たり前です。
 案内してくれた若い指導員が知っているはずもないのですが、もしかして父を知っている人がヒョッコリ現れるかもしれないと、叶うはずもない夢をその時は見ていたのでした。
 夢は夢でししたが、遠い昔に父が「こい」を求めて辿った山道を私も辿ることが出来たことだけで満足し、くねくねと曲がる山道を下りました。
 紅葉の秋、津和野の旅をする機会がありました。萩は観光地として有名ですが、津和野はまだそんなに宣伝されて居らず、旅の途中で通過する町で、錦鯉の泳ぐ町と紹介されていました。
 その夜は萩に泊まりますので、津和野で昼食となるのでした。山間の小さな町はとても静かでした。
 森鴎外、西周の生家をを訪ねてから、町の資料館のあると言う武家門の続く通りへ出ますと、なんと清らかな水路に、 大きな多色鯉がひしめき合うようにして泳いでいるではありませんか。
 この町で、このようにして多色の鯉を飼うようになったのはいつ頃からなのかは知りませんが、父が夢に見ていた「色鯉の町」というのはきっとこのような情景だったろうと思ったのでした。
 人が見ていましたが、私は水路の傍に膝をついて屈み、手をさしのべて水に浸しました。すると鯉が寄ってきて指をしゃぶってくれたのです。思わず「ああ」と声が出てどっと涙があふれ出したのです。
 その時私にとって鯉はこい、父恋いの象徴だったと言うことに気づいたのです。
 鯉には表情などありませんが、安心しきって、私の手に触れ、指をしゃぶるのでした。 
 その感触はあの遠い日の父の思い出につながりました。涙が水路の水にぽたぽたと落ちました。
 中の島のある庭の広い池で、平和そのものの様に豊かに泳いでいた鯉たち、晴れた日はその錦の鱗を日にきらめかせ、雨の日には青葉影の映る池の面を乱すかぎりない波紋のしたで、じっと動かずにいた鯉たち、帰って来ない昔日の華やぎです。
 あの日、ふざけて笑いながら「こいを求めて三百里」を書くと言い出した父の胸にも、おそらくこのような切ない思いがあったに違いないのです。そして父はいま、私の胸の中でときおり鱗をきらめかせる錦鯉なのです。

 山古志村があの大地震で壊滅に近くなったと聞いたとき、私の胸の中で大きな錦鯉が激しく動いたのでした。

 終わり

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