四十五年ぶりで見る永井恒の筆跡である。たったそれだけの葉書の文面なのだが洋子の遠い記憶をよびさますには十分であった。あの頃、私は永井恒の言葉を恐れていた、と思う。
永井恒は、小学校四年生の時に父の実家のある院内に疎開して来て、斉藤洋子の同期生になった。一人息子で大事にされてきたこともあり、着ているものが垢抜けていて、賢そうな目をした彼はたちまち目立つ存在となった。一方、洋子の家はこの辺りでは指折りの素封家で多くの貸家を持っていて、その内の一軒に恒達親子が入居したのだった。疎開してきたと言っても、五十歳を超えた恒の父親がこの地方の発電所の技師不足を補うために転勤を兼ねて移り住んだと言うのが事実であった。そして迎えた第二次世界大戦の敗戦の年に、恒は横手の県立中学校、洋子は湯沢の県立高等女学校の一年生であった。終戦後の学制改革で各々新制中学校そして男子高校、女子高校となり、二人は六年間を院内から奥羽本線をつかって湯沢と横手へ汽車通学生として過ごすことになったのだった。
院内と言う町は藩政時代から、院内銀山のある町として繁栄したところだった。当時はすでに銀山としては昔日の面影はなかったが、斉藤家は大きな地主として広い山林と田地を所有していた。大正時代から大地主と、小作人の関係を長く保って平和だと思われていた農村地帯も、戦争で多くの働き手を失ったうえに民主主義だとか男女同権だとかの考え方が怒濤のように流れ込み、農地解放、それに悪性インフレ、労働争議などなど、騒がしい世の中になっていた。
大地主として多くの小作人を持っていた洋子の家もご多分に漏れずで、それまでは号令をかけて集めれば勤めさせることのできた小作人達が、農地解放と言うことでそれぞれが自作農となったことで、往事のような力を失っていたのである。その上、斉藤の本家としていくつかの分家があり、その面倒もみなければならないなどと言う義務のようなものだけが残り、当主の宣之輔は心を痛めることの多い日常を過ごすようになっていた。
洋子はその斉藤家の三人姉妹の次女である。農村地帯のこの辺りでは、戦後の自由平等時代になったといっても、長く続いてきた主従関係の意識はすっかり消えたわけではなく、斉藤の家のお嬢として扱われて過ごしていた。長女の承子は家付き娘として育てられていて、おっとりとした物言いをするけれど、少し我が儘なところがある。宣之輔は子供が女ばかりで残念だと常々言っていたが、こればかりは術のないことである。承子には使用人を動かす天与の性質があるようで、その点で宣之輔は満足していた。すでに親同士の話し合いで、隣の町の地主の息子で盛岡農林専門学校をでた信次と婚約をしていた。五歳離れて生まれた次女の洋子は十六歳、丁度生意気盛りである。その上、戦後の「自由と平等」「民主主義」「男女同権」の教育に浸かっているものだから、昔気質の斉藤家の娘としては異質だったかも知れない。父の宣之輔はその生意気な元気さを面白がって、いつも「お前が男だったらよかった」と言い、閑なときには妻に顔をしかめられながら囲碁将棋の相手をさせたりした。下に十一歳の直子がいるが、こちらは泣き虫で甘えんぼうの末っ子であった。
斉藤の屋敷は座敷の方から見える坪庭ではなく広い内庭を塀で囲ってあり、作業小屋、鶏小屋、味噌や漬け物の小屋や、材木小屋などが点在していた。内庭である。裏庭に入る門の上には、四畳半の書離と言っていた茶室があり、窓を開けると庭の外にある杭で簡単に囲った広々とした花菖蒲などを植えてある堤とその傍にある四阿などが見られた。とにかく昔は優雅に暮らせたであろう斉藤の家を偲ばせる姿があった。その一部に自家用の野菜を作る畑があり、その一隅に大きな桑の木が枝葉をひろげていた。養蚕も業としていた頃の桑畑だったとか言うが、その名残の一本がそのまま大きくなっていたのである。何度も切り詰められて瘤だったまま大きくなったその木に登り、三メートル程の高さの大きく枝分かれをしているところに腰をかけて、足をぶらぶらさせながら、夕日が遠いラクダ山に沈んで行くのを見たり、読みかけの本のページを繰ったりするのが好きだった。
女学校に入ってからも、誰もみていないのを確かめて時折登ったが、ある夕方、いつものように枝に腰掛けていると、裏門から母が俯いて出てくるのが見えた。母は無口な人であまり自己主張をすることもない、いわゆる旧い型の女だったから、洋子がこんな風に木に登っているとは思いもよらないことで、驚いてしまうだろう。叱られるのはご免だから、洋子は息を殺して木の幹に身を寄せて若葉の影に身を隠した。俯いたままで歩いて来た母は何と桑の木の下まで走るようにして来てつとしゃがんで、着ていた白い割烹着の裾で顔を覆った。母は泣いていたのだった。そう気がつくと尚更声は出されない。しばらくして立ち上がり、背を伸ばして家の方に帰って行くまでを木の上から見下ろしていた。六月のゆっくりとした夕暮れのことだった。祖父母達と一緒にくらしていると言うこともあり、何かきっと辛いことがあったに違いない。それを問い糾して、母の内面の葛藤を探り出すことはしなかったけれど、これは少なくとも自分だけは母を泣かせまいと決心させるできごとだった。
そんな御転婆でも、木登りをするのはいつも人の絶対に通らない時間を見計らっていたのだった。杭を立てた敷地の際の細い道は、斉藤の家の貸家への近道に当たっていたので、そこに住んでいた中川行雄と永井恒が彼女を見つけたのである。彼等が来たことを知って息を潜めて動かないでいたつもりだったが、
「やぁ。景色はどうだい。」
と、声をかけてきた。わぁ見られてしまったと慌てたけれども
「最高だよ~。秘密の場所だったけれど知られちゃった。英単語の暗記に最高だったんだけれど・・・」
と、大きな声で応えた。
「アハハハハ。じゃごゆっくり。」
「落ちるなよ」
二人は何か用があるらしく、笑いながら軽く手を振って、斉藤の畑を横切って行った。まだ本格的な農作業の始まらない時期だから、畑に出る人も少ない。洋子は英単語の暗記だなどと言ったのは、木登りをしている女だと思われるのが一寸恥ずかしかったからである。二人の少年が斉藤の畑を横切って行くことが出来たのは、中川の父が斉藤の家の経理の手伝いを長くしていて、家族同然の間柄だったからである。恒の父親と幼なじみなので、斉藤の家に入居する世話も行雄の父だったと言う。行雄と恒は最初から意気投合していたと言えるようであった。
「これ、頼まれたから見てくれ。」
中川行雄が洋子に恒の手紙を渡したのはそれから間もない頃であった。洋子には時折、悪戯のような手紙、いわゆるラブレターの様なものをくれる男子生徒がいたのだが、気にもせずケロリとして読み流し、笑い飛ばし、返事などは考える事もなかったのである。戦後の社会情勢で、生活が昔のようでなくなっていたのだけれど、洋子の心の中では軽々しい男女交際などは受け付けない気位があったのかも知れない。そこへ永井恒からの手紙である。横手の高校進学を目的として成績のよい男子生徒が入る学校であり、行雄は彼と仲がよくても進学はしないのだから、通学距離の短い湯沢高校に通っていたのである。
「これはラブレターなんて言うもんじゃないよ。あいつは直接渡す勇気がないんだ。お前の家に対して何となく臆するところがあるんだろうなぁ。俺みたいに昔からの付き合いじゃないから・・・。で、俺が引き受けたわけだ。あいつはいい奴だから見てやってくれ。」
行雄は笑いながら言った。洋子と行雄はご存じの通りの関係で、家族同然の仲だとは誰もがよく知っていて、そんな秘密めいた話をしているとは勘ぐらなかった。
白い角封筒に几帳面な字で「斉藤洋子様へ」とある。裏を返すと永井恒とだけ書いてあり、封をしていなかった。
「俺が読んで内容を確認して、渡してもよいと思ったら渡してくれって言うんだよ。ちゃんと調べて危険性がないと思ったからわたしてやる。やっぱりあいつは真面目な奴だよ。アハハハハ。本当に純情だ。」
「今まで知らない男子生徒から何度か手紙を渡されたけど、バカバカしくって読めなかった。ラブレターなんて嫌らしい。それも永井さんまでが低級だわ。」
洋子は眉をしかめて言った。
「そんなんじゃないよ。まず読んでからにしろよ。」
「うん。あんたがそう言うんなら読んでみようか。」
それは白い便箋に几帳面な細かい字で書かれていた。確かにその手紙は思いもかけなかった内容だった。
「突然ですが、あなたは「三太郎の日記」を読みましたか。もし読んでいないのでしたら、僕が買いましたからお貸しします。夏目漱石の小説は面白いけれど、志賀直哉もいいです。女の人には樋口一葉などを読むのもいいでしょうが、中勘助の「銀の鈴」はしみじみとしていいですよ。本を読めばいろいろなことを考えさせられます。いつかそんな話が出来たらと思います。読んで印象に残った本があったら教えて下さい。あなたが興味を持った本を知りたいと思います。返事は中川君に渡して下さい。待っています。 永井恒拝」
読み終わって目をあげると、行雄が笑っていた。
「吃驚しただろう。そんな奴だよ。いい奴だ。」
「本当。面白いわ。これはラブレターって言うんじゃないわね。こんな手紙だったら安心、何回でも貰いたいと思うわ。そう伝えて頂戴な。」
洋子は手紙をたたみながら言った。
「そうだろ。そんな奴だよ、あいつは。」
行雄は大きな声でまた笑った。
何度かいわゆる文通をした。それはいつも行雄が間に立って検閲をするものだから、白い封筒で封をしないで渡すのである。ラブレターというものではなく、ただ、読後感を記したり、本の情報を交換したりするものに過ぎなかったけれど、価値観が似ている二人には、ちょっと秘密めいた楽しさを感じるものであった。行雄はいつも何も言わないで渡してくれる。洋子はきっと自分の父親が勤めている家の娘をガイドしているという気分があるのだと思って居た.傲慢な話である。
横光利一。志賀直哉。芥川竜之介。太宰治。モーパッサン。サマセットモーム。織田作之助。ドストエフスキー。夏目漱石。樋口一葉。中島敦等々・・・・。滅茶苦茶な乱読である。手紙をやり取りするための読んだ本はいま思えばかなり難しかったはずなのだが、生意気盛りの二人は解ったような気分で読んでいたと思い出される。最後に読んだのは確か吉田健一の「自由と規律」だったと思う。あのころ取り交わした感想文の手紙はどこへやったかしら。
大学受験を控えていたのだが、汽車通学の時間を二人は読書の時間にしていた。院内から湯沢までやく四十分。そこから横手まで二十分。いつも通学の列車は同じだし、毎朝顔を会わせる。駅までの線路沿いの近道は通学、通勤の顔なじみばかりである。
「お早う。」
「お早うございます。」
顔なじみの誰もがするように、三人の挨拶はいつもそれだけで、例の文通はいつも一緒にいる行雄が、本と一緒に渡し、また渡されていた。一緒に通学していた友達もまったく気づかない関わりであった。
当時、国立大学を受験するには進学適性検査と言う試験を受けて、その点数で受験する大学が決められた。例えば東京大学には四十点以上取らなければ受験資格がないと言う具合だった。この試験が行われるのは秋田県内地区では横手だった。湯沢からこれを受ける女子高生は二十人足らずだった。試験が終わって帰る時には、湯沢でみんな下りてしまい、院内まで残って乗っていた女子高生は洋子一人だった。行雄は進学しないので、この受験はしないので、列車には洋子と恒の二人だけになった。行雄が一緒のときは話ができるのに、恒と何を話していいのか解らないのが不思議だった。
列車の窓から二月の夕日が差し込んできて、恒が眩しそうに目をふせた。
「どうだった?」
「うん。まぁまぁ。」
手紙ではすっかり気心が知れているような気がしてしたのに、話をするときには、やはり行雄がいて欲しい二人だった。
「今朝は寒かったね。」
「うん。行雄も進学できればいいんだけれどな。彼はしっかりしているから、代用教員になるとか言っていた。彼には先生が似合うと思うね。」
当時は戦後の学制改革によって義務教育年限が以前よりも三年増え、教員が大変に不足していたのである。そこで「高等学校を卒業した生徒を、小学校、中学校の代用教員という資格で勤めさせ、何年間か講習や研修を受けて正規の教員資格を得ることが出来ると言う制度があったのである。
「それはそうと、この間の(自由と規律)は理屈っぽくてなかなか読み進められなかった。いつもあんなに難しいのを読んでいるの?」
「まぁね、僕は早稲田の法学部を受験するつもりなんだ。君はどうするの?どっかの文学部?」
「私立は共立女子大の文学部にしているの。やさしいから。一応お茶の水を受験してみるけど、絶対駄目だから・・。」
「僕は国立ははじめから駄目なんだけど、一応今日の適性検査を受けたんだ。得点がよかったら東大でも受けてみようかな。ハハハ。」
「とにかく上京したら住所を教えてね。私は兄と叔母達が住んでいる東京の家に行くのだから、住所は決まってるの。いま書くわね。」
東京には戦前か東京の家として、叔父や叔母達がそこから学校へ通った家がある。古いけれども戦災から免れたので今も使っているのだった・
ノートの一ページを切って住所を書いて渡すと、恒はそれを大切に畳んで定期券入れにしまった。二人が中川行雄の知らないことをもったのはこれが初めてである。入学試験が近づき、以前のような手紙のやり取りがなくなっていたのだが、住所を教えたと言うことは、中川行雄の知らないことなのでちょっと秘密めいた感じであった。
昭和二十六年、春。二人は早稲田と共立女子大に合格して東京での生活を始めた。まだ食糧事情が悪く、上京の度に米を運ぶような頃である。担ぎ屋と言う名前で、闇米を東京へ運ぶ商売が横行していたじだいで、田舎暮らしからは想像できないくらいに、人心は荒んでいた。
そんな時期であったから、大学二年の頃までは、しょっちゅう逢った。同じ故郷で同じ思い出を共有し、同じ友人達の近況を確かめ合えるということにほっとして、その暖かさに和んでいたのである。行雄の知らない二人の交際は、決して恋愛関係とは言いがたいものであったが、ちょっと秘密めいていた。少なくとも二十歳の洋子は、同じ二十歳の同級生の恒を恋愛の対象とは思っていなかった。おそらく彼女はどんな男性をみても、まだ恋愛の対象とは思えない、考えてみれば少々晩生だったようだ。話の合う友達以上のものには思えなかった。時折、映画を見にいったり、音楽会に誘い合ったり、流行の音楽喫茶でコーヒーを飲んだりして、とりとめの無い時間を過ごしていたのだった。
「ねぇ。私の小学校からの同期生で早稲田の法学部を卒業した永井恒さんていう人。四十五年ぶりで会いたいって言って来たのよ。院内の斉藤の貸家にいた人だわ。どうぞお出で下さいって言ってもいいわよね。私の住所、斉藤から聞いたのかしら。ちゃんと書いてあるわ。」
恒からの葉書をひらひらさせながら、洋子は夫の晋作に言った。
「お前の友達ならお前が決めたらいいだろう。何か特別なことをしなければならない訳もないんだろう。今、何をしている人なんだ。その人は?」
「さぁ。それは解らないけれど、戸部の幸ちゃんの話だと早稲田を出てから銀行に就職したらしいわ。でも今ではもう定年退職しているはずだわ。この人のお父さんは電力会社の技師だった。斉藤の家によく遊びに来て、お父さんの碁の友達でもあったのよ。お父さんが禿げていたから、きっと彼も禿げてると思うわよ。ハハハハ。」
たしかに恒との間に、格別なことはなかったと洋子は思っている。彼を恋愛の対象として見てはいなかったし、彼の他にも、樋口、内田、天野などという同級の男子生徒が仲間だった。彼等ともよく映画を見たり、お茶を飲んだりしていたから、格別な思いはなかった。しかし、思い起こして今考えると、その中で、恒は一番無垢で純情だったようだ。その純情さを、あの時から洋子は怖れたのだった。
あの日は日比谷公園の野外音楽堂で開かれた新進ヴァイオリニストのコンサートだった。若手のピアニストやヴァイオリニストの演奏を安い入場料で聴くことができる。夏の夜のひとときを過ごすには最高なので、若い人々には人気だった。いつものように「さよなら」と、手を振って別れようとしたときに、不意にその手を取って
「冷たい手だね。手が冷たい人は心があたたかいんだそうだよ。」
と、言ったのだった。
あの時聴いた曲はなんだったかしら。公園の薔薇がしきりに香っていたのを記憶している。
「あら、そう?冷たい手をしていても、私の心は冷たいから、もしかして暖かい手をしていたら、心が冷たすぎてつき合ってくれる人は、誰もいないかも知れない。お気の毒様でしょうね。ウフフフ。」
と、その手を離しながら笑ったのだった。
これ以上の親しさは危ないと洋子は思った。如何に新しい教育を受けて、男を男とも思わず友人としてつき合って来たのだとしても、恒は洋子を女の友達としてだけ思ってはいないと言うことに気がついたのだった。いっときの感情で動くものではない、斉藤の家の娘なのだなどと言う矜恃が心の奥にあったようだ。
その夜、卒業が近づき、卒業論文の作成でお互いに忙しいかrと言う理由をつけて、もう会えないと言う断りの手紙を書いた。恒からは何の返信もなかった。
あれから四十五年経っている。洋子は実家の母から、中川行雄が高等学校の同級生で、やはり代用教員から教員になった菅野雅子と結婚したこと、そして五十三歳で胃癌を病んで死んだことを聞いていた。そして父の碁の相手をしていた恒の父は、二十年くらい前に浜松に住んでいる息子の所に移り住んだとも聞いていた。彼は一人息子だから、恒は浜松にいると言うことを知っていた。彼は私が結婚してここに住んでいることを誰かに聞いたのだろう。それにしてもあれからの月日の中での変遷をしみじみと思わせる恒からの葉書であった。
十月二十日。日曜日。お昼はどこかで永井さんと食べることにするからと夫の晋作に言って駅にむかった。小さな武家屋敷の通りのある町は、紅葉の季節に入り、新幹線が開通したことでいよいよ賑わいを増していた。少し早い時間だってので、待合室の椅子に座っていることにした。
四十五年の空白は二人の姿をすっかり変えている筈で、果たして見分けがつくだろうか。がっかりするようなことはないだろうか、洋子はやはり、少しは若く見られたいと思った。無理だろうけれど変わらないと言って欲しいと思った。約束の列車が着いたので、改札口の前に立った.観光客と覚しき中年のグループがぞろぞろと降りて来て、改札口は混雑した。心配になった伸びをしていると、後ろの方から肩を叩かれた。
「洋子ちゃん。」
恒である。
「あら、本当によくいらしたわね、」
お変わりなくて、と続けて言うにはあまりにも面変わりしていて、洋子はその言葉を飲み込んだ。自然に手が伸びて握手をしていた。皺びた手である。
「あのとき、私の手を冷たいって言ったわね、覚えている?。いまは温かいでしょ?」
笑いながら、握りしめあったその手は、四十五年前のあの日のことを二人に思い出させていた。
「うん。ハハハハ。」
肩を並べて駅を出て町の方へ向かった。駅は町の中心部である武家屋敷の通りから、ゆっくり歩いて十五分ぐらいだろうか。秋田新幹線が通ってから、駅のまわりも少し賑やかになったけれど、町の駅前としては閑散としている。
「私がこの町へ初めて来た頃は、ここが本当に町なのかしらと思ったのよ。義兄と一緒に来たんだけれど、何事にも驚かないような人が、洋子ここは本当に町なのかなんて聞いたのよ。フフフ・・・。」
「洋子ちゃんがこんな町で過ごすとは思わなかったな。幾つで結婚したの?」
「二十四の時よ。最初は湯沢、それから秋田、本荘、そしてここ。本荘に行ってからは、主人が単身で札幌だとか仙台に赴任して貰ったのよ。主人のお父さん、お母さんが老齢だったから・・・・。それから定年退職まで、私は一人で嫁を勤めたっていうわけ。想像できないでしょ?私が嫁さん勤めなんて・・・・。」
「そうだな。卒業してすぐ結婚しちゃったんだな。」
「しちゃったんじゃなくて、させられちゃったのよ。」
「そうだろうなぁ。あんたの家は厳しい家だったから、残念だったね。」
「仕方ないわよ。それから四十年。ちゃんと嫁さんをやってきた。」
二人は声を合わせて笑った。
「お子さんは?」
「男の子二人。今はもう男の子って言う年齢じゃなくて、東京で一人は大学に残って研究者。もう一人は会社からいまドイツへ赴任中なの。だから静かな毎日。それに主人は定年退職をしたあと、ちょっと顧問みたいなことをしているんだけれど自由時間を楽しんでいて、ちょっと見られる水墨画を描いてる有様。あなたの方はどう?」
「女の子二人、妻と三人の女だから、毎日姦しいを体験している。ハハハハ・・・。」
「私の家は古くて、なんだか二百年ぐらい前の建物なんですって。だからメインテナンスも大変でね。毎年、毎年あれこれとかかって大変なのよ。主人が退職してからは、そちらは主人任せに出来て助かってるの。」
「武家屋敷町だから古い家も多いんだろうね。」
「今日は主人が家にいるから、町を一回りしてお昼を食べたら、私が嫁さんをつとめて過ごして来た家をお見せするわ。」
「そりゃ、楽しみだな。」
小さな田舎のレストランのテーブルに向き合ってすわり、ビールで乾杯する。掲げたグラス越しにしげしげと恒の顔を見る。白髪まじりの髪はうすくなって、はっきりとしていた大きな目のまわりには皺が出来ていて、年齢は覆う術がない。多分恒も同じような思いで洋子をみているのだろうと思う。ふっと笑う洋子を見て、恒も笑った。
「何からお話すればいいかわからないけれど、一言で言うには四十五年はいかにも長いわね。」
「あの頃は楽しかったよ。いい思い出をわれわれは持ったと思うよ。」
「行雄さんは気の毒だったわね。」
「葬式にも行ったけれど、やっぱりわれわれはもう若くはないんだね。彼の息子がすっかり大人びていて、あの頃のわれわれよりもしっかりしていた。」
「あの頃の私達ね。若かった・・・・。ふふふふ・・・・。」
「いろいろな事があったけれど、過ぎてしまえばみんな美しい。」
恒は自分の父や家族の事、勤務した大手銀行のことなどを、ぽつりぽつりと話してきかせたが、それ頷き、笑いあってはいても、耳に残る意味のあるものからほど遠かった.そんな話をしながら、二人は遙かな昔の時間を手繰り寄せ、つなぎ合わせていた。(あの頃の私達)と言う言葉に含まれる思いをそれぞれに噛みしめていたのである。
恒は鞄からファイルに閉じた印刷物を取り出して洋子に渡した。
「実はさ、退職してから俳句を始めたんだ。あんたは短歌を以前から詠んでいただろう。僕の俳句を見て貰いたいから今日は持ってきたんだ。まだまだはじめの初めだけれど、そのうちに整理して纏めようとおもっているんだ。洋子ちゃんに初めてのご披露だよ。」
昔と同じように、少しはにかんだような笑い顔である。
「あら、最初のご披露とは感激だわ。あとでじっくりと読ませていただくことにするわ。昔みたいにね。」
「あの頃のような感想文はいらないよ。ハハハハ。辛辣で手強いから、敬遠、敬遠!」
「私も年を重ねて優しくなったわよ。」
二人は交換した遠い日の読者感想文を思い出して、声をあげて笑った。洋子は彼のファイルを大事にバッグに収めた。
レストランを出た二人は、この町の歴史などを話しながら武家屋敷通りを散策した。春の武家屋敷通りは桜で有名だが、秋もまた、桜紅葉が美しい。桜の盛りの時には観光客が多くて落ち着かないが、秋は静かな人々がそぞろ歩きを楽しむので落ち着いた雰囲気がある。風に吹かれる度に色づいた葉が舞いながら散ってくる。小さな美術館の前に来ると、大木の公孫樹が眩しいほどに黄葉していて、道にも散り積んでいた。院内の斉藤の家の畑に行く通りの傍にもこんな公孫樹があったなどと、とりとめのない話をぽつりぽつりとしながら木漏れ日を浴びて歩く二人の影が落ち葉の上に揺れて見えた。しばらく行くと町を貫くように流れている川に沿う土手の道になる。この川土手の二キロ以上もある染井吉野の並木は花の名所として知られている。桜紅葉の時期なのだが、春の桜の時とは違ってこの道を歩く人はほとんど無くて静かである。穏やかな稜線を持った対岸の山々の秋の色もまた風情がある。
「この桜は私達と同じ年なんですってよ.皇太子殿下。いまの平成天皇の生誕を祝って植えたのですった。ごつごつして凄い老木。私がここに来たとき・四十年前くらいかしら。斉藤の母が桜の盛りの日に来たので、歩いたことがあるけれど、その時には素直に伸びた幹が美しく並木をなしていたけれど、いまは瘤だってしまっている。私達もこんな風に見えるんでしょうね、悲しいけれど・・・。」
「そうだね。仕方が無いさ。時間は黙って過ぎてゆくんだ。」
「私達はもう咲く事はないけれど、季節が来るとこの桜たちは噴き出す様の咲く。(桜の樹の下には
「それに川があるのがいいね。川の方に枝が伸びるように枝垂れて木が育っているから、艶めかしさがある。水と桜の花はにあうだろうね。」
「冬には白鳥も飛来するのよ。町の上をカオカオと啼いて飛ぶ。そして早春になると北に帰る。そのあと二週間位して町は桜で賑わう・・・・。」
「桜の盛りを見ないで、シベリア方面に飛び去る白鳥か。桜よりもいいものが北にはあるって言うことかな。」
「知らないけれど桜を見てから北に帰ったらいいなと思うのよ。私は」、
「ところで、あの桑の木はどうなったかな。あんたの秘密の展望台は。」
「あの辺りは町中の畑だったから、いまではすっかり様変わりして、家がいっぱい建ってしまったようよ。」
「そうだろうなぁ。あの木はあのこらでもかなりの老大木だったから無くなってしまっただろうな。」
「あっても、いまはもう登れない。でもあそこから見る夕暮れの景色。ラクダ山の陰に沈んでゆく夕日。いまでも思いだすのよ。あの頃の私は生意気だったでしょ?」
「そうだな。はじめて木の上にいたあんたを見たときはびっくりしたけれど、面白かった。女の木登りなんか珍しかったと言うより、無かったと思うよ。今では男の子も登らなくなったらしいね。行雄とあえばいつもあの時のことを話したよ。」
「へー。知らなかったわ。陰でいつも笑っていたって言うことでしょ。」
「うん、まぁそんなところかな、ハハハハ。」
誰が置いたのだろうか。川に向かって落ち葉の積もっている木のベンチがあった。乾いた落ち葉をはらって二人は腰掛けた。町から土手の道を歩きつづけたので、一休みをするのに丁度よかった。川からかすかに吹き上げてくる風があるらしく、桜は時折葉をゆらし、散りかかって来て洋子の膝にとまった。
しばらく黙っていた恒が呟くように言い出した。
「こんな静かな田舎町で暮らすなんて、洋子ちゃんには似合わないと思っていたんだけど、あの旧式な家族制度の残っているような斉藤さんの大家族の中で育ったんだから、これでよかったんだね。まわりの人を傷つけるのを怖れて、避けてここでも上手く暮らしてきたんだと解ったよ。でも、あんたのまわりへの気遣いや我慢は臆病とも言えるんじゃないだろうか。ここまで来てはどうにも仕様のないことだけれど、あんた自身を一番傷つけたんじゃないかと思うよ。僕の知っているのびのびと生きられるであろう楽しい洋子ちゃんをね。」
洋子はその話にすぐには応えずに川の方に太い枝のばした桜の老木のごつごつした幹に寄って立った。
「あの対岸の穏やかな形の山は小倉山と言うの。京都からこの町の殿様に嫁いで来たお姫様が、京都を懐かしんでつけた山の名前だとか聞いているわ。町の枝垂れ桜もそのお姫様が京都から花嫁道具と一緒に運んできたものが、元になっているのだとか言う話。こんな田舎に嫁ぐことになった京都のお姫様だっているんですもの・・・・。そして今それ観光客を引きつけている.それを縁と言うんでしょうね。斎藤茂吉の歌に「門ごとに枝垂りさくらを咲かしめて京しのびしとふ女ものがたり」と言うのがあるのよ。」
恒の話を気にしない素振りでそんなことを説明して、一息ついてから恒の方に振り向いて応えた。
「私の在り方って可笑しいでしょうね。でも私はそれでよかったのよ。こんな田舎でとにかく無事に四十年を過ごして来たたんだもの。私はやはり旧い人間だったのよ。」
少し笑いながら言う洋子に、恒は微笑しながら頷いた。
「今だから言うけれど、行雄の奴も洋子ちゃんを大事な人だと思って居たんだよ。彼もあんたと同じように、好きになってもどうにもならないと言う身分差のようなものを身につけていた。そんな風に初めから決めつけていたから、自分を規制して、傷つかないように離れて防衛していたんだと思うよ。その点、僕は他所から来たので事情知らず.純情で無防備だった。僕とあんたの文通の仲立ちをしたのも、あんたを守るような気分だったかも知れない。彼は死んでしまったから本心を聞く事は出来ないけれどね。僕が東京であんたと時折会っていると言うことを知ってからは、洋子ちゃんをアッケラカンとした調子で話題にしなくなっていたんだ。むしろ避けていた。逢わなくなったと知ったときも、「そうか」と言っただけでさ。同情もせず、一肌脱ごうかとも言ってくれなかったよ。きっとほっとしたんだろうな。あんたは自制することに馴れていて、何とも思わなかったんだろうけれど、当時の僕には深手だった。おかしいね。こんな事をしゃべったりして、ご免ね。いまはそれも茫々として、本当に懐かしい思い出になっている・・・・。」
淡々とひとり言の様な昔の幼い恋の物語だった。黙って聞いていたが、口を開くとこわれてしまいそうな大事な大事なお話であった。恒の振り返って言う通り、洋子は心を開くことなく過ごしてきたように思われる。事なかれ主義とは言っても、それは自分をないがしろにしていることの裏返しなのかも知れないと思わされる恒の告白だった。川の方からそーっと風が吹き渡って来て土手の草をそよがせている。
「川がいいでしょう。私この川が大好きなの。大きくもないし、ゆっくりと流れていて、水音があまり聞こえない.時折白鷺が来てじーっと餌の魚をねらってたっているのを見ることもあるの。それにも音がない。下流に行くと、もう一つの川と合流するのよ。落ち合いって言っているところ。そこはとても静かな澱みになっていて、白鳥がまもなく渡ってくるのよ。今年の春も北に帰る白鳥を何度も見送って立ったわ。」
話題を変えた洋子に、恒は振り返って笑った
「水音が聞こえないけれど流れている川。いいね。いいところなんだね。落ち着いた自然の中にいる。住んでいるところが一番いいところだと思える迄、私たちも老人になったらしい。」
「空を映す水の色を見て、静かで穏やかな水の音に耳を傾けて、こんなお話が出来るなんて言うのは、確かに老人になっていることなんでしょうね。」
ゆっくり歩いて、洋子の家につくと、晋作は待っていたらしく、座敷に茶道具をそろえていた。変わったことのない日常なのでお客が嬉しいのだろう。恒がお土産だと言って出したお菓子をお持たせにして、庭を見ながらお茶にした。庭の満天星が紅葉をはじめていて、座敷は明るく、男二人は定年退職後の生活が、良いようでもあるし。悪いようでもあると笑いながら話を始め、この頃の日本のことなど話し合って楽しそうであった。
帰りの列車にあわせてタクシーを呼んで門まで見送った。今度は桜の季節にでも来て下さいと繰り返し言う晋作に恒は丁寧に礼を言った。
恒の残して言ったファイルの俳句を洋子は夜になったから取り出して読んだ。
「ふるさとののすすきは風を遊ばせる」
こんな風な出会いをして、昔を静かに懐かしむことが出来るまで、二人に時間が過ぎていたのである。
「杳き日の幼き恋を言ふ人と公孫樹黄葉の木漏れ日を踏む」
と、洋子は日記に記し、短かったけれど爽やかな一日が過ごせたと思った。
十日ほどして手紙が届いた。
「その節はいろいろお世話をおかけして恐縮しております。お礼申しあげるのがこんなに遅れてしまい申し訳ありません。お許しを・・・・。
お逢いして、四十余年前に泊まった時計が、再び時を刻みだした思いが致しました。あなたとお話をしていると、四十余年の時空を超えて、昨日の続きを話しているような気がしました。
私の中にあるあなたの面影と、あなたに対する思いが少しも変っていないことを、私自身に確かめる事が出来ました。また機会があればお目にかかりたいと思います。そして、とりとめのない話を、昨日の続きのように、しあえたらいいなと
思っています。
またの日を・・・・・。
あの風景に咲いたさくらは壮観だろうと想像しています。
枯れ並みて公孫樹落ち葉の影を踏む
ご主人によろしくお礼申しあげて下さい。 永井 恒
相変わらず几帳面な恒の字である。
「枯れ並みて」と言う表現にかさねて自分たちを思うのは、少々直截的かなと思って苦笑した。何度も読み返して大切に手箱の底にしまった。この手紙は夫には見せないと決めた。
「永井さんからあなたによろしくお礼を申しあげて下さいって言って寄越しましたよ。」
その夜、夕刊を読みながら熱燗にしたお酒を楽しんでいた晋作につげると、
「うん。そうか。」
と、気のない返事で、話はそれきりで途切れた。夫婦なんてそんなものかも知れない。二人の間には四十年の揺るがない確かな暮らしがあるのだ。あの手紙は私に若い日があったことを思い出させてくれるエピソードの一つとして手箱の底にまた古びてゆくのだろう。
しげく鳴いていた虫の声もすっかりきこえなくなっている。雪国の暮らしは、もう近づいた冬に身構えを始めていた。
「月末には庭木の冬囲いをたのまなければならないわね。」
「うん、そうだな。」
それも気のない返事である。
「私も少しいただくわ。いいでしょ。」
立ち上がって杯を取り出してきて差し出すと、晋作は新聞を置いて酒を注いでくれた。杯を夫に向けて
「乾杯。」
と、言うと晋作も杯を掲げて笑った。
夕方から冷え込んで来たようである。明日の朝は霜がきびしいことだろう。
おわり