一番最初の記憶は何だったろうと思うことがある。尋ねられると「うまれてすぐ産湯を使って貰ったときに眩しいと思ったことです。」と私はいつも真面目な顔をして応える。大凡の人は「また、変な冗談を・・・」と言って笑う。中には「ホント!凄いな」と言って不思議そうに私の顔を見る。どちらかと言うと「ホント!」と聞いてくれる人の方が好きである。私自身、信じてはいないのだけれど、、何となくそんな気がするから不思議である。
はっきりした記憶だと思って居ても、やはり曖昧なのは三歳くらいのときの記憶だろう。何の脈絡もない。「そんなことがあった。」と力説してみても、私以外の誰の印象にも残っていないような他愛のない断片にすぎないから、確認も出来ない。そんな記憶が幾つかある。
夕飯を食べた後、シャツ一枚に猿股姿の父が、荷台に私を乗せた自転車を押して蛍を捕りに行くのである。浴衣を着た叔母と一緒に、すっかり暗くなった田舎の道を歩いて行く先は、近くに川原であった。当時(昭和十年くらいだった)の田舎ではそんなところに電灯はついていないし、人通りは全くない。乗っている自転車の電池式の四角な電灯は、光りの届く範囲はほんの少しだけである。周辺一帯の田圃では蛙ががしきりに鳴き立てていた。兄も姉もいたのだけれど、連れて行かれたのは何故か私だけだった。当時の田舎では夜になると出歩く人はいない。川の土手に造られた道はまだ新しく、裏門から出て、裏道を通って行くので、町の通りからは離れている。どうせ川に入るのだからと、出かけるときから父はズボンを脱いでいたわけで、猿股姿で、まったく変な格好なのだが平然としていた。六月の終わりに近い蒸し暑い暗い夜のことである。
さらさらと道ベの小川を流れる水音がする赤塚の土手に着くと、柳の茂り合う川原がひろがる。そこが父のお目当ての蛍の棲みかであった。
道の真ん中に自転車を止めた。蛍の光り出す時間は何時頃なのだろうか、兎に角そこについてときは丁度一斉に光り出す時間に当たっていたのだと思われる。川原一帯が、まるで星の瞬くような光りを点し、時折流れるように飛び、ゆらゆらと揺らぐ。六月の闇は深く、その中での蛍の乱舞は美しいとか綺麗とか言う言葉では表現できない。それは幼い私が無限の思いに誘われた初めての体験であった。
父は叔母と私を道に残して、大きな白い捕虫網をかざして川原に下りていった。自転車の電灯の小さな灯りの届く範囲は多寡が知れている。立ち尽くしてじっと目を凝らして見ても、
川原の闇に入っていった父の姿はもう見えないのである。私は叔母に自転車の傍に立たせられ 「ここでじっとしていなさいね」
と言い聞かせられた。
「うん」
言葉も出ないで、こっくりうなずくだけの私に
「曲げわっぱ」に蚊帳を貼った虫籠を持たせて
道の方へ時折飛んでくる蛍を団扇で打ち落としては捕らえるのだった。その白い浴衣と団扇のひらひらと動く姿が闇の中に浮き立って見えた。
父があの蛍の乱舞している川原の闇の中に吸い込まれていなくなってしまうのではないか。時折、ばさっ、ばさっと何ともつかない音がしたり、水のはねるような音がする。
「おとうさーん」
大きな声で叫ぶと、闇の中から
「おー。」
と応えが返ってくる。少しの間安心する。しかし、その応えは一瞬であり、あとは川の流れる音がするだけである。叔母は立ちすくんだまま動かない私をそのままにして、自転車の明かりの届く範囲から離れてゆく。
「れいこおばさーん」
「はーい」
その応えも一瞬であり、近づいて来て捕まえてきた蛍を籠に入れると、また闇の中に消えてゆく。身をかたくして自転車につかまっている私のことなど気にもとめないのであった、
「おとうさーん。」「おー。」「れいこおばさーん。」「はーい。」を何度も繰り返す私だった。
随分長い間そこに竦んでいたような気がする。ガサガサと音を立てて父が川の方からあがってきた。捕虫網がぼーっと白く浮き立って見える程に蛍が入っていた。
「もう、いいだろう、帰ろうか。れい子」 「そうだね。もうたくさんだ。」
二人とも、涙ぐんでいる私に声をかけてくれなかった。自転車の荷台にまた乗せられて帰る田舎道はがたがたと石ころだらけ。真っ暗だった。
アスパラガスの細かな緑の葉っぱに水を打って(ホントの田舎なのに私の家では当時すでにアスパラガスがあった)特別製の、ほとんど蠅帳の様に大きな四角い蛍籠に入れて、母は私達を待っていた。それを縁側に置いて、父の捕虫網の蛍を放つ。何十ともしれない蛍が、かわるがわるに光りを放つ。電灯を消して、皆がまわりに座ってそれを眺めていた。
小学校に入った頃。私は少し弱くてよく熱を出した。夏、蚊帳の中で熱にうかされていると、額に当てた氷嚢はすぐにずり落ち、水枕はガバガバと音をたてた。リンゲル注射(今では行われない高所に吊した大きな瓶のリンゲル液を太ももに注射するいわゆる補液注射)のあとの太ももを、温かいタオルでもみほぐしてくれながら、誰かが心配してのぞき込むと、その顔が大きな目だけになって襲いかかる。声が出ない。眩しく輝く光の玉が目の前に幾つも現れて、それがどんどん大きくなり、胸を圧迫し、押しつぶされそうになる。一瞬それが激しくはじけて飛び散る。ハァーっと呼吸を大きく吸い込もうとするが無数の光りの玉がまた襲いかかってくる。二日ばかりのことだったと思うが、高熱に魘されていた記憶は恐怖であった。
少し熱が下がって皆がホッとし、私もこの恐怖に魘されなくなった。そんな夜、父が数匹の蛍を蚊帳の中に放してくれた。姉とでも採りに行ってきたのであろうか。私が喜ぶと、父は額に手を当てて嬉しそうに笑った。蛍は光を曳いて飛び、蚊帳の天井にとまって光った。暗い夜の部屋の蚊帳の中は別世界になった。
大東亜戦争・第二次世界大戦が始まると、蛍狩りなどと言うこともせず、出来ず、何故かせかせかと落ち着きのない毎日。勤労奉仕などをして、夜は疲れ果てて寝る女学生になったのだった。川原では相変わらず蛍が飛び交っていたのだろが、それを見ても愛でると言う感情が湧いたかどうか、今ではわからない。
戦後の混乱期に私ども六人の兄妹を残して母が亡くなったこと。その上、父は政治に担ぎ出されて、昔のような格好をして、蛍を捕りに出かけることなどは出来なくなってしまった。
私はと言えば、あの悪性インフレの時代に新制高等学校を卒業し、上京。学生生活を含めて結婚するまで復興途上にあった東京で、自然の季節感が感じられない八年間を過ごし、結婚してからは出産、育児と忙しく、蛍の季節をすっかり忘れて過ごしたのであった。
結婚して五年目に夫は故郷の町に帰って、内科医院を開業。地理的に見ても歴史的に見ても閉鎖的な町だが、この頃では観光客がその歴史的景観や、自然の美しさに惹かれて来るようになったけれど、なかなか溶け込むのが難しい土地柄だった。その上、舅、姑と夫の弟妹同居の暮らしは簡単ではなかった。仕方のないことである。
そんなある日、夫が私達を連れて近所の小川のほとりに蛍を見に行こうと言い出した。六歳と三歳の男の子を連れて出る事は滅多にないことなので、喜ぶ子供達に浴衣を着せ、馴れない下駄を履かせ、手を引いて出かけることになった。今でも田舎町なのだが、当時はまだ本当に田舎で、蛍がいるところは歩いても、ものの十分もしない所で、女子高校の裏になっていた。勿論街灯もついていない天神山の下。その道を入れば一面の田圃がひろがっていて、傍らで小川の音が聞こえる所で、低い土手が続いていた。
蛍はちょうど光りはじめた時間だった。
「ほ、ほ、ほたるこい。あっちの水は苦いぞ
こっちの水は甘いぞ」
夫と私が小さな声で歌って聞かせると、蛍の飛び交うのを見て、目を見張っていた子供達も真似をして
「ほ、ほ。ほたるこい」
と、手を叩いて歌った。
水金色の蛍の光がスーッと流れて、小川の岸にとまったり、思いもかけないところから不意に飛び立ったりする。ゆらゆらと不規則な軌道を描いて飛ぶ。あの幼かった日に父と行った蛍狩りの情景を思い出させた。
今は傍に夫と二人の子供がいる。蛍の飛び交うのを見ながら何を話したかは思い出せないけれども、現実の生活の辛さからしばらく心は離れていた。上の子供は馴れない下駄につかれ、下の子は私の背中でグッタリと眠くなっていた。
近くの草にとまって光っていた蛍を三匹ばかりハンカチに包んで家に帰った。電灯の下で開けば蛍はただの黒い虫にすぎなかった。子供達と庭に出てはなしてやると、弱々しい光りをスーッと曳いて庭木の暗がりに吸い込まれて行った。
開発・開発の時代にはいり、人手不足に始まり、農業は機械化が進み、田圃は整備・整備を叫ばれて、舗装ざれた農道が縦横に走って、技術革新と共に大量の農薬が使われるようになった。田圃も埋め立てられ、乾いたコンクリートの建物が建っている。小川はコンクリートブロックで整備され、蛍の棲息はまったく困難になってしまい、青葉の闇が濃くなる季節には飛び巡った筈の蛍は、農道をせわしなく走る車の中の私達が目を凝らしても影も形も見えないから無駄だと知るばかりであった。
そんな何年かを過ごして、昭和五十五年に田沢湖畔で集会があって一泊した時、岸の草叢に何匹かいた蛍をみつけて捕まえた。本当に久し振りに見た蛍である。私の心の中には、あの幼いときの蛍狩りが甦っていた。掌の上でいっこうにとびたつ気配がなくじっとしている。掌を振って暗く鎮まっている湖へむかってはなしてやると、弱い尾をひいて飛んだ蛍は見えなくなった。たった数匹だったけれど、蛍を見たと言うことで感激した夜だった。
「湖の藍澄む闇に飛ぶ蛍
寄り来てわれの胸奥に住め」
と私は詠った。
この頃では、自然保護、環境保護が叫ばれるようになり、蛍も少しずつ見られるようになったと聞く。それでもまだ、宝物のようだ。去年は蛍を何匹か届けて貰って嬉しかったと友達が言っていた。今年は私も蛍を見に来るようにと誘われている。しかし、どんなことをしても、あの父と行った蛍狩りの様な感動を体験することはないだろう。思い出だけでも持っている私は幸福なのだと思う。
子供達は、私達と見に行った蛍のことを覚えているだろうか。チラとでも記憶の底にとどまっていてくれれば嬉しいのだが・・・・。
終わり
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