「おめざ」
「秋になったらショコラティエのチョコレートをプレゼントするわね」と言っていた友達が贈ってくれたチョコレートの一つに「ディアモン」がありました。それを手に載せたとき、幼かったあの頃の「おめざ」を思い出したのでした。「おめざ」と言っても今ではご存知の方は少ないことでしょう。そして「今どき、そんな時代遅れは歯医者さんに叱られるばかりだわよ。」と、若いお母さん達は言うことでしょう。
昭和一桁生まれの私は、「おめざ」が楽しみでした。起き抜けでまだ眠くてグズグズしている私の機嫌なおしに、一寸したお菓子・キャンデーや、ボンボン、チョコレートなどを、朝に着る洋服の上に載せて、枕元に置いてくれるものが「おめざ」なのでした。
私の家は東京の大森区(今は大田区)山王にありました。大森の駅の前に「不二屋」があり、お祖父さんの肩車に乗って(女の子なのに)山王の家から坂を下ってチョコレートを買いにゆくのでした。当時はまだ海が見え、夕方になると、珍しかった「シロキヤ」のネオンサインが点滅していました。シロキヤでは行く度に小さな人形さんを買って貰って、ひとり遊びをしました。
私の妹が生まれる為に、お祖父さんとお祖母さんと叔母さん達のいる東京の家にあずけられたのです。兄や姉は、父母と一緒に田舎の家で小学生でしたので、私は東京の年寄りの中でひとり遊びと言うことになっていたのです。ですから、とても可愛がられて、あちこち連れて歩かれました。あの時の人形さん達はどうなったのかわかりません。
話を元に戻します。「不二屋」で何という名前かは知りませんが、キャラメルくらいの大きさのとがったチョコレートが並んでついているのをお祖父さんは買うのでした。おめざにはそれを二つ、わざわざ銀紙にくるんで置いてくれるのです。他のものよりも銀紙を剥きながら食べたこのチョコレートが一番印象に残っているのです。
さ、寝ましょ。朝のおめざは何かしらね。などと言ってお祖母さんが一緒に寝て昔話をしてくれます。五歳の私はいい子でした。そして見事なミソッパ(今は見ることのないミソッパ。柔らかい子供の歯が茶色っぽく溶けてきたような虫歯で、味噌をまぶしたように見えるから味噌歯)になりました。
小学校へ入るころになって、お祖母さんの添い寝も、おめざもなくなり、妹の生まれて落ち着いた田舎の家に帰ったのでした。小学校の四年生くらいの時から、日本は大変な戦争の時代に入り、それからの何年かは、チョコレートどころか、ろくに食料も手に入らない戦争の時代になりました。そして、可愛い小さなお菓子たちとはすっかり縁が遠くなってしまいました。
戦後、若い人は知らない占領されていた時代。大学に入って東京にまたやってきた私でした。
お米の統制、配給、食糧難はまだまだ続き、東京へはこっそりとお米を持って列車・それも急行とは名ばかりで、夕方に乗車して朝の八時頃までかかります。思い出すのも嫌ですが「ギブミー・チョコレート」なとと言って、進駐軍の後をついて歩く子供達のいた時代は終わって。落ち着き始めていましたが、闇米を運ぶいわゆる闇屋がまだ沢山米を運んでいて、警察でしょうか解りませんが、車内で摘発があったりして、何となく恐ろしい思いもしました。
その頃からチューインガムや、チョコレートが出まわる様になりました。日本製もありましたが、その頃のメインははハーシーズだったと思い出されます。その「キスチョコ」は、丁度私のおめざのチョコレートの感じでしたし、名前も楽しくて嬉しかったです。「不二屋」であのチョコレートを売っていたかどうか解りません。
甘いものがお店に並ぶ様になった頃、日本のお菓子メーカーも競ってお洒落なチョコレートを作って売り出すようになりました。あれから七十年。
今では工夫を凝らしたトリュフや生チョコの時代になりました。そしていつの頃からか、ヴァレンタインデイにチョコレートをやり取りするなどということになりました。その年齢は疾うに過ぎ果てた私です。小学校や中学校の孫達が誰にプレゼントするのか、その日が近づくと、キッチンでお母さんに邪魔にされながら大騒ぎして変なチョコレートを飾っています。失敗したのを試しに味見させられますが、所詮素人は無理。
そして、好運なのか、不運なのか。私の誕生日はヴァレンタインディの次の日なのです。孫たちからのお祝いは手作りのチョコレートになります。忘れられないのがいいですね。 おわり