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今は昔・羽田空港

 私の小さい頃は、羽田は「飛行場」でした。それもまだ建設途上で、平らにならされた広っぱに過ぎませんでした。

 NHKの朝ドラ十七回目の「雲のじゅうたん」で浅茅陽子が扮するヒロインの真琴が乗ってみせていた、昭和初期の軽飛行機が、練習飛行をしていたようです。幼い目にはただの広っぱで、そこに叔母と一緒に「飛行機を見に行こう」と、お弁当を持ってピクニックに出かける。そんなところだったと思いだされます。草の上にすわってお弁当をひろげていると、頭の上を飛びすぎる飛行機の操縦士が、ハタハタと帽子の後ろの方に白いもの(あれは何だったのでしょうか)をなびかせてゆきます。「あ。飛行機!」と声を挙げて、私達がハンカチを振りますと、操縦士がまた白い手袋をはめた手を振ってくれました。長閑だったですね。春の日ざしを浴びて、草むらに寝転んだり、かけまわったりした思い出は、まるで夢をみているようなもので、現実にあったことだったのかどうかさえはっきりしません。
 私の家は大森区山王にありました。 (今は蒲田区と一緒になって大田区です。)大森の駅は入り口が一つだけ、駅を出たところに不二屋があり、線路の下をくぐって、当時は大きいと思っていたシロキヤがありました。お祖父さんの肩車に乗って暗闇坂を下っていくと、夕方になると珍しいネオンサインが点りました。「シ」「ロ」「キ」「ヤ」と順序にでて、次に「シロキヤ」となります。字を覚えはじめたころの私は、それを読んで見せます。はじめはいいのですが、読んでも読んでもとまらないので、癇癪を起こしたことを覚えています。今だったらあんなネオンサインは問題にならない、田舎でもあんなつまらないのはないと思われるくらい単純なものでしたけれど、お祖父さんに「そうだ。そうだ。」
 とほめられてやめられなかった幼さが、今では可笑しく思い出されるのです。大東亜戦争が始まると(こんな言い方をする人は少ないでしょう、若い人々は何のことかと思うでしょうね。)私は田舎に引っ込んでしまい、高校卒業までゆっくりとした田舎暮らしをしたのです。のんびりと言っても、些細なものを入れた慰問袋を作ったり、千人針を作ったり、田植え、稲刈りを手伝ったり、代用食にするドングリをとったり、縄を綯ったり、松根油をとる松の根を掘ったり、開墾をしたりして過ごしたのです。疎開して来られた人々は、田舎の暮らしに馴れないので大変だったと思います。私は地元の人間でしたから、アメリカの飛行機が編隊をなして飛ぶのを見上げていただけでした。
 終戦後の東京へ帰ってきたのは大学生活の為です。その間、羽田の飛行場がどのような変遷をたどったかは解りません。大学に入った頃の日本は占領されていたのですし、羽田なんかはどうなったか解りませんでした。飛行機に乗るなんて言うことは頭の中にありませんでしたし・・・・。でも大森の近辺は頭上を飛ぶ飛行機で大変な騒音でした。朝鮮戦争があった当時ですから。でも騒音公害なんていう言葉はありませんでした。
 昭和二十六年の四月十六日早朝、帰国するマッカーサーが京浜国道を通って羽田空港へ行くと言うので、走って行って、その車を見た事が記憶に残っています。ちょっと物好きだったのでしょうか。その頃は飛行場なんか全く別世界でした。
大学でなんと理系だった私は、友達と一緒に工業化学のレポートを書くことになりました。工場の立地条件、原料に搬入に便利か、製品の搬出に便利か、大消費地を控えているのも、最高の条件です。

 周辺の土地の買い付けについて問題は無いか。などを考えて、私と組んだ英子さんと二人は.一番いいのは東京湾を埋め立てるのことだと結論しました。、呆れられながら。まだ全く手がつけられていなかった東京湾の埋め立て計画を、担当教授の前で堂々と開陳したのでした。最高だわ~と、おそれ知らずの二人は、紙の上に大化学工場を設立したのでした。

 港湾の設備までついて夢の工場でした。予算なんかは考えなくても良いのですから勝手です。空気汚染なんかは問題にならなかった時代です。恐れを知らない私達は、その構想を教授に滔々と説明したのでした。呆れたことだったでしょうね。その当時はやっと夢の島が出来た(まだ平和島なんて名前はありませんでした)ばかりの頃ですが、工場を造るなんて言うことでなく立派な港湾計画がされて居た時代でしょうから、笑止千万な話だったでしょうね。夢の島はゴミを埋め立てて造ったばかりで、平和島として整備される前は不潔きわまりなかったと言う印象があります。

 でもまだその近くで泳いでいる子供達がいました。その計画論文が教授達にどんな評価を受けたかは解りません。兎に角単位は取れたのですから、いいとしましょう。
 また何年かの空白がありました。大学を卒業してから、十年、私も彼女も結婚して、何と家庭の主婦になってしまっていました。勉強したことは時間の無駄遣いに過ぎなかったみたいと言われそうです。お許し下さい。
 羽田飛行場が空港と呼ばれるようになり、私達にも親しく使えるようになって、モノレールが浜松町から羽田まで通じました。でもまだその頃は、私達の夢の大化学工場が造られる位の埋め立てはされていなくて、モノレールは海の上を通っていくのでした。東北線には特急しかなかった頃は、私の住む秋田まで飛行機を使うこともたまたまあったのでした。秋田はターミナルなどと言うものも整備されていな飛行場でした。
 私の最初の外国旅行はヨーロッパ四カ国。次いでアメリカのボストンへ行ったときは、羽田からでした。アンカレッジで途中給油をしたりしてからの飛行でした。アンカレッジの空港の免税店で、素適な皮のコインパースと手袋を自分の為に、夫の為には鞄を買ったのを思い出します。もう使わなくなって棄ててしまいましたが。国際空港として成田が出来てからは成田利用が続きましたので、羽田とはしばらくご無沙汰と言うことになっていました。
 成田は諸外国の国際空港からすれば大きいとは言えませんが、それでも羽田と比べたらターミナルも多いですし、結構な空港だと思っていました。東京からはちょっと不便でしたが、仕方が無いと思っていました。
 沖縄へ行くときは国内旅行ですので、一度羽田を利用しました。成田に比べれば矢張り小規模と言う感じでしたが、何年か前からするとターミナルが増えていてすっかり新しくなっていました。モノレールも海なんか見えない、ビルの間を通っていましたし、「あれ。ここはどこかしら?」ですからね。ターミナルへ行くのに迷うくらいでした。田舎者ですね。
 それでも驚くのはまだ早かったですね。成田と同じように、羽田も国際空港として認められる様になったので、空港の標記名も「NARITA」「TOKYO」になったとか聞きました。その上、メール友さんたちは、羽田空港に遊びにゆく、買い物にゆく、観にゆくとか言う報告をしてくれます。空港が楽しいと言うのはいいですね。
 そうですね。私の羽田飛行場は八十年近くも前の話。四捨五入すれは一世紀前の話ですもの。何としてあの重い大きな飛行機が空を飛べるのかと不思議に思った時代に生きてきて、今では科学的説明である程度飛ぶと言うことを理解しているつもりの私です。大化学工場建設の大きな構想は空気汚染を呼び起こしていたかも知れません。よかったです。
 それでも、羽田と言うとあの広っぱと小さな飛行場から手を振ってくれた操縦士が目に浮かぶのですから、不思議な話です。
おわり

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