映画館で無声映画の活弁は体験したことはありませんでした。まだ小学校の頃でしょうから、映画なんか見せて貰えませんでしたもの。でも田舎のお祭りの余興として野外映画で観たことがあったど思い出しますが、何が何だか訳が解りませんでした。
戦後になると、お祭りの時には映画ではなく、素人演芸会というのが盛んに行われていました。言うなれば「のど自慢」の芝居判のようなもので、戦後の田舎では劇場も満足なものがなかったですから、本物のお芝居はなかなかよべなかったのでしょう。拍手とおひねりが飛んでいました。よく見た顔が、厚塗りのお化粧をして、ヘンテコな髷をつけ、股旅の縞の合羽に三度笠でシナをつけて踊って唄うのです。
夜が冷たい 心が寒い
渡り鳥かよ 俺等の旅は
風のまにまに 吹きさらし
何故かこの歌が印象に残っています。素人でも好きな人々が多くて、結構、人を集めていました。わが家は父も母もみんな気むずかしくて、そんな素人の余興などを見にゆくのを喜んではいませんでしたが、友達が誘いにくるものですから、連れ立って見にいくことが出来たのでした。
時代が移って、戦後の食糧不足の時代には、文学座の演劇や 歌舞伎、音楽家など、当時名の知れた芸術家たちや俳優たちが、田舎の町に来ていわゆる興行のようなこともしましたし、わたしの通った高校の講堂に迎えたこともありました。まだ知識のない幼稚な私は、残念なことにすべてうろ覚えです。
その中になんと杉村春子、北村和夫、丹阿弥谷津子、舞踊家・石井漠など、もっともっと沢山の名優が来られたと思いますが、無知で、幼稚な私は気にもとめないでいました。 ソプラノの大谷冽子が歌ったカルメンのハバネラや、バリトンの田谷力三が歌ったディアボロなどが、講堂に響いたのが思い出されます。(間違えているかも知れません)今になって覚えて居ないことが残念にしく思われます。
歌舞伎も来ました。あんな田舎へ来たのですから驚きです。「義経千本桜」を小さな小さな劇場で、祖母と一緒に観ました。まだ中学生でしたので、役者の名前も記憶していませんが狐忠信の演技が面白いということだけを覚えています。どのような設えをしたのかさえ記憶していませんが「勧進帳」も観賞?しました。それで「かやうに、候ふ者は、加賀の国の住人、富樫の左衛門にて候」を真似して「羽後国の住人・半澤のユメ女にて候」なんてふざけたものでした。歌舞伎ファンの方には申し訳ございません。
そして学芸会の思い出です。当時は娯楽がありませんでしたし、学芸会の日にはバザーもひらかれて、蕎麦や、うどんに、お汁粉やカレーライスなどの手作り食堂もありましたので、父兄の方々が沢山来て賑わいましたが今では衛生管理とか何とかで、保健所の許可が要るのでしょうか。
私達、科学好きのクラブではそれに「納豆」をつくって売りました。何しろ原始的な納豆作りです。家から許可を貰い、宿直室に徹夜をしてのことでした。藁苞に柔らかく煮た大豆を入れて布団に包んで、炬燵で保温でした。
保温がムラだったのでしょうね。八十五%くらいはまぁまぁのできでしたし、値段はいくらを付けたか忘れましたが、安かったでしょうから飛ぶように売れました。うまく出来なかった十五%は、ちゃんと納豆の匂いはしましたが、粘りがないのです。仕方がないので苦肉の一策を講じました。
「納豆汁にするには、粘らないからつくりやすいですよ~。二本で同じ値段で~す。」
なんて大声で叫んで、憐れと思った人々に買ってもらって完売したのです。凄い迫力だったと思いますよ。今にして思えば・・・・。さて、学芸会の話です。高校二年生の私達は、歌舞伎キチガイの先生のおかげで、なんと「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」をやることにしたのでした。私は「松王丸」を担当させられたのです。演じたのではありません。担当させられたのですよ。
最後に立ち上がって
「梅は飛び、桜は枯るる世の中に 何とて 松のつれなかるらん」
なんて神妙な顔をして・・・・。思い出しても噴飯物です。父母達の見物客は大拍手をしてくれて、中には涙を流した人もいたのですから迷演技だったのでしょう。
ところが話はもっと驚くことになります。
歳末の助け合いの募金運動の一つとして、この芝居を、お金を取って、町の劇場で演じることになったのです。
私の父は芝居の役者は「川原乞食」だと言って、そんな金を取るようなことは許されないと言ってお下げ髪を松王丸の真似みたいなに結うことにも反対したのです。それでも私は役者を一日だけやらなければならない羽目になって、父には蔑まれながら登校して紫の鉢巻きみたいなものを頭に巻くという扮装をして、劇場の舞台に立ちました。観客は満員です。よほど娯楽に飢えていたんでしょうね。どれくらいのお金が集まったのかなんて関係のないことでした。高校生だからと言うお世辞だったのでしょうが、大拍手を貰い、カーテンコールもしたのです。私は役者になりたいなんて全く思っていなかったですし、思ったこともありません。何故こんなことになったかと言うと、ただただ声が大きくて、恰幅(デブではありませんでした)がいいので迫力だけはあったみたいで選ばれたんですね。
思い起こしてみれば、小学校の時の学芸会でも「足柄山の金太郎の山姥」これはどんなことをやったか忘れました。「かぐやひめ」
ではお爺さん役です。「ばぁさんや、泣かせちゃいけないよ」と大きな声でゆっくり言ったら、見ていた皆がワーッと笑いました。どうして笑ったのか解りませんが、今では多分可愛い(?)お爺さんに見えたのだろうと思えるようになりました。
高校ではこの「寺子屋」の他に、英語劇がありました。「赤頭巾」のオオカミはまことに「適役」だと褒められましたが、やっぱりこれも姿かたちだけでの適役にすぎなかったのだと、今も思って居ます。
ところで、これは別の話ですが、私の高等学校の学芸会には、「活人画」というのを出すのが常でした。先生の中に、演劇通の方がいらっしゃってご指導下さったものだと想像されます。
「活人画」と言うのは、舞台に設えた背景に合うような適切な衣装をつけた何人かが、注意深くポーズをとって、じーっと動 かないで、絵画のような情景を作って見せることです。
西洋ではこれを名画を真似たりして見せて流行した時代があったそうで、最も人気を呼んだのは、十九世紀のヌードの活人画であったと言う記録がありましたが、私達のはヌードではありません。「ひなまつり」とか「花嫁行列」「狐の嫁入り」「運動会」などと言う健康的なもので、BGMを流したり、朗読を流したりしたものでした。BGMや朗読が終わる迄、ピクとも動かないでいなければならないのですから大変な苦行でしたが、面白かったです。
体験のおありの方いらっしゃいませんか。今どきそんな出し物が学芸会で見られることがあるでしょうかしら?あったらユニークで面白いかも知れないと思って居る私です。
終わり
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