かの有名な与謝野晶子の詩
「あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。 」
今日では、戦争に反対する平和希求と、戦場に出てゆく弟の無事を案じた個人の詩とも考えられますが、三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)などと曲解されかねない部分があり、私の体験したあの戦時中には、一般の人々には取り上げられず、秘匿されたような状態だったと思います。
大東亜戦争時代の軍国少女だった私たちが小学校時代に歌わされた文部省唱歌は「母の歌」というのでした。これは今でも覚えていて歌うことが出来ます。
「母の歌」
母こそは 命のいずみ
いとし子を 胸にいだきて
ほほ笑めり 若やかに
うるわしきかな 母の姿
母こそは み国の力
おの子らを いくさの庭に
遠くやり 心勇む
雄々しきかな 母の姿
母こそは 千年の光
人の世の あらんかぎり
地にはゆる 天つ日なり
大いなるかな 母の姿
少女だった私達はこの歌を、母を讃える歌と思い、当然のように納得し、感動し、これを繰り返し繰り返し歌ったのでした。当時の日本は キチガイじみていました。そしてその中で私はすっかり洗脳された小国民として「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」を信じていました。
戦争中は 「産めよ増やせよ」で 戦力となる子供達を生み出すのが母達のつとめとされているような時代でした。
六人の兄妹だった私、近所の友達の家でも子供は賑やかで、互いに面倒を見てもらったり、遊んだりの日々は楽しいものでした。そしてこの歌を誇らしく思い、やがて自分もこんな母になるのだと誓ったものでした。幼かったですね。近所に十二人の子供を持ったお母さんがいて、表彰されたと言う話も感動して聞いたものでした。
当時、高等小学校を卒業して予科練修生になった先輩が一時帰宅したときに、小学校で、予科練習生としての生活を話してくれたことを思い出します。私は小学校六年生でしたから、戦争も終末期となり、この一時帰宅には深い意味があったのでしょうが、私はただ彼の格好良い予科練の七つボタンの制服姿に感動して、多分初恋に似た憧れの感情をもったような気がします。
高等女学校四年生だった姉は「あの時、彼の母が声をあげて、泣いて泣いていたのを見たけれど、なんと言えばいいかわからなかった。今にして思えば・・・」と、戦後になってから話してくれました。
彼は勿論と言えば悪いことでしょうが、その後帰って来なかったのです。私と言えば、列車の窓から白い手袋をはめた手を振り続けていた姿に感激していただけでした。
母こそは み国の力
おの子らを いくさの庭に
遠くやり 心勇む
雄々しきかな 母の姿
と言う「母の歌」に感激していた私。子供の乗った列車を見送って泣いていたその母の心を推し量ることなど出来ない幼さでした。
そしてこの文部省唱歌の作詞者が戦後も多くの作品を発表して、名前のよく知られている野上弥生子であったことを知った時は驚きでした。今では思い出すだけで涙が出ます。
思い返してみますと、当時はこの様な母に激しい愛国の思い?を歌わせた歌は多かったですね。
「軍国の母」
こころ置きなく 祖国のため
名誉の戦死 頼むぞと
泪も見せず 励まして
我が子を送る 朝の駅
などなどが歌わせられていて、中には「愛国子守歌」と言うのもあって、かの有名なクラシック歌手の四谷文子が歌ったとありましたが、一般のお母さんは子供に歌って聞かせるようなものではなかったでしょう。私の記憶にはありません。
今、私は母を通り越してババァになってしまいましたが、こんな歌を「文部省唱歌」として歌わせられ、納得させられていた時代があったのだと思い返しています。
日本では戦中の「産めよ殖やせよ」から、戦後の産児制限時代を過ごし、今は殆どが核家族化して、増加する老齢者の介護、人口減少が当面の問題になっています。そして世界的に見れば、地球が賄いきれなくなりそうなほどに人口が増加しているという現実があります。私が考えてどうなるというものではありませんが、心配になってしまいます。
「母の歌」からかなり脱線してしまいましたが、これからの時代どんなテーマで「母」は歌われ。母は生きて行くのでしょうか。
おわり
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