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田舎の空襲警報

 「空襲」は秋田では本当に珍しいことでした。終戦の日(八月十五日早暁)あの戦争の最後に秋田の土崎が空襲されて、被害甚大だったことは、記録に残ることでしたけれど、私の住んでいるところは空襲を一度も体験していません。夜間の灯火管制だとか防火訓練だとかは真面目に行われていましたが、長閑と言ってもよい生活をして過ごした様に思われます。女学校一年生の入学式の次の日から、鍬を持って登校して勤労奉仕をすると言うことでしたが、それを不思議とも思わすにいた軍国少女でした。通学には防空頭巾と言う綿を入れた頭巾を持参し、救急袋を肩にかけてと言う姿でした。
 「救急袋」は、二十五センチくらいのズックの袋で、肩にかける紐がつけられている手作りのものでした。つい先日、彼方此方を片づけていたら、それが見つかったのです。それには疾うに亡くなってしまった母が作ってくれたもので、白い布に私の名前と学校名を墨で書いて縫い付けてあります。すっかり忘れていた当時のことが、不意に目の前に見える感じに思い出されたのです。
 救急袋の中には。三角巾、包帯、マーキュロ、仁丹、針、糸などが入れられて、その他に食べ物として「干し飯」「炒り豆」などが小さな袋に入れられて入っていました。
 「干し飯」と言ってもご存じない方が多いと思います。炊きあがったご飯をさっと水でさらして、天日でカラカラに乾燥させたものです。私の家では、残ったご飯や、お釜にへばりついているご飯粒を、丁寧に笊に流し入れて、天日にさらしていたと思い出します。第二次世界大戦の時には、保存食として使われたそうで、お湯をかけて蓋をして蒸らすと、普通のおかゆの様になるそうです。でも私達は「ポリポリ」と食べることの方が多かったと思います。
 何の授業を受けていたのかは全く記憶にありませんが、いつもは警戒警報だけで終わっていたのが、その日は突如空襲警報が発せられたのです。私の教室は一階でしたから、皆、窓から飛び出して待避することになっていました。常ならば、そんなことは許されることではありません。まして女学校と言うところでは、厳しい行儀や、立ち居振る舞いなどに注意を払わなければならなかったのですが、空襲警報のときは、そんなことは言って居られないのです。窓から飛び出したことなんかない女学生達の初めての体験でした。そして学校の後ろの田圃のあぜ道を一目散に駆けて、裏山へ避難したのでした。
 空襲警報は、私達の頭上を過ぎて行くアメリカの飛行機の編隊が輝く翼を見せただけで終わったのでしたが、私達は駆け込んだ学校の裏山の杉林のあちこちに坐って、警報の解除を待っていました。
 ただ坐っていたと言う訳ではありません。
 十三歳だった私達の話題が何だったかは思い出せませんが、空襲警報が警報だけであることは、編隊が頭上を飛びすぎたことでわかっていますから、どこが爆撃されるのかしらなどと、話し合うくらいで、のんきにすごしていたと思います。そして、救急袋の中の干し飯の味は素っ気なくとも、丁度いいお菓子みたいで、ポリポリと食べて時間を過ごしていたのでした。
 空襲警報が解除になって、教室へ帰ることになりました。爆撃を受けて大変な思いをなさった地方の方には申し訳ありませんが、帰りはゆっくり歩いて、今度は窓からではなくいつもの入り口から入りました。そこまでは解るのですが、その時に何を勉強していたかと言うことが全然解らないのです。学校だったから、何かを教わっていた筈ですけれど、 何を学んでいたのだったでしょうか。全く記憶していないのは今でも不思議です。
 こんな暢気な空襲警報もあったのでした。                                               おわり

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