高等女学校への距離は八キロ以上ありました。その日、女学校に汽車通学をしている私たちに、学校から「歩いて来い。来ないと欠席になる。」と言う電話の通達が五年生の聖さんの家にあったというのです。確認は出来ませんが、いつもの通学列車に乗るために停車場(駅のことです)に集まっていた私たち八人ばかりは、その通達を聞かされたのでした。電話と言えば、当時は交換手がつなぐ電話で市外局になっているので、そんなに簡単に問い合わせられるものではありませんでしたから、一方的に聞かされたことでした。
それは太平洋戦争敗戦の年の冬です。予想よりも遙かに多い雪だった上に、働き手が軍事に動員され、老人と婦女子ばかりが留守を守っていた時期でしたのだ、線路の除雪が間に合わなず、不通になってしまっていたのです。町を覆い尽くした雪、そして激しい吹雪の上に、長靴がずっぽり埋まってしまう程の積雪だなどと言う現状を、女学校のある町に住む先生たちは知らないのです。
「頑張って行こうな」聖さんは下級生の私たちを励まして出発しました。車が通るわけでもなかった田舎道は除雪もされていないのです。村落と村落の間の道はそれこそ誰かが歩いたらしい足跡を辿って目的地に向かって進むだけでした。
吹雪は止む気配はありません。家並の少しつづく村落にはいると、家の前の道を除雪しているところがありますが、そこをはなれると雪の上の足跡をまた辿って歩くことになります。長靴の上から入り込んだ雪はとけて足をぬらしますが、もう冷たい感覚はありません。何人かの男の人たちとすれ違いました。
「ナント、コノオナゴワラシャダ、ハナタラシテアルッテルモダ。ハハハハ」(なんと、この女の子達、鼻水垂らして歩いているよ。はははは)と、言うのが聞こえました。鼻水が垂れていたのか、涙が出ていたのか、定かではありませんが、そんな状態だったのは確かでしょう。顔も何も、もうどうでもいいと言う位だったのです。
約三時間くらいかかったでしょうか。八キロだと休み無く歩くと二時間くらいで歩けると思う距離なのですが、道なき道を三時間位で、十六、七歳から、十三歳の八人が、誰も落伍をしないでよく歩いたと思い出されます。励まし合い、助け合い、声を掛け合い歩き通したのです。軍国少女だったからでしょう。
はじめのうちはまだ元気で、軍歌「雪の進軍」なんかを歌ったりしたのでしたが、次第にみんな無口になり、うつむいてただただ足を運ぶと言う感じになっていたのでしたけれど。雪の道を八キロ。休み無しです。
女学校のある町に入る頃には雪は止んでいました。町ですから各自の家の前の道路は雪かきをされていて、歩くのが楽にはなっていたのでしょうが、そんなことを感じるよりも、早く学校へ着きたいと言う一心でした。
校門へ入ると、校舎の二階から(一階は雪が積もっていて見えません)沢山の顔が重なり合って、手を振るのが見えました。私達を見つけて玄関から、先生が何人か出て来ました。私たちは着いたことに安堵して、雪の上にばったりと倒れ込み、寝転んで空を見上げました。お昼少し前になっていました。そんな私達に、先生は「頑張ってきたね。偉かった。もういいから、お昼が済んだら、帰るように」と言いました。列車がすこしだけ運行しているのでそれに乗らなければ帰られなくなるそうでした。本当に帰りも歩かなければならないなどと言うことになったら、大変なことになります。どのようにして帰ったか、すっかり忘れてしまいましたが、オシャベリの大好きな年代の私達でも話をする気分にはなれなかったと思います。
今だったら、連絡に携帯電話を使えるし、メールもあるし、それに道路事情もよし、自家用車あり、天候も列車の運行も直ちに解りますから、歩いてくるようになんて言う命令は、絶対にないはずです。当時は命令系統が有線の電話だけ、あとは道路の除雪もなし、自家用車の便なんかは考えることも出来ない時代ですから、こんなことになりました。
このことがあってから二週間ばかり、学校は大雪休み(冬休みとは別)になり、先生が出張して勉強の指導をしたのでした。汽車通学でない生徒たちについてはどうなったのかは、【我関せず焉】と言うところです。そのために成績がよくなったとか、悪くなったとかいうこともなかったことを思い出します。 おわり
左右にスクロールしてご覧下さい