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迷画家?

 一世を風靡したテノール歌手・藤原義江でした。二十八歳のスコットランド人・リードと、下関で活動していた二十三歳の芸者・坂田キクとの間に母キクの実家のある大坂で生まれたあと、九州各地を転々として、義江が七歳くらいの時、現在の臼杵市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、はじめて日本国籍を得ることとなった数奇な人生の始まりでした。一九九八年・明治三十一年のことでした。
 その後、学校にも通わず給仕、丁稚などの薄給仕事に明け暮れ、十一才のとき、リードから養育費がもらえるようになったことで、やっと東京で私立学校へ通うことになったと言うことでした。複雑な育ちが性格に影響を与えて、彼はひどい不 良青年だったそうですよ。どのような経緯を経て、あの名声を得たかと言うことを、私は問題にしていません。
 戦争の時代になる前のことです。彼が田舎の劇場に来て演奏会をひらいたことがありました。すでにテノール歌手として、名声を得ていた彼が田舎を巡業したなどと言うのは失礼かも知れませんが、全国を演奏旅行したそうですから、そのひとつだったのでしょう。私がまだ母の膝に乗っかってハイヤー(当時やっと走り出した賃走の車でした。)で田舎の町の劇場に連れて行って貰ったのです。多分、母が望んだことだったと思います。(父はひどい調子はずれでしたから・・・)私はどちらに似たかは知らなくてもいい事です。
 そのとき、彼の得意とした「鉾をおさめて」と「出船の港」を聞いたのでした。テノール歌手の声は、それまで聞いたことのないのびのびとした迫力があって、幼い耳にも印象深かったのでしょう。記憶に残っています。
 特に「ドントドントドンと波乗りこえて」は今でも聞こえるようです。五才になっていませんでしたのに、記憶って言うのは不思議なものです。繰り返して歌っていたことで消えなかったのでしょうね。皆さまもご存じだったら、一寸歌ってみませんか? 「ドントドントドンと」は気分がいいです。

 今はこの捕鯨船は大問題で、調査捕鯨さえままならぬ時代ですが、当時は鯨油まで利用出来てすばらしい海洋資源だったですね。いいのか悪いのか私には論じることが出来ません。当時、健康サプリメントとしてスゴい臭いの肝油なるものをのまされたと思い出しますがあれは鯨油からつくられたものだったでしょうか。鮫の油だったかしら。         
  ♪鉾をおさめて 日の丸上げて
   胸をドンと打ちゃ 夜明けの風が
   そよろそよろと 身に沁みわたる
   灘の生酒に 肴は鯨
   樽を叩いて 故郷の唄に
   ゆらりゆらりと 日は舞い上る♪

  ♪ドンとドンとドンと 波のり越えて
   一挺(ちょう)二挺三挺 
   八挺櫓(ろ)で飛ばしゃ
   サッとあがった 鯨の汐の
   汐のあちらで 朝日はおどる
   エッサエッサエッサ 押し切る腕は
   見事黒がね その黒がねを
   波はためそと ドンと突きあたる
   ドンとドンとドンと
   ドンと突きあたる♪
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 ここまでは、優雅な話です。この演奏会に一緒に来て歌った女性歌手(名前は知りません)が着けていたのは、オレンジ色の眼もさめるばかりのイブニングドレスでした。田舎者の私は、それにまだ幼かった私は、背中の半分以上もむき出しのイブニングドレスにもうびっくりしてしまったのでした。そしてそれからずーっと、彼女のドレス姿の絵を描き続けたのでした。
 そこまではまだいいのです。妹が生まれるので、祖父母と叔父、叔母達がいる東京の家に約五十日ほど父や母から離れて過ごしたのです。預けられた私は、誰も見ていなかった隙に居間の白壁をカンバスにして、クレヨンで一面にプリマドンナを描き切ってしまったのでした。
 まだ5才にったばかりなのですから、それでも叱られた記憶はないのです。祖父母達は多分ショウガナイと思ったのでしょう。その壁の前に茶箪笥のようなものを移動して見えないようにしていました。
 花束を持って微笑み、握手をしている美しい(子供の絵ですからそう言えるかどうか)プリマドンナのつもりでしたが、赤い口は笑っているようには見えても、大人になってから見ると、なんとも恥ずかしい作品でした。

 あの戦争がありました。東京の私の家は大森ですから、大空襲からはのがれましたが、焼夷弾の油の飛び散ったあと(火は必死の消火作業でとめることができました)が壁に残ったかたちで、燃え残り、古い建物のままで私が大学卒業して結婚するまで建っていました。そして当然ながら、あの大壁画も茶箪笥の陰に健在で、昭和三十五年頃、大正時代からの古い家を改築するまでは残っていたのです。
 私はその時にはもう結婚していましたから、大きな壁画は保存せずに失われてしまいました。ホッ!としました。もう一度見たかったとも思いました。
 あの時、わが家の先達たちが、あの迷画を褒めまくってくれていたら、相変わらすに絵を描きつづけ、今頃は顰蹙を買うような作品をお見せ出来るようになっていたかも知れません。

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