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春の歌

 春を待つているとき、きっと耳にして、歌われる歌は「早春賦」じゃないでしょうか。
 そして 春になればきっと一度は思い出して口にしてしまう「春が来た」ですよね。
「♪春が来た。春が来た。どこに来た。山に来た。里に来た。野にも来た。♪」
 それは卒業謝恩会での出来事です。宴たけなわになったころ、いつもは真面目な優等生が、笑いながら立ち上がって
「それではこれから(タヌキの歌)を歌いますから皆さまもどうぞ」
 と言ったのです。
  「♪たん たん たぬきの○○○○は
    風もないのに ぶーらぶら
    それを見ていた 親だぬき
    おなかをかかえて わっはっは♪」
 を歌いだすのかと、花はずかしい乙女達は想像して一緒に歌ってもいいなと思ったりして大拍手。
 そんな私たちの前で、彼女は笑いもせず、堂々と歌いだしました。

  「♪ はるがきぃ  はるがきぃ  
     どこにきぃ  やまにきぃ    さとにきぃ  のにもきぃ♪」

 オソマツサマでした。マイッタ。マイッタです。そうですね。真面目な「タ抜き」の歌でした。これで大笑いしたあとで、はしたないことに、先ほどの「正調・タヌキの唄」を女学生達がうたって楽しんだのですヨ。何故かみんなその「正調。タヌキの唄」を知っていましたから呆れますね。
 先に歌った優等生も、そうなることを予期していたのでしょうから呆れたものでしょ。 殿方には、そんな女学生をご想像いただきましょう。そんなはしたない思い出も時効ですからね。それ以来、私たちの会話ではしばらく「タ抜き」言葉 が流行しました。
 それを引きずっている私は、時折「タカラクジ」を買ってみたりしますが、それがみんな化けるのですね。まことに巧みな「タヌキ」何しろタヌキですから、救いようもありません。
 ところで、これに付随して思うのですが、この歌の2番と3番を「クナシ(苦なし)」で歌うと、「しあわせの歌」になると思いませんか。「 花が咲く」と「鳥が鳴く」ですから如何でしょう。
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 閑話休題というところで、
 昭和十二年NHKラジオで発表された「春の唄」古い唄ですのに何故か知らない希望に満ちて聞こえて明るく楽しく歌ったものなのでしたけれど、結婚してから、夫に聞いたエピソードによって少し思いが変わりました。

 中学生だった主人は 相模原の造兵工廠に遠く秋田から動員されていたそうです。
 中学四年・十六歳から五年・十七歳の少年たちのことです。昭和二十年、敗戦の年。三月の東京大空襲で空が焼けるのを遠く望んだと言っていました。
 空襲警報がしょっちゅうで、空襲警報があると、みんな布団をかぶって息をひそめていたと言います。造兵工廠は爆撃の目標になりかねないところです。布団をかぶったところで爆撃を逃れることはできないわけですが、それが精一杯のことだったのでしょうね。
 詳しいことはあまり話したがらないし、忘れたなどと話をはぐらかします。

 空襲のとき、一緒に布団を被って息をひそめていた、友だちのT君が不意に歌いだしたのがこの「春の唄」だったそうなのです。外では機銃掃射の音がしていたと言います。

  「♪ラララ あかい花束車に積んで
    春が来た来た 丘から町へ
    すみれ買いましょ あの花売りの
    可愛い瞳に 春のゆめ
    ラララ 青い野菜も市場に着いて
    春が来た来た 村から町へ
    朝の買物 あの新妻の
    籠にあふれた 春の色 ♪」

 恐怖の中で、この唄をうたった少年たちです。その思いはどんなだったのか想像出来ませんが、切なくて涙がでます。

 彼らは卒業式を工場の片隅で行い、それぞれの進路へ向かったわけです。
 当時の教師達のすすめで陸軍士官学校、海軍兵学校、また特攻隊、予科練へと進んだ同級生が多かったそうです。ろくな勉強をしなかったと主人は言いました。英語を勉強していると、敵性語を学ぶとは何事だなどといって殴られたこともあったとか。世界の情報をた
 だちに得られる今だったら、笑い話にもならない呆れた話でした。
 散華した同級生、戦後の退廃のなかで行方不明になった同級生も幾人か。そして幸いにしていままでを無事に過ごし、時折集まって思い出を語る同級生も今では歴とした老人の仲間です。毎年何人かの訃報を聞き、すっかり人数が減って来ました。
 お葬式の弔辞には必ず動員時代の思い出、そして散華した同級生の思い出が入ります。
 夫の話を聞いた後で、明るく楽しく希望に満ちた「春の唄」をうたったり、聞いたりする時に、彼らの胸に去来しただろう言いようもない感情をしみじみと思わせられるようになった私です。

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