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百人一首

 毎年、百人一首のキングやクイーンが選ばれますが、(王とか女王と言わないのは何故でしょうか?)今日百人一首はメジャーな遊びではなくなりました。幼い頃の思い出のなかにある百人一首には、いつもあたたかな雪が降っています。テレビも個人のラジオもなかった時代です。実家では百人一首が女達の公認の娯楽でした。
 いつもは厳格で煙たい存在であった祖父までが、百人一首に限っては読み手になったくれたりしたのです。祖母、母、叔母達、姉と女達の多い家族でした。お正月頃は必ず雪が積もっていて、外は静かです。車もなし、時折馬橇が鈴を鳴らして町を通るだけです。
 その当時の百人一首は、今のように標準的なひらがなのものではなくて、変体仮名で筆で書いてあるものでした。どの一枚もそれぞれに特徴がありました。「しづこころなく・・・」の「し」はことに大きく「志」の崩し字でしたし、「しるもしらぬも・・・」はくにゃくにゃと細い針金が曲がったように四行に連ねて書いてあったなどと思い出します。多分誰もが全ての取り札の文字を判然と読み取ってはいなかったのではないかと思います。
 みんな条件反射のような感じでとりあっていたような気がします。たった四歳くらいの私が仲間にいれてもらっていたのですから・・・。それとも入れないとうるさかったからなのでしょうか。
 取り札の中で印象的なのは「ねやのひまさへ・・・」で、これは「ね」がとても大きく書かれてありました。「よしののさとに・・・」の「よ」はやっと書けるようになった私の名前の頭文字です。その二枚を特に膝の前に揃えて、いまかいまかと詠まれるのをまっているのです。
 それを誰かがとるとワーワー泣いたのです。読み手の祖母は小さな声で「よっこのおはこ」とみんなに声をかけてから読むことになっていました。
 そんないい加減な取り方でも、うまくとるとみんなが「スゴイ、スゴイ」とほめてくれたのです。「ものやおもうと・・・」「しのぶることの・・・」など、そんな取り札が私の前に増えてゆきましたが、そのほとんどが激しくも切ない恋の歌だったと思い出されます。
 母の十八番は「かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしもしらじなもゆるおもひを」でした。「坊主めくり」も単純ですが、楽しいものでした。「姫」は長い黒髪、十二単衣、顔が小さくうつむき加減に描かれていて、優雅でかすかに憂いを秘めた表情が幼い心にも響くものでした。小野小町だけは後ろ向き。あまりに美しくて顔を描けなかったという話は有名ですが、祖母の呟くような話しぶりで語られると何だか切ないものがありました。 
 付け足しの話ですが、小野小町は秋田美人だと言うことになっています。それも私の実家の近くのうまれということになっているのです。もしかして彼女のDNAの一カ所くらいは私の中にもあるかしらなどと、いつも笑い話にしているのですけれど、これは信じがたいことです。
 「坊主」のなかでは「蝉丸」が一番嫌いな坊主でした。落花生の殻のような頭巾をかぶっていて、頭を見せませんから坊主ではないように見えます。「ワー、それはボズ」と指摘されて、ため込んだ札を全部はき出させます。
 祖母はいつも針仕事をしながら、学校に上がる前の私の退屈につきあって坊主めくりをして遊んでくれたものでした。その祖母が長く病んで亡くなったのは一月の十九日でした。 
 当時すでに嫁いでいたのでしたが、病状が篤くなったとのことで、実家に帰っていました。叔母達もみんな来ていて、代わる代わる病床についていました。みんな言葉少なく、暗い何日かが続きました。四年前に亡くなった祖父の命日が一月十八日でしたから、もしかしたら同じ日に逝くのではないかしらと、言葉にはしないけれど辛い想像をしていたのでした。
 その日が来て呼吸の止まるのを待つばかりになっている祖母を見守ってその夜を過ごしたのです。夜中の十二時が過ぎると、叔母の一人が「とうとう迎えに来てくれなかったらしいね」と呟いたのを思い出します。でもそれから二時間と十五分を経て祖母は静かに息を引き取ったのでした。
 決まりの通りに祭壇が飾られ、真実言ってみんなほっとした気分になったいたと思います。夜が更けて、お悔やみに来たお客様も「大雪だな。明日は積もるな」などといいながら帰ってゆきました。日中から降り続いた雪がやまずに降っています。雪が積もると物音を吸収するのでしょうか。ストーブの音だけが聞こえるようでした。
 あのとき「百人一首をやりましょう」と言い出したのは誰だったか解りません。叔母たち四人、私たち姉妹四人のみんなが祖母を読み手として百人一首を楽しんで育ったものばかりです。
 いつも歌留多をしまってある違い棚の上の小棚から、あの古い一組と、新しい一組を取り出して祭壇の前にひろげました。 新しい一組は私たち姉妹が大きくなってから買って貰ったもので、標準歌留多です。「お祖母さんは百人一首が好きだったから、こうして遊んだらきっと喜ぶと思うよ」と叔母の一人が言うと、みんなが頷きました。
 母をよんで来て読み手になったもらうことになりました。父は私たちが祭壇の前に歌留多をひろげているのをみて、一瞬憮然としたようでしたが、何も言いませんでした。「散らし」で二組の座をつくって八人が坐りました。
「いにしへのならのみやこのやへざくらけふここのへににほひぬるかな」
 華やかな春の一枚から始められました。叔母たちも私たちも嫁いでから久しく遊ぶことのなかった歌留多でしたのに、歌の世界に心が穏やかに添ってゆくのを感じていました。そして、「はい」と言ってとる声も何となく違っていました。競い合ってとろうとする気持ちが湧かなかったのです。
 祭壇の上から祖母の写真が穏やかな微笑をたたえて私たちを見下ろしていました。祖母は本当に昔風な人で、和歌が大好きでした。一度だけだけれども九条武子さんに歌を見ていただいたことがあると、本当かどうかはわかりませんが、話していたことがありました。
 読み手となったときは、一枚一枚、味わうように丁寧に読んでくれました。訛がつよくて、発音が悪いのをみんながからかって笑ったりもしましたけれど、その声をもう聞くことがなくなったのです。とても静かに歌留多はとられてゆきました。
 「かささぎのわたせるはしにおくしものしろきをみればよぞふけにける」「ももしきやふるきのきばのしのぶにもなほあまりあるむかしなりけり」最後の一枚を誰がとったのだったでしょうか。みんな黙々として歌留多を箱に収めました。
 しーんと鎮まりかえった夜更けです。雪はまだ降りつづいているようでした。
 あの夜の百人一首は祖母の魂を慰めたに違いないと思います。あれからまた随分長い年月が経ちました。

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